011 いざ、暁の空へ

 青白い月の光が泰然と降り注ぎ、肌があわだつ。天空へ身ぐるみを剥がされてゆくような引力を振り払い、東雲は大地を蹴った。つとめて月に目をむけず、一目散に駆け走る。

 幸いにして、またしても肉体が光り出すといった怪現象にみまわれることはなかった。しかしながら新たな誤算が起きた。

 少女は華奢な見た目に反して信じがたいほど重かったのだ。予想外の過重にいじめられた腕が、にじみ出す汗とともにじわじわと感覚を失っていく。慣れないことはするものではない、東雲はすでに彼女を放り捨てたい衝動にかられた。


「だ、誰っ!?」


「やかましい! 死にたくなかったら耳もとで喚くな!」


 少女も粉を少し吸い込んだのか、咳きこみながら抵抗するように手足をばたつかせた。東雲のイラだちが増す。ネズミに感化されたのか知らないが、柄にもなく恩を返そうなどと軽率な行動に出たことを悔いる。

 さらには、背後から目を血走らせた赤鬼たちが追ってきていた。思いのほか彼らは足が速い。自分ひとりであれば逃げおおせられるだろうが、彼女を抱えていては、追いつかれるのも時間の問題だった。

 少女の膝が後頭部を蹴った。――あぁ、投げ捨ててしまいたい。しかし一度助けた手前、そんなことをしては格好がつかない……。

 東雲は業を煮やして吠えた。


「おい鬼娘、取り引きだッ!」


「っ、こんな時になに!?」


「袋の中の銭を寄越しな、そしたら助けてやる!」


「はぁっ!?」


 少女は驚愕したものの、刻々と迫ってくる赤鬼たちを見て、表情を引き締めた。


「……、断ったら?」


「放り投げて、赤鬼どもの生け贄にしてやる」


「っ、取り引きじゃなくて脅しじゃない!? この外道!」


「やかましい! 自分の身も危ねえって時に、タダで善意が売れるか!」


 少女はぐっと口籠った。言い募りたいことは多々あれど、背に腹は変えられないといったところか。


「全部は嫌、四割よ。それ以上は譲らないわ」


「わかった、俺が六だな」


「私が六よ!」


 東雲はまたひとつ袋をばらまいた。砦の倉庫から逃走用にいろいろと拝借していたのだ。案外二人は似た者同士なのかもしれない。

 尖った鉱物が地面に散らばった。マキビシのつもりであった。

 しかしながら、鬼は平然とそれらを踏みつぶした。舌打ちが漏れる。つくづくデタラメなずうたいである。

 闇雲に狙っても意味がない。東雲は三本の縄を振りまわした。縄は中心でひとつにたばねられ、先端に拳ほどの鉱石が結びつけてある。〝微塵みじん〟という投擲用の武器である。

 勢いよく風を切り、鬼めがけて飛来した微塵は、遠心力で三つ又に広がりながらそのいかつい顔面へと絡みついた。次いで目、鼻、唇に鉱石のすいが直撃する。野太い悲鳴があがった。

 うわ、と少女が引きぎみな感想をこぼして、自分の口を手で覆った。顔面への攻撃は、その威力以上に精神をひるませる。運悪く白羽の矢をうけた鬼の足がとまり、他のふたりも驚きで走る速度を落とした。

 その隙に、東雲は前方へと視線を投げた。海岸はすでに目前に迫っている。

 ネズミの言葉どおり、砦の外は寂れた孤島であった。草木一本生えておらず、地面には地下の隠し部屋に使われていた石材と同じ赤黒い岩がごろごろと転がっている。

 島の外周は荒波でえぐられ、断崖となって切れ落ちていた。

 月が沈む西岸に、下へとのびる細い道があり、その先に二隻の船が停まっている。手前の小さな帆船の上で、飴色の毛玉が飛び跳ねていた。律儀に東雲を待っていたらしい。

 もう一隻は海賊の本船のようで、厳めしい髑髏の船首がまばゆい炎に揺らめいている。ネズミが青鬼たちを指揮してここにも油をまいたのだ。これならば逃げた船を追跡することはできまい。つくづく抜け目ない獣である。

 その青鬼たちは無事に離島したらしく、沖合にうっすらと船影が見える。

 続いて小道へ急ごうとした東雲の行く手に、巨大な金棒が襲いかかった。砕かれた小石を腕で払い、咄嗟に数歩後退する。得物を投げた赤鬼が、進路をつぶすように立ちふさがった。

 遅れて、後ろからもうひとりが合流しようとしている。このままでは挟み撃ちにされる。

 だが、他に降りられそうな場所などない。

 さすがに焦りがにじんだその時、東雲は自身の懐の衣が不自然に盛り上がっているのに気づいた。


「!」


 肌に触れる硬質な感触に、彼はこの場を切り抜ける活路を見出す。

 イチかバチか、東雲は海へむかって叫んだ。


「ネズ公! 出せ!」


 さといネズミは、その一声で即座にもやい綱をかじり、帆を降ろした。

 東雲は駆け出した。その行く先は崖である。

 無謀にも虚空へ飛び出した彼らを、赤鬼たちのあっけにとられた顔が見送った。少女の悲鳴が、白みゆく夜空に高く響く。

 彼らはそのまま空中を滑るように浮遊した。東雲の手の中で、黒い蓮の花がくるりくるりと廻っている。あの昇降機におさめられていた花である。

 花は、暗い地の底から解放されたことを喜ぶかのごとく、淡く光の尾を引いて、朝焼けの空へと舞いあがった。

 その行く先には、水平線の毛布を肩までかけた月の光が、この日最後の来客を手招いている。――しかし、


「――……まだ、そっちにゃ逝けねェんだ」


 東雲は、蠱惑的な月の誘惑を振りほどくように花から手を離した。もう身体が泡になることはない。彼はしっかりとした足取りで、小さな帆船へと降り立った。甲板が大きく揺れ、波しぶきが海の宝石のように輝く。

 東の空にまばゆい太陽が昇り、漆黒の砦を黄金色に塗り替えた。

 それはまるで、彼らの旅立ちを祝福するような、生涯でもっとも美しい朝焼けであった。

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