027 開戦

 死の臭気においというものがある。

 戦火の狼煙のろし、策謀の吐息といき馬蹄ばていの地鳴り、人々の身の内に巣食う殺意、害意、怨嗟えんさのまなざし――。そういったものを敏感に察してはかすみのように姿をくらまし、時に逆手にとって利用する業を〝微兆びちょうの術〟という。

 とりわけ、東雲は負の想念というものに対する嗅覚が人一倍鋭敏であった。幼少の頃より、忍務だけでなく里で生活する日々においても、自分へむけられる敵意に囲まれながら生きてきたためである

 ――だからこそ勘づいた。

 船室で目が覚めた時からずっと、船の底にアレがいるということを。




 波ひとつ立たない穏やかな海の下、よどんだ気配がおどろおどろしくわだかまっている。

 水温は暖かであった。しかしそいつが張りついている場所だけは、船底が白く凍結しているのが見てとれる。

 東雲は飛び込みざまに大きく水を掻いた。

 途端に、背後からうなるような咆哮ほうこうとむき出しの殺意が追ってくる。


(来やがれよ……!)


 黒いヘドロの化け物は、一度目の邂逅かいこうをなぞるようにひしゃげた爪を振りかざし、一直線にこちらへむかってきた。やはり速い。東雲はなんとか化け物に追いつかれる前に、赤鬼の船舶せんぱくの真下へ泳ぎついた。

 誤解を招きかねないため弁明をそえておくと、東雲は化け物に会いたくて海へ飛びこんだのではない。彼奴に絞めあげられたあざはいまだ赤黒く残っているし、あやうく首と胴がさよならしかけたのは、つい昨日の出来事である。できれば二度とお目にかかりたくなどなかった。

 だがしかし、たとえヤツが己の命を欲す死魔しまであったとしても、そこに生き延びるための活路があるならば、東雲は潜らねばならない。

 死を誰よりもきらいながら、臆せず絶望の淵ぎりぎりを走り抜けることができる胆力。それこそがこの男の強みであった。

 東雲は迫りくる化け物をひたと見据えながら、腰帯に指を滑らせ、ささくれた船底の木目を強くこすった。そしてすぐさま身を翻し、船を蹴りつけ水を掻いた。

 化け物は、憎悪と殺意をまき散らしながら、一心不乱に猛進してくるものと思われた。

 しかし突然、ヤツの動きがぴたりと止まった。からだの表面に浮き出た無数ののっぺらぼうが、一斉に赤鬼の船を見た。直後、鼓膜を引き裂くような叫声をあげ、化け物は巨大な船底へ襲いかかった。

 ヘドロ状の肉体からいくつもの爪が飛び出し、まるで競うように船板を突き刺し、斬りつけ、めちゃくちゃに掻きむしる。みるみるうちに、分厚いかじが細切れの木片と化し、船底に穴が空いた。

 東雲はその隙に、泳いで距離を稼ぎながらも、ひくりと頬を引き攣らせた。

 計画どおり――と言いたいところであったが、あの惨状は期待を遥かにいっしている。

 東雲は全力でしゃにむに水を掻いた。あんなモノとまともに組み合っては、次こそ確実に死んでしまう。護身用に半月刀を口にくわえてきたが、化け物の凶刃とくらべれば、こんな物ただの棒きれに等しい。

 艦隊が密集していたおかげで、ヤツがおとりに気を取られている間に次の目標へ辿りついた。

 同じように、舵の根元へ餌をねじこむ。――例の宝石のような種である。数粒残っていたそれがこの場の命綱であった。しかしそれもあと二粒、無駄にすることはできない。

 化け物がこちらへむかってきた。東雲は餌をまいた場所から直線上に逃げ、最後の一隻を目指した。

 化け物が二つ目の餌に食いつくのを視認しようと泳ぎながら振り返った彼は、その瞬間奇妙な現象を目撃した。のっぺらぼうのひとつが、ずるりと化け物の躰から抜け落ち、切り離されたトカゲの尻尾のように、無気力に身悶えながら海底へ沈んでいったのである。

 気味の悪い光景であった。

 本能的な寒気と、いくつもの漠然とした憶測が脳裏にひらめいたが、即座に東雲がとった行動は水を蹴る脚を強めることであった。今は化け物の正体についてあれこれと謎解きをしている場合ではない。

 三隻目は少し離れた地点に停留していたが、二つ目の種を取り込んだ化け物は再びのっぺらぼうをひとつ産み落とし、その分躰の体積が小さくなった。比例して泳ぐ速度も目に見えて遅くなり、無事に東雲は最後の餌を仕込み終えた。

 息も限界である。すぐに海面へと顔を出し、船の側面へ指をかけ、化け物から距離をとる。

 直後に船が衝撃で揺れた。三隻とも、船上では原因不明の水漏れと操舵不能の事態にどよめきが広がっている。東雲は呼吸を整えながら、混乱の度合いをはかった。さすがは本国直属の観測部隊だけあって、ひとりの上官らしき男のもと、的確に状況把握に動いている。

 これはもうひと働きすべきか、と戦略を練っていると、唐突に海中から黒い影が飛び出した。


「!」


 咄嗟に身をひねり漆黒の刃をかわす。わずかな木目の隙間に身体をあずけた状態での回避である、致命傷はまぬがれたが左腕から鮮血が散った。

 眼下の海面近くに、小さなヘドロがへばりついている。化け物本体ではなく、どうやら産み落とされた端くれの方らしい。小さなヘドロの塊から長い爪が伸び、側面の肋材ろくざいに深々と突き刺さっていた。抜けないのかヘドロが不気味にうごめいている隙をみて、少しでも離れようと上へ手をかける。

 だがしかし、物音を聞きつけた船員がひとり船べりから顔を出した。


「いたぞ! 侵入者だっ!」


「げっ」


 複数の足音が慌ただしく集まってくる。瞬時に海中か甲板か、化け物か鬼かを天秤にかけ、東雲は船の側面をななめに駆けあがった。

 細いへりを走り抜けながら、横目で甲板の構造をさらう。目視できる限りでは、搭乗している赤鬼の数は、四、五十人。そのうち武器を手にした二十人ほどがこちらへとむかってきていた。

 東雲は甲板へ飛び降りた。赤い肉壁が行く手を阻む前に、武装した鬼の脇をかすめるようにして走る。頭上を鈍色の光が一閃した。馬鹿みたいに長大な両刃の剣が風を斬り裂き、信じがたいほど重い音が鼓膜を襲う。強靭な筋力から繰り出された斬撃が、船の縁を深々と傷つけた。ヘドロの化け物といい勝負である。

 東雲は次々と襲いくる煌きを紙一重でかわしながら、甲板の中央を目指した。

 間違っても手に握った半月刀で応戦しようなどとは考えない。暴力的な種族の格差は明らかである。

 それに加えて、得物の格差もかんばしくなかった。というのも、裏切り者の青鬼から奪った半月刀は、お世辞にも物が良くなかったのだ。すでに青鬼を一人と、帆綱を斬った刀身は小さく刃こぼれを起こし、迫りくる長刀どころか赤鬼の分厚い肌ですらまともに斬りつけられるか不安なありさまである。

 まさしく下っ端にあつらえむきの武器というわけだ。

 かといって赤鬼のアホほど長く重い得物をあつかえるわけもなく、東雲はまたしても逃げの一手を選ばざるをえなかった。

 しかし種族差という観点から述べるならば、弱者には弱者なりの利点がある。

 地獄に迷い込んで数日、彼のそばにはいつも最良の師がいた。

 大振りな刃の網を潜り抜け、東雲は帆柱に張られた縄へ飛びついた。猿のごとき軽業で瞬く間にてっぺんまで登りきると、見張り台にいたひとりを半月刀で斬りつける。やはり刃はほとんど通らない。しかしそれでよかった。遠眼鏡とおめがねしか所持していなかった見張り役は、斬り裂かれた痛みと急襲の混乱でひるんだ。その一瞬を見逃さず片足を抱えこみ、ひと息に見張り台からひっくり落とす。

 高所を制するのは戦術の基本である。

 東雲は、追っ手が登ってくる前に縄梯子を斬り落とそうとした。しかしいよいよ役立たずになった刃は、帆船の太い縄にすら四苦八苦する体たらくである。

 なんとか切り離しに成功した頃には、下の連中もまた正体不明の侵入者に対して仕切り直していた。

 突然、無数の黒い光の線が走った。咄嗟に身をかがめた直後、凶悪な音とともに木片が弾け飛んだ。見張り台すら貫通したそれは、巨大な金属のもりの矢である。

 甲板にずらりと並べられた据え置き式の弓は東雲の背丈ほどもあり、たかが侵入者一匹のためにしては大掛かりすぎる。

 東雲はすぐにそれらの真の用途に思いあたった。第二射がつがえられている間に視線を遠方へと投げれば、短い舌打ちが口をついて出る。

 トトたちを乗せた貿易船が、艦隊の一隻に捕まっていた。

 ヘドロの化け物に舵板かじいたを破壊させたものの、すでに近くまで接近していた赤鬼の船から、これと同じ銛の矢を穿たれたのだ。

 あちらの矢尻には太い縄が取り付けられており、乗り移ってこようとする赤鬼との交戦が勃発していた。

 いくら決起した青鬼たちといえど、本格的に乗り込まれてしまえば長くはもつまい。これは早々に戻らねば。

 東雲は突き刺さった銛を一本引っこ抜いた。対艦用の武器だけあって素材の鋼鉄は木偶でくがたなとは比べるべくもない硬度と粘りがあり、やや重いが長さは片腕ほどと使い勝手が良さそうだ。

 東雲はあっさりと浮気した。

 大きく腕を振りかぶり、ここまで連れ添った半月刀と一方的な別れを告げる。散々に酷使されボロボロとなった彼女は、一目散に本来の主の胸の中へ飛んで帰った。

 二度目の銛を放つべく命令をくだそうとしていた指揮官の口が、驚きで塞がれる。大鍋のような鎧にはじかれて傷を負わせることはできなかったが、数秒間の空白が生まれれば十分である。その隙に東雲は帆の上へと移動していた。

 改めて、やや怒りのにじんだ号令が発せられ、同時に東雲も宙へと踊り出る。げたに結びつけた縄を片手に、振り子の要領で白い帆をすべると、その軌跡を追って鋼鉄の矢が次々と放たれた。慌てて指揮官が制止をかけるも時すでに遅く。帆にはいくつもの大穴が空いた。

 赤鬼たちは歯ぎしりした。侵入者が帆から離れない以上、次の矢を撃つことはできない。

 そんな彼らの葛藤を承知の上で、東雲はこれみよがしに柱に刺さった銛を抜き、先端のかぎになっている部分を破れた穴へ引っ掛けた。すると、鋼鉄の銛はその自重でひとりでに降下し、帆布はんぷを縦に引き裂いた。いわずもがな、帆船にとって帆は海を進む動力源であり、本格的にこの船を航行不能にしてやろうという魂胆である。

 東雲はせっせと他の穴にも銛をかけては、威風堂々とはためく赤鬼の国章をズタズタにした。

 怒号と罵声の波が下から勢いよく噴出した。誰もが天を仰ぎ、いかにしてあのなめくさった侵入者を引きずり降ろしてやろうかといきり立っている。

 ――だがしかし、本当に彼らをおびやかす存在は、彼らのすぐ隣に立っていた。




 突如として、赤い血潮が弧を描いた。

 船の縁に漆黒の人影がたたずんでいる。まるで夜の闇を人間のかたちに切り取ったような姿である。

 はあまりにも静かに動いた。光をまったく反射しない黒々とした刃がひるがえり、ひとつ、またひとつと鮮やかな飛沫しぶきが虚空を赤くいろどっていく。たて続けに刈り奪られた命の雫が、あたかも彼岸ひがんばなはなみちのごとく、影のとおった場所に咲き乱れた。


「アイツは……ッ」


 帆柱の上から甲板を見下ろしていた東雲は、誰よりもはやくその異質な来訪者を瞳に映し、ぞっと背筋を強張らせた。

 尋常ならぬ早業におそれをなしたからでも、倒れゆく赤鬼の亡骸に青ざめたわけでもない。ひと目見た瞬間に、そいつのありえない正体に気づいたからだ。

 アレはおそらく、先ほどまでヘドロの塊であったはずだ。しかし今では、指先から髪の一本にいたるまで、鮮明な人間の躰を模している。そしてその面差しを東雲は知っていた。


「――……ひぐらし?」


 呆然とこぼれ落ちた呟きは、蜂の巣をつついたように騒ぎ出した鬼どもの叫声によってかき消された。




――――――――――

遠眼鏡とおめがね――望遠鏡の呼称。

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