第14話嗤う三日月に見る、世界と世界

 血が、夜の黒に赤を足した。

 夜風がそれを甘く撫でつけ、影が輪郭を消した。

 日の消失と共に光は死に、夜の復活と共に闇が慟哭する。

 その慟哭に怯え、逃げ、目を閉じる。

 闇とは、どこまで駆けても闇であり、それ故に、闇とは、そこにあった。

 だから、闇は克服できない。闇からは、抜け出せなかったのだ。

 


 血をもたらした凶刃から、男は逃げる。

 その刃には痛みの痕が纏わりつき、舞台を支配するように、寒々しく光る。

 生贄を求めるように狂おしく鳴く声が、刃を振るう度に響いた。

 「何だよ……、なんなんっ、だよぉ……! 何なんだよアイツはよぉ!」

 疲労と動揺を激しく誇示するかのように繰り返される浅い呼吸。

 激情と痛みで熱せられたその空気は、肺を焼き、喉を爛れさせ、そして大気を焦がす。

 腕からは鮮血が終わりを意識させることなく溢れ、それがまた、この悪夢の終結という希望を踏み潰していた。

 もつれそうになる足を叱咤し、恐怖からの脱出を目指す男を、黒く染まった雲は無情にもそれを見下ろし、また、嘲笑うように家々は遠くに立ち並んでいた。

 永遠を思わせるように街灯は等間隔に男を照らし出す。

 創り出せた偽りの景色に怒りを覚えるも、しかし、その働きによって、その刃がまだ男を追いかけてきていることが認識できていた。

 刃は、一つ。

 男の命も、一つ。

 どこまでもゾッとするその場面を、男の怒号が何度も突き刺す。

 「ちくしょうがぁ……! 何で何で何で何で何でぇぇぇ!」

 駆ける。駆ける。

 しかし、刃との距離は、縮まるばかり。

 死が、終焉の足音が、耳に飛び込んでくるようになる。

 その死神の鼓動は、変わることない結末を淡々と告げているようだった。

 遂に、地面に倒れ伏す男。

 鈍い音が響き、苦痛に屈する声が零れるが、返事が届くことはない。

 蹲る男の耳に、やけに明瞭にその靴音は雪崩れ込んできた。

 悦に入るように緩慢となったその音は、しかし、獲物を逃すことはない黒い意志を鈍く発していた。

 雲が晴れる。月が顔を出す。

 儚い月光に照らし出された命を絶つ死神の鎌が、重力を切り裂き、高く掲げられた。

 「クソが……! クソがクソがクソがぁぁぁぁぁ!」

 慟哭は、何処にも響かない。夜風は、それを運ばない。

 大気に白い軌跡が刻み込まれ、そして、一つの命が果てた。

 首元に深く突き刺さった刃。

 引き抜かれたそれを惜しむように、手を伸ばすように、赤い液体が宙を舞う。

 月は、何も語らない。

 だが、ただひたすらに、刃の持ち主の赤いレインコートを世界に刻み込んでいた。

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