第3章 烏合の戦場

023 裏切り

 世界が揺れている。煮えたぎった溶岩を頭の中に流し込まれたかのごとく、鈍い痛みが沈殿し、ひどい耳鳴りがした。身体はろうで固められたように動かず、手足の感触がない。

 まるで生きながらにして死んでいるような錯覚に陥る。

 横になっているのか、はたまた立っているのかすら判然とせず、身じろげば強烈な吐き気をもよおした。

 この御しがたい感覚を、自分は知っている――。




「シノ殿! しっかりしてくだされ!」


 腫れぼったい瞼をなんとか押しあげれば、視界いっぱいに飴色の毛玉がせまっていた。


「大丈夫でございますか」


「……死にそうだ」


 完全に二日酔いの症状である。

 できることならこのまま泥のように床へ沈んでいたい。だだをこねる身体に鞭打ち、緩慢ながらも上体を起こした直後、ぐらりと世界がかしいだ。「わっ」と声をあげてネズミがころころ転がっていく。

 東雲しののめは暫時、瞳を瞬かせた。足もとが揺れていたのは酔いのせいだけではなかったのだ。

 五日間の放浪生活で嫌というほど身にしみついた平衡感覚が、気配りの利く小姓さながらに、さっと答えを差し出してくる。どうやらここは船の一室らしい。わだかまった潮の香りと、しけった木板の臭いが、その推察を後押しした。

 明朝に出るという話であったが、どうやら寝過ごしてしまったようだ。東雲は愕然とした。とんだ失態である。溺れるほど酒をかっくらった顛末てんまつとしては至極当然と言わざるをえないが、しかしそうは言っても、積み荷と一緒に船へ運ばれる間もいっさい目を覚ますことなく、のんべんだらりと惰眠をむさぼっていようとは。我が事ながら驚愕を禁じえない。

 泥酔した酔っぱらいを親切にも忘れず担ぎこんでくれた青鬼たちに、平伏して感謝を述べたいところであったが、――残念ながらそういうわけにもいかないらしい。


「なにがどうなってんだ……」


 東雲の身体は、頑丈な麻縄で幾重にも縛りあげられていた。

 彼だけではない。この部屋に押し込められている数十人の青鬼たちもまた、似たりよったりのありさまである。


「乗っ取られちまったのさ」


 そばにいた船乗りらしい初老の男が、苦々しく声をひそめた。

 他はまだ混乱を隠しきれない様子で、ただでさえ青白い顔をさらに青くわななかせ、怯えながら身を寄せあっている。なんとも見覚えのある光景である。違うのは、今回は自分も拘束された側であるということか。最悪だ。


「裏切り者がいやがったんだ。島民のふりをして、赤鬼オグルの海賊の手先がまぎれこんでやがった」


「ああ、なんとなくそんなこったろうと思った」


 状況を見れば一目瞭然である。ここ数日の苦労や歓喜がすべて振り出しに戻された気分で、東雲は白目をむいた。それもこれも調子に乗ってアホほど飲むから……、否、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。


「海賊の手先とは失礼な」


 捕らえた獲物を監視するように壁へ寄りかかっていた男が、咽喉の奥で嘲笑を転がしながらこちらを睥睨へいげいした。


「我々は本国から遣わされた、正規の部隊だ」


 黒緋くろあけ色の短髪に、赤鬼とも青鬼ともつかぬ均整のとれた体躯。島の食堂でレイラと言葉をかわしていた、混じり者の男であった。彼の他にも、島民として見かけた顔の青鬼たちが数人、半月型の片刃刀をひっさげて威圧的なにらみを利かせている。

 混じり者の男が、剣の切っ先を東雲へ突きつけた。部屋のそこかしこから、ハッと悲鳴じみた引き攣れた音があがる。


「傘下の賊から、大事な積み荷を奪って燃やした不届き者とは貴様のことだな?」


 詰問でありながら断定した物言いに、東雲は答えない。ただじっと鋭利な刃先を見つめて、悩ましげに低くうなるばかりだ。


「恐怖で声も出んか」


「――いや、美味い酒がもたらす快楽とその弊害について、今後どちらに天秤を傾けたもんかと……」


「なにをわけの分からないことを言っているのです!」


 どこからかネズミのまっとうな忠言が飛んでくる。しかし東雲にとってはのっぴきならない大問題なのだ。命か、道楽か……。

 しかしそんな個人的な命題など知るよしもない男は、額に青筋が浮かべ、イラだたしげに白刃を彼の首もとへ押し当てた。


「貴様っ」


 その時だ。切迫した空気を割るようにして扉が開いた。


「なにをしているの、ダネル」


 足早に部屋を横切るその人物を見とめた途端、飄々としていた東雲の双眸が、はじめて険しさを帯びた。


「遠方に船影が見えたわ。もうすぐ合流する」


「そうか。おい、ただちに準備に取り掛かれ」


 男の指示を受けて見張り役の青鬼たちが部屋から出ていく。東雲は目の前の人物をにらみあげた。


「なんでテメェがそっち側にいる」


「馬鹿ね。私はもともと赤鬼こちら側よ」


 青みを帯びた銀の髪の少女が、陶器のような面差しで東雲を見おろした。冷めた表情で男の横へ並び立つレイラに、東雲は盛大な舌打ちをした。嫌悪や糾弾をこれでもかと詰めこんだ音であった。

 その臆面もない態度に触発されて、怯えていた青鬼たちも、いよいよもって気色ばんだ。


「ダネル! お前、五年も島で暮らしていたくせに裏切るのか!?」


「同胞を売るなんて!」


「俺たちをずっとだましていたんだな!」


 良心を疑う弾劾の声が噴きあがる。男は一笑にふした。低い、悪意に富んだ笑声である。耳障りな毒が険悪な空気を泡だてた。


「これだから貴様らは劣等民なのだ」


 混じり者の男はひとりの青鬼の髪を乱暴に掴みあげ、尖った耳の奥へ捻じこむようにゆっくりとあざけりの言葉を吐いた。


「たかだか海を越えたくらいで自由になれたと信じこむ、まさに家畜並の馬鹿さ加減よ」


 赤鬼を想わせる大きな手が、掴んだ頭の軽さを量るように右へ左へもてあそび、最後には容赦なく床へ叩き落とした。耳を塞ぎたくなる酷い衝突音があがる。水を打ったように室内が静まり返った。


西大陸ユーラヘイムへ目をつけていたのが、自分たちだけと思ったか」


「っ、まさか」


 船乗りである初老の青鬼が、みるみるうちに顔色を変えた。望みどおりの反応を得て、男は楽しげににんまりと口の端を引き上げてみせた。


「まったくおめでたい連中だよ。貴様らがあの陰気な穴倉でだらしなく酒を煽り、女々しくも傷をなめあっている間に、本国は着々と西大陸ユーラヘイムへの侵出を狙っていたというのになァ」


 食堂で東雲に水を手渡してくれた同一人物とは思われぬ、下劣な相貌そうぼうである。

 忍者の中にも、遠国で間者かんじゃとして暮らし、長い年月をかけて地位と信頼を築きあげるあなうしという者たちがいる。彼らは総じて国人としての人格と、忍としての人格を切り離して生活し、人々の輪の中へ滑りこむと聞く。この男も、ずいぶんとうまく化けの皮をかぶっていたものだ。

 長年腹の底に隠してきた一物を、気兼ねなく暴露できるこの瞬間がさぞ快感であるらしく、男は舌に油を塗りたくったように続けた。

 西大陸直前に横たわる複雑怪奇な海域、それこそが赤鬼の野心を阻む最大の障壁であった。

 迷路海流の攻略は、東大陸全土を統轄する大艦隊を投じようとも困難を極めた。なぜなら、霧深い広大な難所は、正しい航路をひとつ開拓すれば突破できるというものではない。日や時間ごとに、海流の構造ががらりと変化してしまうためだ。

 だがしかし、浮き島の住民たちはそんなデタラメな海域を我が庭のごとく漂泊し、西大陸との交易を確立することで生活の基盤を成り立たせてきた。すなわち――。

 男は腰にさげた皮鞄から、分厚い紙の束を取り出した。初老の青鬼が愕然と叫ぶ。


「それは! 迷路海流の海図!?」


「コイツを探し出すのに五年もかかってしまった。島長の老爺じじいめ、俺がどれほど骨身を惜しまず献身してやっても、海図など無いの一点張りだ。挙句に、海域の全容を記憶している人材は、島長と交易のいっさいを取りまとめる船長のアンタだけときた」


 膨大な記録をしたためた智識ちしきの結晶を、混じり者の男はうっそりとなでつけた。

 先ほど家畜と愚弄されはしたが、島民の内の何人かは、島が秘匿し続けた財物たからの価値とそれがもたらす未曾有の危機を、程度の差はあれ見とおしていた。

 青鬼ほど赤鬼の野心を良く知る種族はいない。この世に生を受けた瞬間から奴隷として汚辱にさらされ続けた日々が、それらの憶測を極めてたやすく呼び起こすのだ。

 特に、幾度となく西大陸へ帆先をむけ、かの地の素晴らしさに数え切れぬほど胸を震わせてきた船乗りたちは、この場の誰よりも海図の真価を理解していた。

 だからこそ、彼らは正しく絶望した。

 西大陸が赤鬼に蹂躙される。そんな直視しがたい絵図が、本国での凄惨たる日々の記憶と重なり、生々しい恐怖となって、彼らの心をバラバラにした。


「まもなく本国の船と合流する。――なァに、心配することはない。指揮官は寛大な御方だ。殺されることはないだろう。ただ貴様らも、あの島の住民も、ひとり残らず咎人とがびとくさびに繋がれ、死ぬよりつらい仕事を死ぬまでせねばならんというだけだ」


「この、下郎めが!」


 老人が叫んだ直後、男は顔面を蹴り飛ばした。


「言葉はつつしめよ老いぼれ。大人しくしていれば、貴様だけは西大陸ユーラヘイム侵攻の有能な駒として、他より長く生きられるかもしれんのだからな」


 どこまでも不遜ふそん言種いいぐさに、なりゆきを静観していた東雲も、はなはだしく背筋を逆なでされた。しかし東雲が行動に移すよりもはやく、老人が血を吐き捨て、凄絶な眼光で男を射抜いた。


「なめるなよ小僧。同胞を裏切るくらいなら、ワシは喜んで死を選ぶ」


 一切の迷いのない、果断な宣言であった。わずかに男の威勢がゆらいだ。

 絶望を切り裂く一矢を放った老躯の背中に、青鬼たちのしぼんでいた心は再び炎を取り戻した。二の矢、三の矢が破竹の勢いで後を追う。


「馬鹿にするんじゃねえ!」


「国へ連れ戻されるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ!」


「そんな脅しに屈してたまるか!」


「海へ出た時に、とうに捨てているのよ。無為に生きるだけの命なんて!」


「テメェこそ死んじまえ! 穢らわしい混ざり血めッ!」


 白刃が一閃した。最後に言葉を投げた青鬼の青年が、胴からおびただしい血を吹き出しくずおれた。


「……つくづく、頭の悪い連中だ」


 男は剣についた血を、無感動に老人の服でぬぐった。


「もう一度だけ機会をやろう。貴様が喜んで我々に協力すると言うのであれば、他の家畜どもの待遇も少しは改善されるかもしれんなァ」


 血溜まりの中に沈んだ亡骸を、見せしめのように靴の底でなぶりながら、男はせせら笑った。


「頭を冷やす時間をやろう。本国の船と接舷せつげんするまでに身の振り方を決めておけ」


 誰も口を開かなかった。

 一本気であった老人も、手塩にかけてきた新米船乗りのむくろに膝をつき、今にも飛び出してしまいそうになる罵詈雑言を、あらん限りの理性で噛み殺している。義理をたてて自分の命を捨てる覚悟はあっても、同胞を道連れにする心構えなど持ちあわせてはいなかった。

 手慣れていやがる、と東雲はひそかに吐き捨てた。

 人質を盾に、るかるかと選びようのない二者択一をせまる。義勇の心を折るには、このような外法げほうがもっとも手っ取り早い手段であることを、彼はよく知っていた。

 伊賀でも「反間ほど良き術なし」と、優秀な人材を離間させる際には、的確なからめ手のひとつとして推奨されるからだ。

 だがこの男の所業は、非道なまでに効率を重視する忍のそれとは、だいぶ事情が異なるように思われる。狡猾に計算高く立ちまわっているように見えて、その本懐は、罠にかかった獲物をいたぶることが楽しくてたまらない、子供じみた残虐さが見え隠れしていた。あるいは、目の前の集団よりも優位に立てるこの状況が、狂おしいほどの愉悦を呼び起こすらしかった。

 いびつに屈折した性根の臭いに、侮蔑と吐き気を覚える。

 しかしそれは、ある種の同族嫌悪からくるものであった。

 東雲は、自分が忍の枠からもはみ出した狂人であることを自覚している。腹の底に巣食う獣じみた生存欲は、東雲という人格を形づくる根幹であり、唯一にして最大の武器である。

 だからこそ、彼は男が飼っている獣の存在に気づいた。そして男もまた、東雲の歪な性根を感じ取っていた。

 狂人の理解者は狂人しかなりえない。しかしほとんどの場合において、別々の方向にねじれ曲がった彼らの関係性は、水と油なのである。


「あァ、忘れるところだった」


 部屋を立ち去ろうとした男は、思い出したように再度東雲の首筋へ白刃をそえた。


「粗野な海賊とはいえ、赤鬼オグル相手に叛乱をくわだて、さらには商品を根こそぎ駄目にした功績は賞賛にあたいする。だからこそ、こちらの邪魔をされては困るのだ。――潔く死んでくれ」


 東雲は平坦な冷笑を投げ返した。


「それが人にものを頼む態度か。頭が高ェ、やり直せ」


 一触即発のその時、これまで一言も声をあげてこなかったレイラが、唐突に彼らの間へ割って入った。


「ちょっと待ってよ、そいつは上から引き渡すように言われているの。勝手に殺さないで」


 焦りをにじませた早口の台詞に、東雲は怪訝な面持ちで片眉を動かした。そしてそれは混じり者の男も同じであった。


「見世物にでもするつもりか? 馬鹿馬鹿しい。海図が手に入ったこの重要な時局で、しつけのなっていない珍獣に気を配っている余裕などない」


「貴方の意見を訊いているんじゃないわ。上の指示だって言ってるの。それでも始末しようってんなら、貴方の独断だったって報告させてもらうけど? いいのかしら」


「…………」


 盛大な舌打ちをして、男は剣を鞘へおさめた。

 東雲はレイラの固く握られた拳を流し見るや、ひっそりとほくそ笑んだ。その表情をどうとらえたのか、男が腹立たしげに凄みをきかせる。


「命拾いしたな。まァ、じきに死んだ方がマシだと泣いてすがることになるだろうよ」


「糞食らえ」


 パンッ、と派手な音が鳴った。

 レイラが東雲の右頬を張ったのだ。


「勘違いしないで。アンタは私の点数稼ぎのために生かされているだけ。殺そうと思えばいつだってできるの」


 あらゆる感情を言葉の裏側で踏みつけにしたような声だった。

 男は彼女の行動に留飲をさげると、蔑みで濡れた笑いを落とし、部屋を出ていった。


「――おい、レイラ」


 後を追うように踵を返した少女の背中へ、東雲はこの場にそぐわないのんびりとした声で告げた。


「お前に〝蟄虫ちつむし〟はむいてねェ」


 その言葉の意味を、この場の誰も理解できはしなかった。

 しかしそれでいい。ただの戯言であり、なにかしらの応えが欲しかったわけではないのだから。

 銀の髪の少女は少し眉間にしわを寄せて東雲を見返していたが、やがてその言葉を置き去りにするように、扉のむこう側へ歩き去っていった。

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