第17話邂逅と恐怖と叫び

 「おいおい、楽しみだなぁ。その包丁とやらが見えたらどうするよ? エクスカリバーみたく引き抜いて、勇者でも自称するか?」

 そうして俺らはその後、言葉巧みに現場の見学を誘う剞鞨――さんを付けられると気持ち悪いということで、呼び捨てを許可された――の話術に成す術なく、学校を飛び出し、その現場へと向かっている。

 時刻は五時を回ったばかり。

 夏という季節のおかげで、未だに景色に闇が作られることはなく、俺らはこうして不用心に怪談の類へと飛び込んでいけるというわけだ。これが夜とかだったら、決してその場には近づかないことを誓う。

 正直、“昼間だから”という事実が俺らを突き動かしていると言っても過言じゃない。

 警察でも手を焼いている殺人鬼に、自ら近づこうとは思わない。

 しかし、好奇心というものは抗い難い。人類を最も人類たらしめるのは、欲求と好奇心である。

 普段の生活の中では、中々刺激というものは味わえない。ありきたりな日々の中には、繰り返しの作業が数多く含まれており、無意識の中に時間が過ぎ去っていくことが多いのだ。それが思考の停滞を生む。

 故に、目の前に刺激をぶら下げられると、飛びつきたくなる衝動が人の中にはある。現状を打ち破るものを、停滞を打ち砕くものを、人は求めてやまない。

 年を取ったりするとリスクを取ることに躊躇いがちになるが、しかし、俺らは高校一年生。その純真さは赤子のよう。さながら、赤子のようなのよ。

 俺らの中には、反対意見を出すものがいなかった。

 この場合、反対できなかったというのが正しいのか。

 どこかで、触れたかったのだろう。深淵に。

 どこかで垣間見たかったのだろう。世界の秘密を。

 動機は不純で、行動は不謹慎かもしれない。

 だが、決して誰彼を馬鹿にしたわけでもなく。

 この事件が、俺らの行動が、どこへ連れて行ってくれるのかは分からない。

しかし、俺らはこの日、見つけることになる。いや、見つかってしまったのか。

 夜に。闇に。世界に。

 ところで、剞鞨は特にテンションが高い。

 こうした事件の類には、すぐ首を突っ込みたくなる質らしい。

 今も「凶器を引き抜けたら、それは実体の証明ってことになんのかねぇ?」と笑顔が止まらない。

 「もしも犯人と鉢合ったらどうするんだよ」

 「そんときゃ煙のように消えてくれることを願うしかないだろーさ。何なら、息でも吹きかけてみるか? せーのでな」

 もしもの話にも、いつも通りの雰囲気を崩さない。

 そのもしもの話は、人生を分岐する上でかなりの重要な割合を占めると思うのだが、しかし、これでは彼女にとってはどこ吹く風であろう。

 「でも、本当に一体どういうことなんだろうね。ただの錯覚かなぁ?」

 「錯覚にしてはちょいとおかしい気がするがなぁ。よりにもよって見えてんのは凶器の包丁だろ? こんなときは犯人の後姿とか、そんなものを見そうな気がするが」

 冬冬狼の回答は、実にごもっともだと思う。

 よりにもよって、今回ごく一部の人が見えたと主張していたのは、その場で微動だにしない、無機物の包丁であるのだ。

 一瞬、何か模様のようなものが人の顔に見えたりするような錯覚はあるかもしれないが、今回の対象は間近で見える、それも触ることさえできる距離の物なのである。

 錯覚という考えはし難いのではないか。

 「剞鞨、その包丁ってのは、見えた人は触れたのか?」

 そして何より、この問題である。

 触ることが出来たのならば、それは剞鞨の言うように、実体としての証明の足がかかりになるかもしれない。

 見える人が触れるならば、見えない人もその位置を手探りで探してみると、触れることが出来るのではないか。それはそれで、別の問題が見えてくるが、とりあえず、実体の有無ということで。

 「いんや、それがとんと分からねぇんだ。色々情報が交錯しててな。どれが正しくてどれが間違ってんのか分かりゃしねぇ」

 「それだったら、その包丁の話自体がガセネタってこともあるんじゃないの?」

 久遠の指摘は至極正しい。

 SNSやネットの海に浮かぶ掲示板などで情報収集を試みたのならば、そもそもが根本から偽物の可能性もある。むしろ、話の規模からしてそちらの可能性の方が高い。

 そもそも、正しいのか間違っているかの判断が付きにくいのだ。

 その情報の真偽を測るためにも情報を集める必要があるが、インターネットしか収集ツールがないとしたら、結局どこまで行っても堂々巡りなのだ。

 引用文献としては、ネットの情報の信頼度は薄い。

 しかし、剞鞨は強く首を横に振ってみせた。

 「いや、そっちに関しては恐らく正しい」

 そっちの情報を調べる上での伝手がある、と彼女は空の太陽を鬱陶しく睨みながら言う。

 「もし包丁が見える人にしか触れないってことになると、いよいよオカルト染みてくるな」

 「確かに、そもそも包丁を残す真意も分からねぇしな」

 「そういう主義を持っている人かも」

 「もしくは捕まらねぇ自信がある、とかな」

 冬冬狼に端を発する会話が、一度収まる。

 目的地の夜蹴橋周辺まで、歩いて行くと、急に住宅街が途切れる地点がある。そこから広がるのは田んぼや畑の群れに、その中にポツンと佇むように存在する大きな公園だけである。

 街灯が等間隔か怪しい程度に広く間を開けてポツポツと立っており、目の前に広がる風景を、電柱から伸びる電線が乱雑に切り取っている。

 大きな入道雲が遠くに見え、遠近法をもってしてもその圧倒的なスケールは絶大な存在感を示し、自然の驚異を存分に与えてくれる。田畑の緑は日差しをたっぷりと浴びて、その緑の衣を深める。風がない夏の午後、緑たちや電線の黒も茹だるように目を閉じ、時折細やかに吹く風に、目を見開いて踊り狂う。

 怖くなるくらいに、真っ青だ。頭上、広漠とした空は、青い光が散乱するからそうあるのだという。

 散乱され飛び散った青色は、どこへと飛び交っていくのか。

 答えを告げる風も、今は吹いてはいない。



 「橋の近くってどこらへんだ? もうそろそろ橋が見えてきてもおかしくねぇ地点に差し掛かるが……。もうその現場ってのは近いのか?」

 結構な距離を歩いてきたように思う。

 夏の日差しもあって、距離以上に精神の疲れの方が大きいのかもしれない。帰りの距離も考えると少し億劫である。

 「橋の御膝元ぐらいまでは行くぞ。なに、大丈夫だ。現場を見れば、そんな太陽の鬱陶しさなんて奴はすぐ黙り込む」

 まだ少し距離があるな、と文句を垂れる冬冬狼。

 俺はどうせそんなことだろうと予想はしていたから、多少は怠いと感じる心を抑えることが出来たが、しかし、だからといって物理的な距離が縮まるわけでもない。

 やはり俺も、少し距離があるな、と感じるのだった。

 「その現場とやらに近づく人間はどれだけいるんだろうな? 噂が飛び交ってるぐらいなら、結構な人数が行ってみたりしそうなもんだけど」

 「物騒で不気味な場所にはやっぱり近づかないんじゃねぇか? 人伝に聞いたものに脚色とか尾ひれとか付け加えて噂流してるかもしれねぇし。“もしも”があったら怖いしな」

 「包丁が見えたらどうしよう、とかね。犯人は現場に戻ってくるとか言うし」

 久遠が余計に物騒なことを口走る。

 しかし、“もしも”を考えるならば、久遠のいうこともこれから起こり得るのだ。

 犯人は、自分が為した事の大きさを周りの人間がどう評価するかによって感じる。もし、今回のオカルトチック現象が犯人が与り知らぬことであっても、事件の噂が大きく立てば、それを見に来た野次馬の反応を見に来ることもあるかもしれない。

 これらはすべて愉快犯の性質かもしれないが、“もしも”故に、その可能性もある。

 「それは最悪のパターンだな。野次馬と会話して、実はそいつが犯人でしたとか、漫画やドラマだけの話にしてほしいもんだ」

 考えるだけで憂鬱である。

 楽しそうに口を開き、煽る冬冬狼。

 「事実は小説よりも奇なりって言ってな」

 「そうは言うが、絶対に小説の方が奇だと思うがな。そう簡単にポンポン奇跡や歴史の転換点は見つからねぇ」

 「それこそ、今回のオカルト騒ぎもね」

 「残念ながら、今回は言葉通りのビックリショーが見られるかもしれねぇぜ。バジは顎外れないように手で押さえときな」

 それぞれが肝が据わっているのか、それとも単にそういった類に鈍感なのか、はたまた救い難い馬鹿なのか。例の現場に近づくにつれて会話が加速したり、語気が荒くなったりといったことはなく、普段通りの心持で俺らは深淵に到達しようとしていた。

 一般に、心を揺さぶる何かを目の前にすると、心の高ぶりのままに冷静さを失ったり、今回の件のようにオカルト絡みのパターンで言うと、心霊スポットに近づくにつれて恐怖を誤魔化すためにわざと大声を張り上げて心の安寧を測ったりするらしい。

 恐怖から目を反らし、あたかも普段通りを装って。心の海が荒れているのは、今まさに友達としゃべり倒しているからだと暗示をかけて。

 しかし、こいつら、もとい、俺はどうだろうか。

 自分でも鈍感すぎるのではないかと心配になったが、時刻を改めて考えてみても、さらに、こちらの人数や見晴らしの良すぎる場所を考えてみても、こちらに必要以上の恐怖を植え付ける環境が皆無であった。

 故に、普段通りでいられるのだろうなと、そう思った。

 雲の流れと平行するようにして、歩みを進める。

 見上げると、何だか暑さを忘れて、どこまでも吸い込まれそうな感覚に陥る。

 刹那。

 無表情で悠然としていた雲が、一瞬、こちらに向けて大きく嗤うように顔尾を歪ませた気がした。

 錯覚を疑ったと同時に、強い一陣の風が、俺らを駆け抜けた。

 重く、何かを孕んだような、風だった。

 風が去った後、目の前の空気が、少し黒くなった気がした。

 冬冬狼は何食わぬ顔、久遠はどこか遠くを見ていた。

 そして剞鞨は、ギラギラと笑っていた。


                 ●


 俺らは橋を目指した。

 例の夜蹴橋は、田畑から伸びる一直線の道の先に、小さく見ることが出来る。

俺らの住む町は少し都会の外れにあり、田畑を歩いていると、田畑のような緑が姿をほとんど消し、コンクリートの灰色にすげ変わる瞬間がある。

 そして、遠くにポツポツと点の様に見えていた田舎に不釣り合いの色の集合体が、ここまでくると、俺らの町にはないビルの群れだということが分かり始める。

 橋目前まで歩を進めると、立派に舗装された道が大地を覆い、大きな建物の群生が空を目指すように立ち並ぶ姿が観察できる。街灯も景観を重視したお洒落なものへとグレードアップし、綺麗に髪の毛を整えられたモデルのような街路樹が視界に映るようになる。

 車の走る音がよく聞こえ始めるのもこの地点からであり、要は、近代化を露骨に感じ始める境界線のようなものだ。

 コンクリートも道の端に黄色の視覚に難のある人々のための誘導ブロックを装備し、歩道用と車線が明確に別れ始める。信号に関しても、色の切り替わる瞬間に音が鳴るタイプのものがよく見られるようになり、俺ら田舎の民を驚かせるのもこの境界線から先の話だ。

 それらの真っただ中を歩き始めると、橋はもう、すぐそこにある。



 「見えてきたな……。橋の近くってことは、現場もそろそろか?」

 「あぁ、血の臭いが誘ってくるだろ? だが、バジよ。今回は趣向を凝らして、被害者が逃げたと思われるルートを辿って現場に行ってみようぜ」

 その方が、より感じやすくなるだろうさ、と剞鞨は笑った。

 そして、車が車道を駆け抜けていくのを横目に、俺らは橋へと到着した。

 結構な距離を歩いたために、汗は額から次々に生まれ、頬を流れ落ちていく。落ちた雫は地面にシミを作ったが、すぐに蒸発して無くなった。

 はっきりと端的に言えば、疲れた。

 早く現場に行って、何もないことを確認して、夏特有の心霊騒ぎという結論に辿りつきたい。

 「さぁ、ここだ。ここで男は何かに追われていた。男かも知んねぇ、女かも知んねぇ、何故なら消えちまったからな」

 煙のように、幽霊のように。

 そう言って剞鞨はコンクリートの地面を靴でコンコンと鳴らす。

 「男は刺された腕を抑えながら、痛みに耐えつつ更に逃走。この橋を抜けるように、あたしらの町の方向へと死に物狂いで駆けた」

 俺らはそれをなぞるように、歩き出す。

 「男を襲ったのは痛み以上に、恐怖だっただろうぜ――」


 ――こんな場所なのに、誰一人として通行人が居なかったんだからな――


 周りに視線を泳がす。

 絶えず車は走り、行き交う人々も何人も観察できる。夜になっても変わることはないだろう。そんな喧騒が、ここにはあった。

 故に、不可思議でならない。

 「誰も犯人を見ちゃいない、足取りすら掴めない」


 ――犯行に使用された凶器も、見つかっていないことになってる――


 「死に体で男は走った。逃げるために。死なないために。生きるために」

橋を抜ける。

 向こう側へと続くのは、舗装された道路と、その部分部分を照らすように設置された街灯と、遠くにひっそりと手を繋ぐ住宅街の影だけ。

 「だが、その願いは叶わなかった。男は追いつかれ、そして、殺されたんだ」


 ――その、包丁で首を一突きさ――


 橋を抜けてから少し。

 道路から少し外れるようにして、包丁が、コンクリートに深く、刺さっていた。


                  ●


 それは、不吉だった。

 それは、凶悪だった。

 それは、災禍を掻き集めて煮詰めたような存在感だった。

 それは、地獄を握り潰して火を付けたような臭気だった。

 どこまでも、破綻していた。

 果てしなく、不条理だった。

 負の奇跡のような正体不明なもので、景色が沸騰する程の世界の歪みで、抑揚のない悲鳴のような不気味さを孕んでいて、死を呼び込み続ける邪悪だった。

 陳腐な冗談のようでいて、風景に固定されていて。

 馬鹿馬鹿しい夢のようでいて、現実に息衝いていて。

 否定するとか、反論するだとか、目を閉じるとか、目を反らすだとか。

そんな一切を許さない、既に出来上がってしまっている、出尽くしてしまっている、純然たる結果だった。

 灰色に舗装された道路に、ポツンと、一つ。

 その一見寂しげに映る景色が、どこまでも底冷えする程に、慄然とする惨害を表していた。

 景色に急に紛れ込んだ、世界の悲鳴。

 刺さる切っ先は大地を引き裂き、消えぬ爪痕を刻んでいる。

 流れてくる空気すらも斬り結ぶ刃身は、眼球が焼かれる程に、綺麗だった。

 景色に佇む、世界の特異点。それを前に俺たちは、何事も口に出すことはできなかった。

 いや、呼吸さえ忘れ、その場に立ち尽くした。

 峻烈だった。そして、神秘的なまでに、劇毒だった。

 「おい……、俺には……、見えるぞ。突き刺さった、包丁が……」

 辛うじて、言葉を紡ぐ。

 肺から逃げていく空気は気管を焼くほどの熱を持っているのに、口にした瞬間、凍りつく程の気温を生んだ。

 改めて、目の前にある惨劇を理解したのだ。

 俺は、腐臭すら放つ舞台に立たされているのだと、改めて理解させられたのだ。

 「俺にも……、見える。ありふれたものなのに、どこまでも異質な、異様な、そんなものが……」

 街の喧騒が、聞こえない。

 日常の奏でる音階が、悉く、死んでいる。

 足元が、おぼつかない。遥か上空から突き落とされたような、吐き気のする浮遊感が襲う。

 もちろん、そこに幾重もの風を切る感触などない。しかし、内臓が飛び出しそうな不快感を、身体が信じて疑わなかった。心がそう信じて、止めなかった。

 街行く人は、見向きもしない。

 街行く人は、気にも留めない。

 こんなにも、瓦解しているのに。

 こんなにも、逸脱しているのに。

 笑ってくれよ。それは何でもないんだって。

 教えてくれよ。それはそういうもんだって。

 滑稽な主張を許すほどに、俺は、これを言及した何かを渇望していた。

 足を止めてくれ。指をさしてくれ。写真を撮ってくれ。屈みこんで観察してくれ。

 誰か、これを認識してくれ。この壮絶な破滅を、誰か、見つけてくれ。

 「あれは、何なの?」

 久遠が、指をさし、問う。

 根幹を、真髄を。あの包丁が、一体、何なのかを。

 「市販の包丁が、たまたま偶然であの場所に刺さりましたって言やぁ、お前らは楽になるか? なぁんだ、じゃあ良かった良かったって、手ぇ叩いて、明日には友達と仲良しこよしで黒板に向かえるか? そうだとすりゃ、あたしの次の句も、変わってくるぜ」

 剞鞨の目が、俺と冬冬狼を射抜く。

 この件から身を引くか否かを、彼女は問いかけているのだ。

 非日常を、世界の裏側を、物語の深淵を、その一端を覗いた俺らが戻れるかは分からない。いや、完全に帰ってくることは叶わないのだろう。時間は歴史を生み、過去を作るが、一度ついてしまった汚れは、決して拭うことは出来ない。一度傷付いてしまった視界は、二度と回復することはない。

 時間は、何も解決しないのだ。人に整理を付けさせるだけだ。

 では、整理の付かない事柄ならば、どうか。答えるまでもない。結論を出すまでもない。

 感情が一度認めてしまったら、引き返すことは出来ない。

 心が降参してしまえば、立ち上がることはもう、出来ない。

 「いや、乗り掛かった舟だ。かなり雰囲気にビビったが……、ここで引き返したところで結局、また戻ってきそうな気はするぜ」

 「あぁ、何ならあれを引き抜いてやるぐらいの気概はある」

 「残念だったね、剞鞨さん。こいつらは、ただの馬鹿じゃないんだよ。自ら救いから走り去る馬鹿、後悔に向かって中指を立てる阿呆、そして、全力で今を生きる変態なんだよ」

 だから、心配はいらないかも、と久遠は笑った。

 確かに、あの包丁は異様だ。異端の極みみたいな存在だ。

 あんなに殺気立った、無機物の静止体を見たことはない。

 だから、見たい。

 だから、聞きたい。

 だからこそ、知りたい。

 黒い影の中には、こんなにも戦火に塗れた烈火のようなヘドロが漂っているのかと。

 暗い溜息の果てには、そんなにも溺れるような猟奇的亡霊が住んでいるのかと。

 千切られ捥がれた骨肉の痕には、あんなに肥大化した激烈な齟齬が眠るのかと。

 なるほど、自ら救いから走り去る馬鹿とは、言い得て妙なのかもしれない。

 しかし、馬鹿と天才は紙一重と聞く。

 この何事にも立ち向かう姿勢こそが、既存の常識を打ち破り、世界に革新をもたらす秘訣だと思いたい。この諦めずに問題を睨み続ける視線こそが、人々の輝かしい希望となり、世界を変革する極意だと願いたい。

 思いたい。願いたい。……頼むっ。……よろしくっ。

 救いとは、隣に拘束しておくものではない。寄り掛かって、いつでも取り出せるように首輪を繋いでおくものではない。

 救いとは、自らの力いっぱいの足掻きの中で、差し込む一筋の光なのだ。敬虔で不断なく祈り続けた果てに待つ、一縷の望みなのだ。

 そんないつでも頼ってしまうような、遠心力で振りかざせる力なんぞは、こちらから願い下げである。

 そして、救いとは、現状打開の切り札ではあるが、圧倒的奇跡の前では、そこに自分の力は介在しない。自分の微々たる矮小な力では、視界を覆うような光の中では、ただの影にしかならないのだ。

 扱いきれない力は、自らを滅ぼす方向に作用する。

 故に、救いからは逃げ出すのが……、あれ、違うな。

 いや、危なくなったらシンプルに助けて欲しいな。

 五体投地で擦り寄ることも、財産を投げうつことも厭わないから、救ってほしいな。

 うん、やっぱりさっきのなしだな。

 俺、これから、ちゃんと救いを胸に抱いて離さないわ。

 「おい、ちゃんと救えよ」

 「女子に救いを求めるとは……、バジも落ちたものだなぁ。おい剞鞨、救わなくていいからちゃんとかくまえよ」

 「同じ穴の狢のクソ野郎だね」

 「馬の尻尾にでも首輪繋げてやろうか」

 こんな雰囲気ではあるが、目の前にあるのは人を殺めた凶器である。しかも、どうもオカルト的な要素が過分に含まれているらしい。正直、俺にはこれをどう受け止めればいいのか皆目見当もつかなかった。

 明らかに、醸し出す空気といい、そもそもの形状といい、人に害を与えるものでしかないことは理解できる。

 「んで、話は戻るが……、これは一体、何なんだ」

 「その問いは、もう後戻りはしねぇってことでいいな?」

 悪戯がましく笑う剞鞨に、俺らは頷きを返す。

 こうして俺らは、自ら退路を断った。


                   ●


 「これは、都市伝説だ」

 剞鞨は、包丁を視界の中央に収めながら、そう言葉を落とした。

 「都市伝説?」

 俺と冬冬狼の声が重なる。

 「あぁ、お前らも一度や二度は聞いたことあるだろ? 最初は軽い噂だったものが、爆発的な感染力を持って人々に恐怖を植え付けた、あの、都市伝説だ」

 「それは、お前が部室で言っていた――」

 その時だった。

 それは唐突に訪れた。

 それは自然災害に似た、人間が抗うことも出来ずに、ただひたすら被害者に徹することを強いられるような、そんな巨大な力だった。

 ただ繰り広げられる惨劇に、目を瞑るしか選択肢のないような、自らの力の小ささを強く突き付けられる衝撃だった。

 唐突故に、呆然として。唐突故に、余すところなく、すべてを感じた。


 「私、綺麗?」


 果てしない激情を湛えながらも、鼓動を止める程の凛冽たる弾奏。

 鼓膜を腐食させるような、どす黒く底のない断末魔じみた喝采。

 そう思わせる、酷く擦れた声が、俺らに降りかかった。

 俺らは例の、包丁を見ていた。その声は、そんな俺らの、後ろから響いた。

 誰も、動くことはできなかった。

 剞鞨は、こいつが犯人だってことを恐らく知っていたんだろう。判然とはしていなくても、漠然とした見当ぐらいはついていたはずだ。

 だが、その剞鞨の動きも、凍りついていた。

 俺や冬冬狼、久遠なんかは、言うまでもない。


 「ねぇ、私、綺麗?」


 迫るように、追い詰めるように、その声が再び俺らに掛けられる。

 しかし、その二度目のおかげで、俺らはようやく、体勢を立て直すことが出来た。

 俺らは包丁を背にするようにして、ソイツと対面した。

 ソイツは、立っていた。悠然と、俺らの前に。

 それぞれが意思を持つように、統率の全く取れていないボサボサの黒髪。視線で人が殺せる程の激烈な恨みを孕んだような、限界まで大きく見開かれた目。顔の大半を覆い尽くす、ところどころが黒染みた巨大なマスク。そして、身体全体をすっぽりと覆ってしまっている、目の覚めるような、鮮血に似た、真っ赤なレインコート。

 「口裂け……女……」

 まさに、都市伝説が、立っていた。

 全く意味が分からない。

 一切現状が理解できない。

 目の前の出来事が信じられない。

 何が起こっている? 何があった? 何がこうさせた? 何故? 何故? 何故?

 いくら問いかけても、いくら現状から離れようとしても、いくら現在を否定しようとも、その姿が掻き消えることは終ぞなかった。

 いや、理解しているのだ。分かってしまっているのだ。

 どうしようもなく、これは現実なのだと。

 逸らすことは許されない。今更なかったことには出来ない。これは、夢ではない。

 目の前の存在は、実在するのだと。

 強烈な今が、俺らの前にはあった。

 「何で、こんなにも……!」

 久遠が、小さく叫ぶ。

 「あり得ねぇ、早すぎる……! それだけ拡散ってのは……!」

 剞鞨は後悔するような叫び声を上げた。

 「おいおい、どうすりゃいい! こんなんどうにもできねぇぞ!」

 そうだ。どうしようもない。

 だが、逃げる? 逃げられるのか?

 そもそも、街の人は? こいつさえ見えないのか?

 口裂け女らしきヤツの後ろに広がる景色へと、素早く焦点を合わせた。

 そこには、俺の希望とは違う光景があった。

 人が、いないのだ。車も、通ってない。

 生き物の、気配がしない。誰も、いない。何も、いない。

 全てが死に絶えてしまったような、全てが舞台から引きずり降ろされたような。

 無機質な風景だけが、そこにはあった。

 「何なんだよ、コレ……! おいおいおいおい、何なんだよぉ!」

 焦りだけが、募っていく。

 腕は殴りつけるようなプレッシャーに完全に委縮し、カタカタと震えている。手汗が生温い温度を主張し、酷く気持ちが悪い。呼吸が浅い。上手く酸素を取り込めない。思考が働かない。打開策などない。足が上手く踏み出せない。このままでは不味い。視線がソイツから離せない。

 死にたくない。死にたくない。

 そして遂に、ソイツが俺らの返事を我慢できなくなったのか、首をグリングリンと回しだし、ケタケタと嗤い始めた。

 不気味だ。異様だ。怖い。恐い。

 「あぁ、あぁぁぁ、あぁあぁあぁあぁああああああああああああああああああああああ」

 ケタケタと嗤っていた声は、次第にただの耳ざわりな雑音へと姿を変えた。首の動きも、それに合わせるように加速し、小刻みになる。

 動いているのは、首だけだ。呼応するように髪の毛も踊り狂ってはいるが、コイツが自らの意思で動かしているのは、その部位だけだった。それが余計に、不気味に映る。

 壊れた機械のように、それを繰り返し続ける、ソイツ。

 次の瞬間、間を切り取って結果だけを取り出したように、ソイツは動きを止めていた。

 首は、重力に引っ張られるように、だらんと肩に乗っけてあるだけのように見える。

 そして突然、ソイツの全身が震え始めた。ガタガタと、音が聞こえるぐらいに。

 「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ、どっちどっちどっちどっちどっちどっちどっちどっちどっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ! 私は! 私は! 私は! 私は! 私は! 私はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! きれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃなのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおお!?」

 そして、繰り返す、繰り返す。叫ぶ、叫ぶ!

 俺らは本物の恐怖と狂気を感じながらも、ただその様子を見やるしかできなかった。

 足は地面に縫い付けられたように動かない。舌の根すら乾ききって、誰かと意思の疎通も出来ない。目線はいつまでもソイツに吸い込まれて、決して離れなかった。

 また、急に動きを止める。

 ひたすらに、凶悪だった。

 そして、急に変化は起こった。

 今まで何も握られていなかったソイツの右手に、包丁が、あの禍々しく、終焉を体現したような包丁が、握られていた。

 もう、頭がパンクしそうだ。視界がブラックアウトしそうだ。

 理不尽を、これでもかと叩き付ける目の前の現象に、俺はもう倒れ込んでしまいそうだった。

 「なんでぇ……、なんでぇ……、なんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……」

 そう呟きを口の端から零しながら、肩で歩くように、ゆっくりと俺らに不気味に、不器用に歩を進めてきた。

 「なんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……! 答えてくれないのぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 「逃げろぉ!」

 喉が千切れ落ちる程の大声で咆哮しながら、徐々にスピードを上げ始めるソイツが近づいてくるその瞬間に、剞鞨が叫んだ。

 その声に初めて金縛りが溶けたように、俺をがんじがらめに縛りあげていた拘束が霧消した。

 動けると確信した俺は、満身の力を籠めて、両足に命を吹き込み、俺らの町の方へと駆けだした。

 それとほぼ、同時のことだったと思う。

 久遠も、冬冬狼も、同じ方向に全力で走り出していた。



 走る。走る。走る。

 逃げる。逃げる。逃げる。

 あの手が、一生空を掻くまで。あの視線から、永遠に外れ続けるように。あの足音が、決して聞こえることない場所まで。あの雰囲気から、二度と纏わり憑かれることがないように。

 走る。走る。走る。

 逃げる。逃げる。逃げる。

 刻み続ける鼓動を掴むように。捉える視界が暗転しないように。思考が続くように。死なないように。生きていられるように。

 依然として、自我が崩壊するような威圧感は背中から消えてはくれない。

 ソイツはまだ、風景を押し潰すように叫び散らしていた。

 「ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ! 私、綺麗ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 そこそこ、足の速さにも自信があった。それは、冬冬狼も、久遠もで、スポーツへの適性はそんじゃそこらの奴には負けない誇りに似たものを持っていた。

 しかし、差が開かない。

 相手が相手だけに、先に体力が尽きて地面に倒れ伏すのは俺らだと、直感的に、そう感じた。

 そして、それが人生の終点だということも。

 「答えてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 私ぃぃぃぃぃぃぃ、綺麗ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 「あぁぁぁぁもう! 知るかよぉぉぉぉぉぉぉ! そんなん、人それぞれだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 俺は迫り来る理不尽の権化に、思わず叫び返していた。

 持久力を問う場面で、声を張り上げるのは悪手も悪手である。しかし、そうせずにはいられなかった。

 目の前に横たわる不条理に対して、口をつぐんで、目を閉じて、ただただ過ぎ去るのを、その暴力が振り下ろされるのを、俺は許せなかったのである。

 何が生まれるわけでもない。何が変わるわけでもない。

 でも、俺はせめて、言葉をぶつけるぐらいの反抗はしたかった。

 しかして、救いとは、奇跡とは。

 誰の身にも起こるものではないとしても、今日、このとき、俺らの前に降り立ったのである。

 血が滲む程に足掻いたのだろうか。掻き毟る程に祈り続けたのだろうか。

 走り去る俺らを、救いが追いかけてくれたのだろうか。

 ピタリと、耳絵を劈く叫びは止み、突き刺すように放っていた圧力が、風に消えていた。

 俺らは、無意識のうちに振り返る。

 そこには、首をひねるソイツが、立ち尽くしていた。

 「知るかぁ? 人ぉ、それぞれぇ?」

 噛み砕き、咀嚼するように何度もその言葉を繰り返して、その言葉を繰り返すたびに、首の角度を変えていた。

 首の角度をいじるたびに、ボキボキと骨のきしむ音が不穏に響く。

 「何だ……?」

 冬冬狼の短い文句のようなその言葉が、俺らの心の内を余すところなく代弁していた。

 首の位置が通常の場所に収まり、何かを仕掛けてくるかと俺らは身構えた。

 すると、包丁を持った腕をスーっと胸の位置まで上げ、宣告のように呟いた。

 「これでもぉぉぉぉぉぉぉぉぉ?」

 そして、もう片方の手でマスクを取り払った。

 果たして、そこには予想した最悪の光景があった。

 耳の位置まで大きく裂け目の伸びる口。口元に飛び散るように滲んだ血痕。

 そして。

 瘴気を吐き出すように、その口が大きく、大きく開かれた。ブチブチブチと何かが痛々しく千切れる音を思う存分に響かせながら、滴り落ちる血を口内に溜め込みつつ、それは俺らの視線を呑み込んだ。

 口内に覗く歯の一つ一つは鋭利に磨かれたように光り、爬虫類のような舌が溜まった血の海を泳ぐようにのたうち回っている。

 その顔を占める口の面積が大きくなっていく度に、頬に真っ赤な亀裂のような血管が走り、目尻からは、血の涙が流れ始める。

 口に溜まる血が溢れ、その真っ赤なレインコートを伝い、地面に赤い染みをいくつも作っていた。

 口裂け女。

 都市伝説が、俺らの確信をもって、ここに顕在した。

 足も腕も鼓動も何もかも、恐怖に打ち震えて止まない。

 力なく腕は身体にもたれ、足は地面を掴むことはでいない。鼓動はうるさいぐらいに主張しているはずなのに、その音を聞くことはなかった。

 悲しみがとぐろを巻いていく。どこまでも、どこまでも。

 何かを感じる心の機能は、それに締め上げられて他の感情が窒息したように、何も湧いてこない。

 だが、巻きに巻かれたそれは、温度と圧力を増していった。

 内部で爆発的にその強度を膨張させていくそれは、いつしか体表を赤黒くし、別の感情を内包するようになった。

 何故、こんな理不尽に遭わなければならないのだ。

 何故、お前みたいな都市伝説の化け物が闊歩しているんだ。

 何故、何故、何故。

 現状に対する、怒髪冠を衝く鬱憤が火を噴く。

 「あぁ……、そうだよ……」

 解消せぬ疑問が、遮るものを粉砕しながら走り出す。

 「あぁ、そうだよぉ! 人の外見の判断なんか、人それぞれだっつーのぉ! 感情ってのは、差異があって然るべきなの! 感性ってのは、人と違わないといけないっつーの! 知るか、お前が綺麗かどうかなんて! たとえ俺がどう答えようとも、お前はどうせそれだけじゃ満足できねーだろ! 俺が答えたからって、その答えが普遍的なわけねーもんなぁ! 俺に詰め寄る理由教えろやぁ! そもそも俺とお前は初対面だしなぁ! 俺の回答にそんな全幅の信頼置いてねーだろうがぁ! お前のその質問が不安から来るとして、その不安は解消されないよなぁ! 綺麗かどうかなんてのは、他人によって違うんだもんなぁ! たとえ首を縦に振っても、どうせ時間が経てば不安がまた襲い来るんだろ! だったら彼氏の一人でもこさえやがれ! ずっと傍でささやいてくれる相手を探しやがれぇ! お前のそれが承認欲求から来るとして、じゃあ俺だけの回答じゃ足りないよなぁ! 不特定多数の色んな人の意見が欲しいもんなぁ! じゃあ俺が詰め寄られてるだけ意味わかんねーだろ! お前が欲しいのは数字だろ! 特定の誰かに拘ってんじゃねぇ! つーかこんな迫り方して、相手が真摯に考えてくれるわけねーだろ! 本気で忌憚のない客観的意見が欲しいならネットにでも写真上げてろ! 『私、綺麗?』ってどっかの掲示板にでも貼りやがれ! その方が幾億倍も簡単だろーがぁ! 綺麗かどうかなんて内面でどうにでも変わるんだよ! 外見の評価がどれだけ低くたって、愛嬌や人当たりの良さ、思いやりや気配りでいかようにも人の評価なんて変わるんだよ! ひっくり返るんだよ! 逆転満塁ホームランはあるんだよ! それを学びやがれ! シンプルに綺麗かどうかの判断されたいならまず服装から努力しろや! 綺麗かどうかの外見は総合力も関係してくるだろーが! 何だよレインコートって! 雨なんか欠片も降ってねぇっつーの! 今日の降水確率はゼロパーセントだ馬鹿野郎! 見ていて暑いんだよ! お前の質問は背景が分からな過ぎてよく分かんねーんだよ! 以上ぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 俺は言葉の切れ目切れ目で、口裂け女を何度も何度もビシッビシッと指差し、息継ぎの度に大きく背中を反らせて天を仰いだ。

 それは、怒りにすべてを支配された、一匹の獣の咆哮だった。

 その咆哮は山野を駆け抜け海を渡り、風に乗り大地を満たし、時を超え空間を統合した。

 山野には伐採によって疲弊した土地への癒しを、海には汚染された水質の回復を、風には接するものへの安らぎを、大地には抱えきれない程の恵みを、過去に遡り市民の革命に力を、未来へ飛び出し人々の平等に知恵を、空間の統合に関しては、何かが起こった。

 人一人には収まることが決してない程の怒りが、爆発したのだ。

 怒りとはエネルギーであり、一つの原動力である。

 怒りとは人間を人間たらしめる感情であり、一つの本質の姿である。

 故に、圧倒的で、美しかった。

 と、誰かが俺の今の姿を、そう語ってくれ。

 思いの丈を言い放ち、口裂け女へと指を突き付けた後、動きを止めた俺の脳内では今までにないくらいのスピードで、思考だけが加速し続けていた。

 脳内に形成されているニューロン群が、もう弾け飛ぶんじゃねぇかなと思うぐらいには、アクセルを渾身の力で踏んでいた。

 ちらっちらっと、空気を読んでいない振る舞いで、両脇の今回の事件の当事者を見る。

 冬冬狼と久遠も、固まってしまっていた。

 動きが止まってしまっているのは、目の前の口裂け女の恐怖を体現したかのような姿にではなく、未だに都市伝説という空想上と捉えていた化け物の実在を、否定しているためではない。

 いや、それもあるのだろう。

 その二つの要素を消化しきれていないのは俺も同じで、誰だってこの状況になればそう強く感じるはずだ。時間が経てば片付けられるような問題ではなく、いつまでもこびりついて消えないような感覚を、味わい続ける可能性も存分にある。

 しかし、二人は違った。

 二人は恐らく、自分の目と鼻の先で、自分の培ってきた常識ではあり得ないこと、考えられないことが起こってしまったために、動きを止めてしまったのだ。

 思考が止まってしまえば、動きも止まる。命令を下すコンピュータがフリーズしてしまえば、それに準ずる機械も硬直してしまうといった感じに。

 具体的には、俺を見て固まっていた。

 更に言えば、冬冬狼なんかは、「えー……、うっそー……」と心情が口から漏れていた。

 更に更に言えば、久遠も「それはちゃうでぇ……」と関西弁の非難が零れていた。

 まぁ口調的には普通、逆のコメントを残すものだとは思うが、今は有事だ。しょうがない。

 それはともかく、俺も今は絶賛後悔中だ。

なんてことをやってしまったんだろうと、今までの人生の中で一番感じている。

 シンプルに考えて、口裂け女という都市伝説の中でも殊更知名度のあるレジェンド化け物に、大口開けて啖呵を切ること自体がとんでもないことだろう。

 単純に考えて、包丁という人を殺せる凶器を持って、血を滴らせている殺人鬼相手に、真っ向から相手を否定するような意見をぶつけること自体があり得ないことだろう。

 馬鹿の極致だ、阿呆の極みだ、死にたがりの王だ。

 突き刺している指は震え始めているが、心の中は、驚く程凪いでいた。

 ――さて、どうしたもんかな――

 とりあえず、口裂け女に指した指を別の方向に向けてみるか。

あなたに対する意見じゃないですよ。演劇の本番が控えていて、焦りに焦って、覚えていた台詞がそのまま口から飛び出してしまっただけですよ。という感じを全面に押し出してやろう。

 そう決めたら、すぐ行動。兵は拙速を貴ぶのだ。先んずることが、何よりもの成功への近道である。

 俺はゆっくりとした動きで、口裂け女からとりあえず上空へ、指先を徐々に動かしていった。

 この意思が伝われば、演劇の本番という俺の使命も受け取ってくれて、相手がこれ以上の俺らへの干渉を控えてくれるかもしれない。

 「おい、どう考えてもどこぞの世紀末漫画の最終ボスみたいになってんぞ」

 「どういう行動? それで何を呼び起こしたいの?」

 二人が小声で叫び、ツッコむという高度なテクニックを披露する。こういうときだけは頼もしい奴らだ。

 「文句言うな。今から俺が状況をひっくり返す」

 俺も小声でそう返す。

 口裂け女は、動きを止めている。

 これは俺の作戦が効いているのではないか、そんな希望的観測が止まらない。

 しかし、他の可能性も断然考えられるし、俺らに飛びつくために力を溜めているのかもしれない。そうなっては今から逃げることも不可能だろう。

 何より、相手はマスクを解放して、口裂け女の口裂けオープンモードに突入している。これでさっきよりも力、スピード共上昇する能力があれば、俺らはひとたまりもない。

 やはり、俺の作戦で乗り切らねば。

 俺は、次の策へと移る。

 「……なんちゃって!」

 所謂、“ドジッ子を許すことで人間としての器が大きくなるのだよ”作戦である。この際、なんちゃってを放つ際に右手を頭に、左手を腰に、グーを作りながら当てることも忘れない。これで、ドジッ子度合いが三十パーセントぐらい上昇するのだ。

 この作戦を発動することで、愛くるしい動物を攻撃することは出来ないという人間の心の性質を衝くのだ。あれ、コイツ人間じゃねぇな。

 この作戦は、作戦名通り、人間としての器を試されることで、対称の人間は周りの評価を気にしてそれ以上の追求が出来なくなるというものなのだ。あれ、コイツ人間じゃねぇな。

 この作戦を日の目に見させることで、今まで色々意見をぶつけてしまったけど、ぜんぶ冗談だから重く受け止めないで欲しい。だって人間だから、そんなこともあるよねという主張を相手に与えるものなのだ。あれ、コイツ人間じゃねぇから分かんねぇかな。

 ん、これヤベェな。

 「おい、俺だったら真っ先にお前狙うぞ」

 「ただでさえ刑事訴訟ものの言動だよ、それ」

 「落ち着け、まだ策はある」

 俺は稀代の天才軍師。磨かれたダイヤのような神算鬼謀を駆使する謀略家。

 自分に言い聞かせているんじゃない。事実を確認しているだけだ。

 俺は虎の子の作戦を展開する。

 「たとえば――」

 人を元気付ける、世界の平和の願う歌を、俺は口裂け女に届ける。

 歌は、素晴らしいものだ。人類が生み出した、最上の文化ともいえる。言語の通じない相手でも、歌を通じて分かり合うことが出来る。

 この歌は、人の心に感動を染み込ませることの出来る歌だ。心を閉ざした相手であっても、その人を寄せ付けない閉じこもった部分を徐々に溶かすことが出来る。

 下手でもいい、ガラガラの声でもいい。

大事なのは、相手に想いを届けるという真心。手を差し伸べる温かい慈愛。一緒の景色を共有し、同じものに思いを馳せる寄り添い。

 例え相手がこの都市伝説でも、人語を理解し操るというのなら、この歌が届かない道理はない。

 むしろ、このように人を襲うというのならば、今まで人の温もりに触れた経験があまりないという予想が立つ。ならば、この歌の効果はいかほどか。ならば、俺の想いはどれだけコイツの胸に届くのだろうか。

 十全に想いと歌詞がコイツに伝播することが出来れば、次の瞬間には肩を組んで同じ釜の飯を食うことも可能なはずである。肩を組むなら、まず血を綺麗に洗い流してほしいところではあるが。

 口裂け女の動きは止まったままだ。きっとアイツの心中では、雪解けが起こり、心の河川に感動の涙という水流がコンコンと流れ始めたことだろう。

 俺は勝利を確信した。

 「どうなってんだ……、アイツ、動かないままだぞ……」

 「全力で戸惑ってるんじゃないの? 今までこんな反応した奴は一人もいないはずでしょ……」

 人は、都市伝説と分かり合える。

 人類史に、大きな功績が輝いた瞬間である。

 歌も終盤に差し掛かったその時、口裂け女に動きがあった。

 腕に握っていた包丁と髪を振り回し、狂ったように身体を揺らし始めた。

 「知らないぃ……? 人それぞれぇ……?」

 身体の動きの苛烈さとは裏腹に、か細く、空気中に溶け出してしまいそうな小さい声で、ソイツは繰り返した。

 そしてピタリと動きを急に停め、直立姿勢に戻り、大きく裂けたその口を歪め、恐ろしく笑う。口の端から零れる血の流れが、やはりコイツは化け物の類であるのだと、強く想起させた。

 包丁を緩慢な動作で自分の首元に当てる。

 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 大きく、大きく口をすべてを呑み込むように開け、悲しみを湛えた慟哭を上げた。

 そして、包丁を大きく振り上げ、首に向かって、早く強く振り下ろした。

 真っ赤な血が首元に次々に溢れ出し、それに合わせて、裂けた口からも血が目を覆いたくなる程に濁流となった。目には本当に嬉しそうに笑みを湛え、何も痛みを感じていないようだった。

 包丁を凄まじい勢いで引き抜いた箇所から、間欠泉と見紛わんばかりに赤色が宙へと飛び出した。

 その間も、ソイツは叫ぶことを止めていない。

 惨劇。

 その一言に尽きる光景だった。

 何も行動を起こすことは許されない。一言も発言することは許されない。

 どこまでも非現実で、どこまでも強烈な現実を、俺らは目の当たりにし続けた。

 すると、口裂け女の姿が徐々に薄くなり始めた。

 比喩ではない。赤いレインコートも、ボサボサの髪の毛も、地面に血だまりを作り続けた赤も、全てが急速に存在感を消し始めていた。

 十秒ほど経っただろうか。

 今までの光景が嘘だったかのようにソイツは掻き消え、その場には何も残らなかった。

 しかし、ソイツが纏っていた威圧感、叫びの残響、暴力的な笑顔は、こびりついて離れなかった。

 何より、そして何よりの問題。

 「アイツ、全然俺の話聞いてない風じゃねぇかぁぁぁぁ!」

 「聞いてない風じゃねぇよ、聞いてないんだよ」

 「まぁ、結果オーライじゃん。よしよし」

 俺の叫びと、アイツの残した鬱屈な雰囲気を風がさらっていく。

 この日、俺らは非現実の恐怖を体験した。

 傾き始めた日が、夜の到来を告げる。烏の声が、俺らを自宅へと急がせた。

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