第2章 泳ぐ極楽島
012 漂流
戦国時代における死生観というものは、仏教の経典によるところが大きい。
かくいう
尾張の雄、織田信長が比叡山を焼き討ちにした直後のことである。
東雲の地獄に関する知識は、この時に聞きかじったものが大半だ。とはいえ、たらたらと長ったらしい僧侶の説法など、眠たくてこれっぽっちも真面目に聞いちゃいなかったが。今となってはおおいに反省している。
だがしかし、東雲はお偉い高僧がたに一言物申したい気分であった。
「ひょろっちいな……」
「……なによ?」
青鬼の少女が怪訝な面持ちで東雲を見た。
小さな帆かけ船の上である。甲板の端と端に離れて座っても、すぐに手が届く距離だ。少女にとってはそれがどうも居心地が悪いらしい。警戒した様子で、東雲のかすかな指の動きにすら、じっと視線を注いでいる。まるで迷子の小鹿のようだ。
仮にも命の恩人に失礼な、と皮肉めいた気持ちがひらめいた。しかし気を悪くすることはない。心を許していないのはお互いさまであった。
赤鬼の砦はすでに水平線のむこうへ遠ざかり、ようやく人心地ついたところである。あらためて東雲は、まじまじと少女の容姿に目をむけた。
みすぼらしいボロ布からのぞく彼女の手足は細く、肌は透けるように白い。小ぶりな耳は先の方が尖っており、青みがかった
東雲は顔の
(鬼というより、
これまで、あまり良い暮らしをしてこなかったのだろう。白魚のような指先は荒れ、身を守るように強張った細い肩には、どこか薄暗い影がまとわりついている。
「あんまりじろじろ見ないで」
少女は憮然とした態度を隠しもせず柳眉を
東雲は笑った。均整のとれた容姿よりも、よっぽど好ましい器量である。
「こいつァ悪かった。額から角を生やした女など、今生出逢ったことがないものでな」
「……私だって、角の無い男は初めて見たわ。……耳も変な形だし」
なるほど、過度な警戒の理由はそういうわけもあったか。
「人間を見たことはねェか?」
「ニンゲン……? 知らないわ。アンタみたいな種族、見たことも聞いたこともない」
ほー、と東雲は煮え切らない相槌をうった。
ネズミも似たようなことを口にしていたが、やはり解せない。不義謀略が横行する浮き世で、自分だけが地獄逝きであろうはずもない。幽界には亡者の罪に応じていくつかの階層があるというが、よほど辺鄙なところへ飛ばされたのだろうか……。
しかしまあ、それならばそれで構わなかった。会いたくない相手は山ほどいても、死してなお逢いたい相手など、ひとりもいやしないのだから。
「そういや、お前さん名は?」
こんがらがった疑問の山はひとまず置いておくことにして、東雲は他愛ない問いを拾った。人知のおよばない
少女は数秒口をつぐんでいたが、やがてこりかたまった言葉を噛んでほぐすように呟いた。
「……レイラ。アンタは?」
「東雲じゃ」
「ふーん、しのにょ……っ」
ぱっ、と少女の白い頬に朱が咲いた。思わず東雲の唇が底意地悪く歪む。途端、少女の瞳に反抗的な色が戻った。
「変な名前、言いづらいわ」
「お前さんが舌ったらずなだけだろう?」
「っ、やっぱり嫌なヤツ!」
なおもニヤニヤとからかえば、少女はたちまち機嫌を悪くしてそっぽをむいた。ネズミとは違う方向で態度に出やすい性格のようだ。
「嫌なヤツついでに、ほれ」
「……なに?」
東雲は少女へむかってずいっと手を差し出した。
「報酬じゃ、銭六割。忘れたとは言わせねぇぞ」
催促するように手の平を上下させれば、少女はあからさまに顔をしかめて、銭でふくらんだ麻袋を遠ざけた。
「まだよ。まだ渡すわけにはいかないわ」
「おいおい、話が違うぞ」
「砦から逃がしてくれたことには礼を言うけど、まだこの近海には赤鬼の船が網を張っているの。無事に
「ゆうら……?」
「……アンタまさか、
少女はあきれて尋ね返した。
「お前さんらが鬼の国から逃げてきたということは知っているぞ。その〝ゆーらへいむ〟という国を目指しておったのか?」
「……そうよ。私たちの故郷
レイラはためこんだ一生分の愚痴を整理するように、ぽつぽつと故郷の惨状を吐露した。
東大陸では、赤鬼以外の種族はすべて下層民としてあつかわれる。彼らは幼いうちから過酷な労働に従事させられ、生きていくために必要最低限の衣食住は保証されるが、怪我、病気、老いなどで働けなくなれば容赦なく切り捨てられる。
未来に希望などなく、ただただ同じ毎日を繰り返し、死を待つだけ。
そんな環境から逃れるために、少女は命を賭して海へ出たのだ。多種多様な種族が抑圧されることなく暮らしているという、豊かな土地の噂を信じて――。
「だから、そこへ着くまでは契約続行よ」
「……仕方ねぇな」
乗りかかった船である。海上では金の使い道もないことだし、情報源となる彼女といたずらに対立するのは得策ではない。
はて、情報源といえば――。
「おふた方、どうやら困ったことになりましたぞ」
「……おう、ネズ公、いたのか」
「ずっとおりましたが!?」
ひょっこりと現れた小さな毛玉は、いつの間にやら立派な旅装束に身をつつんでいた。
赤鬼に奪われていた私物を回収したらしい。
落ち着いた緑の
「いやさ、姿が見えんから、てっきり風にでもあおられて海へ落ちたかと思ったぞ」
それは心配をおかけして、とトトはかしこまって頭を下げた。軽い冗談のつもりだったのだが、真にうけたようだ。
仰々しいほどの礼節をもって東雲に接するネズミの態度に、レイラが変な顔をした。物言いたげな視線を受け流し、先をうながす。
「なにかあったか?」
「実は……」
どうやらこの抜け目ないネズミは、短い時間にも骨おしみすることなく、船内を探っていたらしい。
この手狭な帆かけ船には、屋根つきの小さな船室が備えられている。先ほど東雲も中をのぞいてみたが、特筆すべき物はなにもなかった。――それが問題であった。
「食料はおろか、水もほんのわずかしか積まれておりません。その上、羅針盤や海図ですら乗せられていないのです」
出航準備前の船を強奪したのだから当然である。あの大騒動の最中そこまで気をまわす余裕はなかった。東雲は後悔しても栓なしと肩をすくめたが、青鬼の少女はただでさえ青白い顔をさらに青ざめさせた。
「ようは西へ行けば良いんだろう。おおまかな方角さえ確かめてりゃあ、いずれはどっかに流れ着くさ」
「……馬鹿ね。そんな適当な航海で
レイラはへたりこんで頭を抱え、トトも険しい表情をしている。
「どういうこった」
「……
「あー……、そりゃあまた……」
ようやく事態の深刻さが伝わった。なるほど、食料も水もないとなれば、永遠といわず数日が生きていられる限度であろう。
「つまりあれか、遭難
なかなかどうして、前途多難である。
「一縷の望みは、先に出た船に積み荷が残されていれば、あるいは……」
捕縛されていた青鬼たちが乗り込んだ船は、こちらのものより規模の大きな帆船だった。もしかすると、それなりの備えが積まれたままになっていた可能性がある。
すがるような思いで、二人と一匹はそろって
しかしその時になって、彼らは海上の様子がおかしいことに気づく。
望みの船影はどこにもなかった。
太陽の位置から判断しても、進路はまっすぐ西へ軌道をあわせたままである。
「なんだありゃあ……」
遥か前方に、灰白色の濃霧がたっぷりとした
おそらく青鬼たちの船は、あの霧の帯のむこう側へ隠れてしまったに違いない。
「思い出しましたぞ……」
果てしなく続く冬の山脈のような水平線を見据えて、ネズミが静かに言葉を紡いだ。
「
やがて、彼らを乗せた小さな帆掛け船もまた、分厚く渦巻く霧の中へと飲み込まれていった。
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