028 夜明けの晩に眠れ
赤鬼たちは怒髪天をついて謎の影へ襲いかかった。四方から振り抜かれる長刀を、影は流水のごとき身のこなしで回避した。
奇しくもその動きは、東雲が先ほど甲板で演じた立ちまわりと瓜二つであった。――否、影が東雲を真似したのではない。東雲が、影の真似をしていたのだ。
繰り出される攻撃を円の軌跡でいなすその業は、かつて東雲が幼い頃に、ある男から見よう見まねで盗み覚えたものであった。
見間違えるはずがない。鷲鼻のひょろりとした猫背、人よりも長い手足。東雲と同じ年に、彼よりも少しだけ早く里入りした〝音無し〟の男である。
そして、あの忌まわしい月夜の晩に東雲を殺すため遣わされた十三人の追い忍のひとりであり、――東雲が最後に、その喉笛をつらぬいて殺したはずの男であった。
「なぜアイツがここにいる……」
いや、むしろここが地獄であるならばそれも必然であろう。この世界に堕とされた当初、しきりに不思議がったはずだ。なぜ自分以外の人間がいないのか、と。
だとすれば新たな疑問が湧く。なぜ自分はこうして五体満足の姿であるのに、ヤツは、否、ヤツらはあのような人ならざる様相に身をやつしてしまったのか……。
東雲はすでに、ヘドロの化け物の中にひしめいていたのっぺらぼうたちが、同じく地獄へ堕ちた亡者の成れの果てであると、直感的に確信していた。
ヘドロから産み落とされた塊のひとつが蜩であったということは、他の無数の顔もまた、残りの追い忍たちなのだろうか。それともまったくの赤の他人だったのだろうか。どちらにせよ結局は同じ結論にいきつく。
トトもレイラも、あの島の者たちも、人間に逢ったことはないと言っていた。
ならば、死後の世界において、生前と寸分変わらぬ血肉を得た東雲こそ例外なのだ。
なぜそのような差異が生じたのか、そこから先は人知を超えた領域であるためにはかりかねるが、少なくとも自分が砂漠から一粒の砂金を探し当てるくらいのとんでもない幸運の上に立っているのだと、漠然と理解した。
考えがまとまらぬうちに、船体がぐらりと
切迫した状況をうけて、武装した赤鬼たちは総出で得体の知れない侵入者を取り囲んだ。
東雲は思わず身を乗り出した。蜩は、伊賀の里でもずば抜けて対人格闘術にひいでた忍である。しかしそれはあくまで人間が相手の話であった。
他者を
しかしどうしてだか、蜩は赤い暴力の壁に真っ向から突っ込んでいった。
東雲は片眉を跳ね上げた。
忍刀を模した黒い刃が赤鬼の喉笛をつらぬくと同時に、いくつもの長剣が蜩を串刺しにした。腕が落ち、首が飛んだ。東雲はえもいわれぬ
床に転がった躰がどしゃりと崩れてヘドロに戻る。赤鬼たちは汚物に目をむけるような態度で、気味悪げに何度もヘドロを突き刺した。
しかし次の瞬間――、ヘドロから数多の鋭利な爪が飛び出した。蜩を串刺しにした赤鬼たちが、そっくり同等の
恐慌とざわめきが包囲の輪を乱した。皆、困惑した表情でヘドロから一定の距離を置き、長刀を構え直した。
散らばったヘドロは、ずるずると床を這い、みるみるうちに再び人の
不死身か、と誰かが呆然と呟いた。
一度死んだ相手を不死身と呼ぶのはいかがなものだが、それはさておき、この泥人形をとめる手立てがないというのはなかなかやっかいである。
本来忍者というものは、あらゆる戦闘を避け、敵に姿を現すことなく翻弄する術を好む。貴重な人材が死ぬことによって里がこうむる不利益や、計画の遅れを極力最小限におさえるためだ。
しかしながら、生前の蜩にあたえられた忍務のほとんどは、
立ちあがった泥人形は、黒々とした瞳で生者の数をかぞえると、ぞっとするような笑みをたたえた。出口のない洞穴のような口が開き、
ありったけの憎悪に濡れたその音は、赤鬼たちには意味のある言葉として聞き取ることができなかった。
しかし東雲には解った。たった一言、殺してやる――と、そう言ったのだ。その一念に突き動かされるように、男はまたひとつ命を斬り裂いた。
そこからは四分五裂の乱戦へとなだれこんでいった。
ただでさえ赤鬼相手に善戦するほどの
東雲としては願ってもない展開であった。とうに足止めの役割は完了し、この船に貿易船を追う余力は残っていない。あとは眼下の争いに巻き込まれないよう、すみやかに海へ飛び込めばよい。
だがしかし、東雲は動こうとしなかった。
無駄に目ざとい彼の瞳が、気がつかなくてもよい違和感を拾ってしまったからである。
漆黒の刃が赤鬼の咽喉を貫いた。そして返す刀がまた別の鬼の喉笛を真一文字に斬り裂いた。単なる偶然ではない。甲板に転がっている屍は、すべて咽喉を裂かれて死んでいた。判で押したような異様な亡骸を見ているうちに、とある光景が脳裏に蘇る。
確か、東雲がこの世界で目を覚ました時、砦の地下で殺されていた赤鬼もこのように咽喉から血を流してはいなかっただろうか……。
いや、もっと記憶を遡れば、あの月夜の晩に咽喉を裂かれて死んだのは――蜩であった。
途端にあの瞬間の出来事が走馬灯のごとく浮かびあがる。
+ + +
「地獄へ堕ちろ、東雲――!」
そう言って、先に東雲の咽喉へ刀を突きつけたのは蜩であった。死闘の果てに、これが互いにとって最期の一撃になると解っていた。
かたや一人でも多く殺すために、かたや一時でも長く生き伸びるために、ゆずれぬ狂気が極限まで膨れあがり衝突した。
東雲は迫りくる刃を左腕を犠牲にして受け止め、鏡あわせのように蜩の咽喉をなで斬りにした。
夜闇におびただしい血が噴きあがり、その赤い命の雫ごしに、黒々とした憎悪の瞳が東雲を貫いた。じっとりと、魂に喰いこむような視線が絡みつき――、そして、蜩が吐き捨てた言霊のとおり、東雲は地獄へと堕ちていった。
+ + +
「そうか……、お前が、俺をこの場所へ連れてきたのか……」
不思議と、東雲の心はこの凪の海のように静かであった。
因果という言葉が、すとんと彼の足もとに落ちて、ようやくこの世界に己の足で立っている実感を得る。
――世界の
しかしながら、あの瞬間、死の淵で消えゆくはずだった魂を縛った未練の叫びこそ、この状況を生み出す根源の種だったに違いない。
東雲は己が生きることを望み、蜩は他者を殺すことを望んだ。そのどちらが正しかったとか、不毛な倫理を挙げつらねるつもりはない。
ただ彼らが望むままに、この世界は彼らに血肉をあたえた。
きっとそういうことなのだ。
東雲は帆柱を蹴って甲板へと降り立った。
「――蜩ッ!」
なぜ、そのような行動に出たのか、自分でもよくわからない。
「お前の殺しそこねた男は、ここにいるぞ!」
東雲は鋼鉄の銛を構え、挑発するように笑ってみせた。
生前の彼であればまず取り得ない選択である。蜩がヘドロの化け物になったように、きっと自分もどこかが変わってしまったのだろう。しかしそれでいい。東雲は今の自分を思いのほか気にいっていた。
生き伸びるために背をむけて逃げるのではなく、末期のケジメをつけるために、東雲は蜩へむかって走り出した。
蜩は、自分を呼んだ男の顔をそのがらんどうの瞳にとらえるや、嬉々として薄い口もとを三日月型に引きあげた。
高い金属音が立て続けに響いた。互いに手癖を知り尽くした仲である。息もつかせぬ攻防は示し合わせたように互いの刃を弾き、かわし、また弾いた。
『東雲ェッ!』
「なんだ!」
『死ね!! 糞みてェにこっぴどく死にやがれッ!』
「嫌じゃ!!」
どこか活き活きとした命の奪いあいに、赤鬼たちは青ざめて遠巻きに距離を置いた。すでに看過できないほどの死傷者が出ており、あわよくばやっかいな異人同士で相討ちにでもなってくれたらと、淡い期待を持ったのである。
そんなほの暗い思惑など蚊帳の外に、二人は苛烈にぶつかりあった。
先に押されはじめたのは東雲である。生きるためには尻尾を巻いてでも逃げ回ってきた男と、率先して人を殺すことだけに執着した男の差が、徐々にあらわれる。
あの夜もそうであった。結果として先に死んだのは蜩の方であったが、それぞれが負った傷の数は断然東雲の方が多かった。腹を裂かれ、右眼を潰され、肺を貫かれ呼吸すらままならず、あとを追うように東雲は息絶えねばならなかった。
あの時の光景をなぞるように、澄みわたった青い空へ、細く赤い線が幾筋も散った。
対して黒い影法師のような肉体は、銛を突き刺してもまるで手応えがなく、たちどころに修復されてしまう。
しかし東雲は冷静だった。
蜩が対人格闘という天賦の才を持つならば、東雲の十八番は、いかなる窮地においても活路を見出そうとする観察眼にある。一手を交えるたび、東雲は生前の蜩と眼前の影法師との違いをつまびらかにしていった。
そして、東雲は眉をしかめた。
彼の知っている蜩という男は、
しかしながら、この泥人形には致命的な欠陥があった。
決定的な一打を放つ瞬間、ただ一点、首ばかりを執拗に狙うのだ。喉笛をかき斬られて転がっている死体の数が、その異様さを如実に物語っていた。
もともと殺しに対するこだわりが強い男ではあったが、これはそういう次元の話ではない。今の彼は、死んだ瞬間の遺恨だけが、人の皮をかぶって動いているようであった。
蜩は、もはや蜩ではなかった。
その事実が、東雲の胸に暗い
「それがお前のなりたかった姿か」
なじるような問いが出かかり、すんでに噛み殺す。訊いたところで、ここにいる泥人形は生前の同僚ではないのだ。ならば、もうかける言葉などない。
東雲は半歩足を引いて体を開いた。誘うようにがら空きとなった首もとへ、一切の迷いなく黒々とした刃が襲いかかる。しかしどんなに鋭い斬撃も、軌道がわかっていれば意味がない。
東雲は突き出された腕を掴み、懐へ飛び込んだ。鋼鉄の銛が深々と蜩の胸を貫き、そのまま躰を縦に両断する。途端にぐしゃりと肉体が崩れた。
そして東雲は見つけた。物言わぬヘドロと化した塊の中に、太陽の光を反射してきらりと煌くなにかがある。――あの宝石のような種だ。
漆黒のヘドロは淡く透きとおった種を中心にずるずると集まり、再び肉体をなそうとした。東雲は、種がヘドロで埋もれる前にそれを拾い上げた。
直後、ヘドロから一本の刃が踊り出た。しかしこれも東雲は予期していた。馬鹿のひとつ覚えに咽喉を狙う軌跡から首をそらして、指先に力を籠める。
パキリ、とかすかな音をたてて、種は粉々に潰れた。
その瞬間、床に広がっていた黒いヘドロがざわりと波打ち、細かく震えだした。沸騰したような気泡が無数に湧いて、そこからひどい臭気を放つ黒煙が抜けていく。次第にヘドロの色が薄くなり、表面が
――厳かな光景であった。
蛍のような光の泡が、ぽつぽつと漂いながら空へと昇り、真白な月に呑み込まれていく。
東雲は眼を細めてそれらを眩しげに見つめた。
最後に残されたヘドロに小さなのっぺらぼうの口が開き、かすかな声が
「――……願わくば、お前の行く道に、
消えゆく寸前までひねくれた笑みを遺して、魂の雫は遊ぶように宙をたゆたいながら、ゆっくりと天へ吸い込まれていった。
ヤツらしい、どうしようもない遺言である。東雲は呆れた笑みをひらめかせながら、手の平でくるりと鋼鉄の銛をまわした。
「次の世ではせめて、笑って暮らせ」
穏やかに呟いた彼を目がけて、無数の矢が放たれた。
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