024 策謀

 風がやんだ。厚く垂れこめていた霧は晴れ、船の真上には澄んだ青空が静かにこちらを見おろしている。白い大きな月と、現世よりも小さく柔らかな太陽が、すまし顔で相対するように昇っていた。

 静謐せいひつという言葉が自然と浮かぶような、美しい空である。

 きっとあの場所からは、下界のいやしい争いごとなど、なにも見えていないに違いない。

 不気味なほど音のしない海域で、巨大な艦隊が三隻、小さな貿易船を目指してゆっくりと波を掻きわけ進む。あと幾ばくもせず、裏切り者に乗っ取られた哀れな帆船は、航路開拓の命を受けた赤鬼の先遣隊に引き渡されることだろう。

 もしもこの瞬間にささやかな幸いというものがあるのなら、無風の天候であるがゆえに、艦隊の進行が遅々としていることくらいか。それもまた、気休め程度の些事である。

 波は凍りついたように穏やかで、遠目に霧の白壁がぐるりと四方を囲むようにとぐろを巻いている。

 この場所は、迷路海流のほぼ中央に位置する〝雲海の目〟と呼ばれるなぎの海域である。

 赤鬼の一団はここを中継地点と定め、迷路海流の観測を行っていたのだ。それも本日をもって御用納めとなる。

 貿易船の甲板では、あらかた作業を終えた元島民たちが、緊張した面持ちで黒光りする艦隊を出迎えていた。今日この日のために、何年も前から浮島へ潜り込んでいた青鬼たちである。彼らの中には、混じり者の姿も幾人か見受けられた。

 ようやく長年の密命から解放されるというのに、彼らの表情は硬い。

 しかしその中にあってひとりだけ、鼻歌でも歌い出しそうなほど相好を崩した者がいた。ダネルである。


「嬉しそうね」


 レイラが平静をよそおった口振りで呟いた。彼女もまた、握りしめた拳が色を失い、白さを増した顔が蝋人形のようにこわばっている。言葉尻に棘があったが、歓喜のただ中に浸るダネルの耳には、凪のそよ風にかき消されるほどどうでもよい音の差であった。


「歴史的瞬間だ。――五年間、この瞬間ときだけをずっと夢見た!」


 壮大な自己陶酔に陥った者特有の、尊大な台詞である。

 だがしかし、レイラには彼の傲慢な態度を笑うことができない。このままとどこおりなく海図が先遣隊の手に渡れば、彼の主張はただの純然たる事実となるからだ。




 彼らの故郷である東大陸ホルンガルドは、たったひとつの種族が統治するにはあまりにも広大な土地である。しかしながら、その国土の半分以上は、作物の実らない枯れ果てた荒野なのだ。

 東大陸の歴史は、土地の収奪をめぐる血みどろの侵略戦記である。他種族を排斥する差別的で抑圧的な社会が生まれたのも、このような厳しい土壌に起因する。

 さらには、年々各地で深刻な砂漠化が進み、その打開策として西大陸ユーラヘイム侵攻は提言された。

 いわば迷路海流の突破は、東大陸全土の切迫した未来を救う悲願なのである。


「かつて先人たちは、西大陸ユーラヘイムへさえたどり着けば、そこに迷路海流の全容を明らかにする海図が存在すると踏んでいた」


 だが彼らの期待はあえなく打ち砕かれた。

 東大陸に比肩する雄大な大地と、風光明媚な自然にいだかれて生きるかの地の人々は、遠洋に対する意識が薄い。

 加えて、東大陸から亡命してきた者たちによって、鬼の棲む国の凄惨な物語はまことしやかに伝え聞くところであったので、わざわざ命の危険を犯してまで迷路海流を横断しようとこころざす者などいるはずもなく、気まぐれに東の彼方へ舵を切った愚か者は、例によって二度と白い壁の向こう側から戻ることはなかった。

 結果、迷路海流の謎は謎のまま、なんら解明されることなく今日まで放置され続けた。

 幸か不幸か、彼らの無関心な怠惰は、赤鬼の切なる野心を根底から瓦解させ、海を越えた国土拡張計画は大幅な遅れを余儀なくされたのである。

 潮目が変わったのは十数年前。迷路海流を観測中の先遣隊が、任務の片手間に亡命者らしき青鬼たちを乗せた船を拿捕した時であった。その船こそが、浮島と西大陸を行き来する貿易船だったのである。

 当時乗組員であった島民たちは、同胞への義理をたて、口を閉ざしたまま死んでいったが、積み荷から割り出された結論は死人よりも雄弁であった。

 そこから浮島の存在が導き出されるのにさほど時間はかからなかった。

 この事件は同時に、島の長と一部の島民にも赤鬼たちの動きを察知させる一助となった。もとより、島の者たちは本国に対する最大限の警戒を払って暮らしてきたが、ついに危惧していた悪夢が現実味を帯びたとなれば、やるべきことは限られてくる。

 最善の策は、島を引き払い全島民を西大陸へ住まわせ、海図を人知れず破棄してしまうことである。叡智の結晶たる海図も、本国に存在を知られた時点で諸刃の剣と化した。その鋭利な切っ先が西大陸を滅ぼす前に、捨て去るべきなのは火を見るよりも明らかである。 

 だがしかし、彼らにはそうできないわけがあった。

 海図もなく、十分な備蓄も積まずに霧の海へ挑んだ遭難者の生存率は、一割を切る。

 遥か悠久の昔より白濁の雲海を我が庭のように遊泳してきた浮島は、成すすべなく迷路海流の怪異に囚われていた青鬼たちを、何百、何千と拾いあげてきた。

 いわば、あの岩島は巨大な救命艇なのである。

 ゆえに青鬼たちは、島の内側に砦を造り、生活できるだけの基盤を築いた。

 すべては、自分たちよりも後からやってくる同胞の最後の希望となるために……。たとえ救える者がわずかな人数であったとしても、一人でも多く、彷徨さまよえる同族を迎えいれるために、彼らは島に住み着いた。

 そして、気の遠くなるような観測の果てに、この世で唯一の迷路海流を網羅する海図が完成したのである。

 島を捨て、海図を捨てるということは、これら先人のたゆまぬ善意と、これから命を賭して海へ出る同胞の命をも捨てることと同義であった。

 西大陸の安寧か、同胞の命か。

 選択を迫られた彼らは、苦慮の末に、島へ留まることを選んだ。

 温かな笑顔とねぎらいの抱擁に迎えられた瞬間の、震えるほどの歓喜を身をもって知っている彼らにとって、あたえられた幸福を裏切るような真似をできるはずがなかったのだ。

 東大陸ホルンガルド西大陸ユーラヘイムの命運を左右する海図は、島の奥深くに隠された。

 海図の内容は島長と、貿易船を操る航海士のみが知るところとなり、後継者は信頼できるものを厳選し、口伝によってのみ伝授されるようになった。

 以降、漂流者をよそおって赤鬼の息のかかったスパイが何度も島へ送り込まれたが、身内として迎え入れられることはあっても、海図への手がかりは徹底して隠匿された。

 なにより、東大陸において青鬼がひとり残らず奴隷であるように、スパイとして送り込まれた者たちもまた奴隷である。冷遇された生活しか知らなかった彼らにとって、島の温かな暮らしは、堪えがたいものがあった。

 潜入先で心変わりしないよう、本国に家族や友人を人質にとられていたり、破格な成功報酬を約束されてもいたが、北風は太陽の輝きには勝てない。表だって国を裏切ることはできなくとも、定期報告はいつも必ず「まだ見つからない」という判で押したような回答ばかりが並ぶこととなった。

 青鬼では駄目だ。ならばと次に白羽の矢が立ったのが、赤鬼でも青鬼でもない〝混じり者〟だったのである。




 ――男は嗤っていた。

 これから、この船に乗っている者だけでなく、島の住民たちも亡命者狩りの標的となる。一度でも枷を解いて脱走した奴隷は、その背中に咎人とがびと烙印らくいんをおされ、死よりも過酷な処遇が待ちうけているのだ。

 しかしながら、彼の胸に同情や罪悪感といったものは微塵もなかった。仮にも五年の歳月をともに過ごしたというのに、むしろ清々しいと言わんばかりに、男の心は満ち足りていた。


「たいした忠誠心ね」


 ダネルの高話たかばなしを聞き終えたレイラは、冷ややかに言った。


「よく情が移らずにいられたもんだわ」


 軽蔑をふくんだ感想に、彼もまたそれ以上の軽蔑を返した。


「混ざり者も同胞だ、ってか? 笑わせる。あんな言葉を本気で信じたのか」


「…………」


欺瞞ぎまんだ、もしくは偽善だ。これまでの惨めな人生をやり直そうと、自分を美しく着飾って、善人ぶりたいだけさ」


 腹の底に堆積して黒く腐った憎悪と私怨を、男はこれみよがしに並べたてた。


「国にいた時、ヤツらがになにをした? 汚らわしいと蔑み、鬱憤うっぷんばらしに虐げ、視界に入るなとののしった。そうしておいていざ国を離れれば、可哀想だったね、なんて他人事みてェに憐れみやがる。何度殺してやろうと思ったことか」


 レイラは否定することなく押し黙った。男は気分を良くして、大海へむかって高々と両腕を広げた。


「だがこれですべてが報われる! さぞ見物だろうよ。あの島の連中や、西大陸でのうのうと生きる元奴隷どもの顔が、恐怖と絶望で歪む光景は!」


 艦隊はもうすぐそこまで迫っていた。

 甲板で船を操る者たちの赤黒い屈強な体躯と、額にそびえる牛のようなずんぐりとした二本角まではっきりと目にすることができる。彼らは、砦の寄せ集め海賊とは違う。揃いの重厚な装備を身にまとい、指揮官の指示のもと迅速に動く統率された部隊である。

 まだいくらか距離があるというのに、貿易船で待ち受ける青鬼たちは、幼い頃より記憶に刻まれた畏れと身もすくむような圧迫感に息をつまらせた。


「世界の勢力図が塗り替わるぞ!! 俺たちの居るこの場所が、新しい時代の転換点となる!」


 東西の均衡を瓦解させる引き金を、自分が引いたという自負が、ダネルの獰猛な野心をはちきれんばかりに膨れあがらせていた。そのほとばしる熱情にあてられ、同じく計画に従事していた者たちの何人かは、次第にほの暗い高揚感に胸を躍らせた。


「……興味ないわ」


 レイラは、表情を硬くこわばらせながらも、一蹴するように首を振った。


「私は、自分の欲しい物が手に入れば、それでいいの」


 即物的なそっけない態度に、ダネルは面白くなさそうな様子で鼻を鳴らした。


「分かっている。お前のお望みはこれだろう?」


 ダネルは、銀色の液体が入った小瓶をレイラへ投げてよこした。


「こんなもののために一生破れぬ誓いをその身に受けるとは。可愛いほど、安い女だな」


「ほっといて」


 レイラは大事そうに小瓶を仕舞うと、ダネルの耳ざわりな笑い声を振り払うように、足早に船倉へと降りていった。

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