014 ヘドロの業

 海の藻屑もくずと化した残骸もろとも波の狭間に巻き込まれた東雲は、咄嗟に島の岩肌を掴んだ。生温かな霧の下で荒れ狂う海流は、血も凍りつくほどの冷たさであった。心の臓がひゅっと収縮し、体温が瞬く間に根こそぎ奪われていく。歯の根が噛みあわず、口から呼気が漏れるのを必死に堪えた。

 島の側面を削らんばかりに襲いくる激流に流されまいと、苔で滑る岩壁に全身でへばりつく。指先はすでに氷のように感覚がなく、海面へ戻りたくとも、上層から圧し潰すような奔流が邪魔をする。

 東雲は一旦落ち着こうとあがくのをやめた。船が粉々にされた今、手を滑らせ大海原へ放り出されてしまえば、もはや助かる道理はない。水練すいれんに長じ、息の量も常人の数倍保つことができる力量を活かして、ここは慎重に浮上を試みるべきだ。

 だがしかし、その冷静な判断が新たなる災いを招いた。

 視界の端をかすめた異変に、東雲は即座に振り返った。暗い海の底から、ドロドロとした黒いヘドロ状のなにかが、急速にこちらへと迫っている。――デカい。魚のように身をくねらせ、歪な手足で水を掻くそれは、どこか無機質で生き物としてのていを成していなかった。

 飛ぶようにこちらへ接近してくる化け物に身構えれば、突然、泥をこごらせたようなからだの表面がぼこぼこと泡だち、ひしゃげた刀を想わせる禍々まがまがしい爪が現れた。

 弾かれたように東雲は強く岩肌を蹴った。海流に逆らわず深層へ沈んだ次の瞬間、ちょうど首があった位置の岩壁が、真一文字に鋭く斬りつけられる。刻まれた傷跡の深さに戦慄が走った。一瞬でも判断が遅ければ、頭と胴がおさらばしているところだ。

 急いでさらに深く潜り、長い爪が届かない化け物の腹の下へまわる。

 するとまたしても、ぼこぼこと腹の表皮がうごめき、今度は無数の凹凸が現れた。驚いたことに、それはまるでいくつもの人の顔のようであった。

 どろりと溶けたのっぺらぼうのような顔が、一斉になにかをしゃべりだす。意味のある言葉ではない。剥き出しの憎悪と殺意が、けたたましい音となって東雲に降りかかった。

 陰々とした怨嗟えんさの叫声が耳をつんざき、金縛りにあったかのように身が硬直する。

 騒ぎを聞きつけ、化け物の頭部がぐるりとこちらを向いた。海水を掻き分け、捕らえ損ねた獲物を逃がすまいと、黒光りした爪が伸びてくる。

 ハッと我に返り、岩壁づたいに上昇しようと身を翻す。しかしその身体を、新たに生えたひだ状の触手が絡めとった。間一髪、両腕を首まわりに差し込み窒息はまぬがれたが、気持ちの悪いぶよぶよとした触手は容赦なく東雲を絞めあげる。身じろぐも、そのあまりの強い力に抜け出せそうにない。ミシリ、と肋骨が悲鳴をあげた。

 目前まで迫った爪が振りかぶられ、再度東雲の首へ突き立てられる寸前で足を振りあげ、爪の根元を蹴りつけた。突っぱねるように膝を伸ばせば、爪はなおも喉笛を狙って力をこめてきた。

 ここで足や腹を斬れば簡単に東雲をほふることができるというのに、頭のできが悪いのか、化け物はひたすら目前の首ばかりに執着している。しかしそんなささいな幸運など、つかの間のなぐさめにしかならない。

 拮抗していた力が、徐々に化け物の方へと軍配をあげはじめた。身体を絞めつける襞に肺を圧迫され、ごぼりと空気の泡が逃げ出していく。息がもう保たない。


(っ、くそッ、死んでたまるか……!)


 東雲は渾身の力で襞を押し返した。

 その時、ずるりと腰の帯布がゆるんだ。内側から、淡い輝きを放つ小さななにかがぽろぽろと零れ落ちる。――種だ。砦の地下からくすねた宝石のような透明の種が、激しい下降海流に乗って海の底へと沈んでいく。

 すると化け物が急に動きを止めた。躰に浮き出たすべての顔が、一斉に沈みゆく種へくぎづけになる。触手が離れた。

 化け物はもはや東雲のことなど忘れ去ったかのように、流されていく種を追いかけて、一目散に深い水の底へと潜っていった。




「っ、はぁッ!」


 岩壁を這いあがり、久方ぶりの海面へ浮上した東雲は、ぜいぜいと荒い息を繰り返した。かじかんだ手を叱咤しったし、なんとか陸地へと身を横たえる。しとどに濡れた体に生温かな空気が纏わりつき、少しずつ血の気が戻っていった。


「はっ、鬼のお次はうみ坊主ぼうずってか? つくづく油断ならねェな、ここは……!」


 なんにしても気色の悪い化け物だった。東雲は上体を起こすと、ずり落ちる帯布を片手で掴んだ。そのひょうしに、帯の隙間から数粒だけ残った種が転がり落ちる。

 瓢箪ひょうたんからこま、ではないが、ちょっとした欲をかいて持ち出した盗品のお陰で、思わぬ命拾いをした。

 淡く透きとおるそれを指先でつまんで、しげしげと眺める。一体これはなんの種なのか。砦の奥底に隠されていたのだから、価値あるものだとは思っていたが、まさか得体の知れない化け物すら脇目もふらず欲しがろうとは……。

 そんなとりとめのない思考を遮るように、どこからともなく悲鳴が聞こえた。

 この耳ざわりな甲高い声は、青鬼の少女に違いない。


「いかん、金ヅルが」


 東雲は気だるい身体をはね起こし、声のした方へと駆け出した。

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