013 海の墓場
それからどれくらいの時が経っただろうか。
陽の光が届かない
霧の内側は、生暖かな気流と冷たい気流がかわるがわる渦を巻いて、乳白色の空気の塊が滝のように、もしくは巨大な生き物のように
東雲も、はじめこそは移りゆく白の世界に興味深げな視線を送っていたが、次第に飽きがきてしまった。今では、船の縁に頬杖をついて、かわりばえのない光景をなにをするでもなく眺めている。
からりと乾いていた船板はしっとりと湿って、髪の毛先にもこまかな水の
すべての景色が水墨画のようにぼんやりと滲む世界に閉じ込められ、ともするとずっと同じ場所を
会話は絶えて久しく、舳先が波を掻きわける音だけが、終わることのない
誰も口に出しはしないが、彼らの頭には、まったく同じ内容の危惧が瞬いていた。
時間が止まってしまったような静寂は、彼らの精神をじわじわと
しかし、そんな息のつまる状況下にあっても、東雲だけは特にこたえた様子もなく大きな欠伸をもらした。
忍者とは、読んで字のごとく〝忍び堪える〟者である。針の
つまるところ、このような停滞は慣れっこなのだ。
しかしながら、だらけきった体勢に反して、黒々とした鋭い双眸は、あますことなく周囲を見つめている。
最低限の食料と水さえ持たない彼らには、干からびるよりも前に陸地へたどり着くことだけが唯一の活路である。――逆にいうと、他にできることも特にないのだ。むしろ余計な体力を使わないよう、極力動かずしゃべらない方が良い。
それは他の二人にもわかっていた。
しかしなにもすることがない状態というのも、それだけで神経を疲弊させる。先の見えない絶望的な航海である。不安が胸を塞ぐのもやむをえないことであった。
膝を抱えうつむいてしまったレイラを、トトが心配して気遣う声をかける。しかしその表情は晴れない。東雲は舌打ちした。
「そんな顔するくらいなら、脱走などするんじゃない」
なんだか無性に気に入らなくて、あけすけな台詞が飛び出した。叱責とも、皮肉ともとれる物言いに、レイラはわずらわしそうな様子でぼそぼそと言い返した。
「うるさいわね。――私だって、覚悟は決めているつもり。あのまま惨めに生きるくらいなら、たとえ死ぬことになっても、あの場所から出たかった……。でもだからって、死にたいわけじゃないのよ」
「…………」
言いたいことはよくわかる。しかしそんなことを言ったところでどうなるというのだ。
東雲は自分でも気づいていなかったが、少女の分不相応ながめつさをそれなりに気に入っていた。
彼女の行動は良くいえば決断力があり、悪くいえば短慮で無謀である。本人はいろいろと悩んでいるつもりなのだろうが、若さゆえの考えなしな言動が目立った。その証拠に、命懸けで国を出たくせに、今頃になって死の影におびえている。あきれるほど近視眼的である。
しかしその破天荒さは、常に打算で石橋を叩かなければ行動へ移すことができない東雲にとって、少しばかりうらやましくもあった。
だからこそ、暗くしおれている少女は見ていて面白くない。
「生き残りたいなら、うつむいている暇なんかねェぞ」
東雲は二人に背をむけ、ゴソゴソとなにかをいじりはじめた。そしてすぐに、細長い物をレイラへ投げてよこした。
「……なによこれ」
それはなんの変哲もない、縄をほぐしただけの一本の麻紐だった。
「やることねェなら釣りでもしてろ。馬鹿な魚なら引っかかるかもしれん」
よく見ると、先端が綿毛のようにけばだたせてある。餌がないため、虫を模した擬似餌のつもりだった。
レイラは、こんなもので釣れるのかと、疑わしげに紐をつまんだ。
まあ釣れねェだろうな、とは口にはすまい。この際、釣れる釣れないはどちらでもいいのだ。ただ手慰みでもあれば、この気が滅入るような空気も少しはマシになるだろうと思ってのことだった。
しかし、疑うことを知らない純粋なネズミは、そらぞらしい口八丁の擬似餌にコロッと一本釣りされた。
「さすがはしのにょめどにょ!」
そして噛んだ。
――地獄の住人にとって、この名前はそんなに言いづらいのだろうか。
トトはまたしても恩人の名前を間違えたことに落ち込み、そしてレイラも、先ほどの失態を思い出したのか、きまり悪そうに明後日をむいた。どちらも耳が赤く染まっている。
微妙な空気が流れた。
「まあ、うん……、もう好きなように呼べ」
狙った結果ではないが、これはこれで、ありだろう。
意図せず悲愴な雰囲気を霧散させた立て役者は、一転してほがらかに言った。
「では、シノ殿と!」
+ + +
迷路海流をあてもなく漂泊すること五日が過ぎた。
広大な霧の海域はどこまで進んでも終わりが見えず、日数を確認する手立ては、淡く届く陽光が途切れる時間帯を数えるほかない。
幸い、しとしとと糸のような細い雨が断続的に降ってくれるので、少量の飲み水を確保することはできたが、案の定釣りの成果はさっぱりであった。二日目からは縄をばらして小さな網をつくり海へ垂らした。すると、まれに小魚やエビが引っかかるようになった。しかし空腹を癒すにはほど遠い。しばしば海面を浮きつ沈みつ流れてくる海藻を拾っては、かぼそい声で鳴く腹の虫をなだめるのだった。
沈黙と倦怠の日々に、一番まいっている様子なのはレイラだ。しかし初日の一件以来、彼女の瞳から生きようとする意志が消えることはなかった。少女とて、まがりなりにも鬼である。外見こそ貧弱な印象をぬぐえないが、案外タフなのかもしれなかった。
かくして、五度目の
熟れ落ちた太陽の光が、霧の底を怪しげな赤銅色に染め、ただでさえ不明瞭な視界を暗くぼやけさせていく。夜の帳が色濃くなるにつれ、今日もまた駄目だったかと、各人の胸に重い落胆が生まれた。
だが、その時である。
ふいにトトが大きな耳をピンと立て、豊かなヒゲを震わせた。そしてやや緊張した空気を纏いながら、警戒した面持ちで船の後方へ鼻先をむけた。しっとりと水気をおびた飴色の毛が、剣山のように逆立っている。常にないその様子に、東雲たちも船尾へ視線を走らせた。
しかし当然ながら、重厚な霧の壁に阻まれて、一寸先も見通しがきかない。
「……なに? なにかあるの?」
「わかりませぬ」
張り詰めた沈黙が船の上にわだかまった。警戒と不安と、かすかな期待を抱いて薄闇を見続けることしばらく……。
次に反応を示したのは東雲であった。
時刻は
返す返す眺めても、ただの板きれである。しかし、彼らが肩すかしに拍子抜けした直後、間を置かずして異様な光景が船のまわりを取り囲んだ。
どこからともなく漂流してきたおびただしい量の板くずが、海面を埋め尽くしている。突然、トトがはっと息を飲んだ。
「あれはっ、
「なに?」
「……嘘でしょ」
見る影もなくバラバラに打ち砕かれた残骸の山は、一隻だけのものとは思われない。
まさしく船の墓場ともいうべき場所に、小さな帆かけ船は飲み込まれた。
トトが瓦礫へむかって声をかけようとした。残骸の中に、遭難した青鬼たちがいるのではないかと思ったのだ。
しかしその口を、東雲の手の平が塞いだ。
「むごっ」
「静かにしろ……、なにか来る」
その言葉が終わるやいなや、前方にぽっかりと闇が現れた。
太陽が雲にでも隠れたのかと思ったが、どうやら違う。雲海の一角に、暗く
彼らが見ている目の前で、
霧が不気味に渦を巻き、尾を引きながら流れていく。
白い
それはなんと、苔むした陸地であった。硬い岩盤に覆われた岩島が、荒波を起こしながらこちらへ迫ってくる。
「……あー、
「バカ! そんなわけないでしょう!?」
「ぶつかりますぞ!」
悲鳴をかき消す轟音が霧の海に響き渡り、小船は木端微塵に吹き飛んだ。
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