010 月光と泥棒娘

 はてさて、ここからは運と時間の勝負となる。

 東雲は入り組んだ通路を迷いなく駆け走った。忍者は一度通った道順を決して忘れない。

 道中、各所に置かれた篝火を蹴り倒し、炎の壁を築いていく。

 現世うつしよでも地獄の釜の恐ろしさは耳に届くところであったが、やはり赤鬼たちの使う油はよく燃えた。通路の幅がせまいことも功を奏して、炎はありの這い出る隙間もなく燃え広がった。

 そのようにしていくつかの角を曲がると、前方に上階へと続く階段が見えてきた。ネズミとの会話にもあった、もっとも注視すべき要所である。

 しかしそこにはすでに、他よりも分厚い炎の障壁が、轟々と火の粉を散らし燃え盛っている。

 周到にも、彼は地下へと降りる直前に、運び出しておいた油樽をしとどにぶちまけておいたのだ。

 炎の壁が鬼相手にどれほどの障害となりえるかは賭けであったが、幸いにも、上階で待機しているはずの者たちは、ただのひとりとして降りてきてはいない。

 さしもの赤鬼も、螺旋階段の半分以上をふさぐ業火へ飛び込むことはできないようだ。天井まで黒くこがす熱気のむこうから、異変に勘づいた赤鬼たちの騒ぐ声が、耳に痛いほど伝わってくる。東雲はほくそ笑みながら、足をゆるめることなく走り抜けた。


(――ひとまずは重畳ちょうじょう……!)


 もはや彼の行く手を阻む者はいない。

 逃走の極意は、いかに追っ手を長く足止めできるかにある。そのための釣り餌として、あの不気味な幽霊草に目をつけた自分を、東雲は盛大に褒めたたえてやりたかった。地下へ隠してあったのだから、よほどの値打ち物だろうと踏んだのだが、まさか蜂の巣をつつくほどの大混乱に発展しようとは、望外の成果である。

 すでに青鬼たちはネズミに先導されて砦を出た。次は東雲の番である。

 そしてついに、門番のいなくなった玄関口へ、彼はたどり着いた。ここまで来れば後はこちらのものである。

 かなり年季が入っているのか、ところどころサビついた鉄の門扉を押し開く。隙間に凝固していた塩の結晶がぱらぱらと落下した。軋むような音を立てて、夜気に冷やされた潮風が、熱気と高揚でほてった首筋をなでかすめていった。

 朝がもうすぐそこに横たわっている。

 天には白銀の月が出ていた。

 薄れゆく紺碧こんぺきの夜空の大部分を陣取って、巨大な満月が、あらがいがたい引力をたたえ彼を歓迎していた。神々しいまでに荘厳な美しさである。砂金のような無数の流星が、螺旋状に渦を巻いて、怪しげな光を放つ月へ次々と呑み込まれている。

 信じがたいほど幻想的な光景に、東雲は圧倒され、畏敬にも似た恐れを抱いた。

 その時だ。


「――ッ!?」


 突如として、噴き上がるような悪寒が全身を貫いた。

 脳髄を滅茶苦茶に掻き乱されるような激しい頭痛が襲い、ぐらりと視界が傾ぐ。眼球の奥がチカチカと瞬き、身体中の毛穴から大粒の汗が噴き出した。

 東雲は、自身の体がこまかい光の泡となって崩れていくような錯覚をおこした。

 本能的な危機感に背筋が震え、心臓が胸を破り、飛び出さんばかりに早鐘を打っている。


(――っ、喰われる、月に、呑みこまれる……ッ!!)


 平素ならばなにを馬鹿なとせせら笑うところだが、恐るべきことに、その突飛な発想が真実であると確信する現象がおきた。指先が淡く光りを発し、水泡のごとく透きとおって散り散りにばらけようとしている。まるで、色とりどりのまばゆい箒星たちとともに、天河てんがのひと雫に加わりたいとざわめいているかのようだ。

 東雲は咄嗟に指先を握りこみ、今にも崩れてしまいそうな自らを必死で繋ぎとめた。

 漠然と、巨大な月の光から逃れなければと思うのだが、どういうわけか、炎へ身を投げる夏の虫のように、艶美えんびな輝きに魅せられて瞳をそらすことができない。

 徐々に、己が己でなくなっていくような感覚がした。

 真綿のように優しい光へのいざないが、しきりに彼の名を呼んでいる。

 しかし東雲はそのむこう側に、死の淵で感じた虚無と同じものが待ち受けていると直感していた。

 月に瞳を奪われたまま、東雲は懸命に引力へあらがい、じりじりと後退をはじめた。足袋のかわりに巻いた布が月の光を遮断してくれているおかげで、まだ足は原形をとどめている。しかしわずかでも気を抜けば、途端にぐしゃりと潰れてしまいそうな危うさがあった。

 次第に視界が白銀のもやに覆われ、いよいよ正常な思考すら保てなくなった、その直後――。

 ふいに眼前をなにかが落下し、月の光をさえぎった。

 その瞬間、弾かれたように東雲は後方へ飛びのいた。

 金縛りが解け、一気に新鮮な血液が体内を駆けめぐる。――なにが起きたというのか。

 東雲は砦の陰へ舞い戻り、荒れ狂う動悸を抑えながら、足もとへ視線を走らせた。

 地面に落ちていたのは、くたびれた麻袋であった。これが彼の視界を覆ってくれたらしい。

 改めて自身の身体をつぶさに調べても、もう崩れる気配は感じなかった。わずかに骨の奥がうずくような気味悪さを残しつつ、指の先までしっかりと血肉がかよっている。

 だがしかし、東雲は完全におじけづいていた。岸はもう目前であるというのに、一歩を踏み出すことができない。あのような人知を超えた怪異に、どうやって立ちむかえというのだ。

 されど、運命の歯車は彼に考える時間をあたえなかった。

 またしても頭上から影が落ちてくる。今度は人だ。いや、鬼だ。ボロ布に身を包んだ青鬼の少女が、受け身すらまともに取らず地面へしたたかに打ちつけられた。


「〰〰ッ!」


 少女は痛みに数瞬息をつめていたが、やがて懸命に上体を起こし、麻袋をつかんだ。そのひょうしに、中からなにかが零れ落ちる。――金貨だ。

 まさか、と東雲は頬を引き攣らせた。あの娘、よもや赤鬼から銭を盗んだのではあるまいか……。

 あまりにも無謀な推測は、最悪な形で証明された。

 少女を追うように再び人影が降ってきたのだ。地を揺るがす土埃つちぼこりをたてて、怒れる赤鬼が三人、門を塞ぐように居並んだ。

 東雲は白目をむいた。加速度的に状況が悪化していく。もはや月が怖いなどと、泣きごとを言っている場合ではなかった。ついに仕掛けを突破したのか、砦の中からも足音が聞こえてくる。道は前にしかないのだ。

 降りそそぐ月光を直接見ないよう目を伏せながら、東雲は鬼との距離をはかった。

 青鬼の少女は、打ちどころが悪かったのかいまだ立ち上がれないでいる。

 ――助ける義理はない。しかし彼女の落とした麻袋が、東雲を怪異から救ったのは事実だった。


(くそったれ!)


 意を決して東雲は飛び出した。腰にくくりつけた小さな袋を握りしめ、その中身を勢いよく前方へぶちまける。

 ぶわり、とあたり一帯が白くけぶった。

 驚いた赤鬼たちはハッと息を呑み、空中に漂うこまかな粒子を肺まで吸い込んだ。途端、刺すような刺激が目と咽喉のどを襲う。――粉の正体は、倉庫から失敬した盗品の香辛料であった。

 赤鬼たちが咳とくしゃみに喘いでいる間に、東雲は脱兎のごとく少女を担ぎ駆け出した。

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