008 負け犬の遠吠え

 忍法の中には〝そうじゅつ〟という大変便利な代物がある。相手のしぐさや言動から、対象の性格、および心の表裏を読み解く人心把握術である。

 しかしそんなものに頼るまでもなく、このネズミが稀に見るほど純朴な正直者だということは一目瞭然であった。同行者としてこれほど適している者もそうはおるまい。

 あらゆる打算を舌の裏側に隠して、東雲は口を開いた。


「つかぬ事を聞くが、ネズ公」


「はい?」


「逃げろとは言うが、そもそもここはどこなんだ?」


「どこ、と申されましても……。自分もくわしいことは把握しておらんのです。ただ、オグルが占拠している孤島というくらいしか……」


「孤島だと?」


 告げられた情報に内心で悪態をつく。海が近いとは察していたが、まさか島とは……。これは一筋縄ではいかないかもしれない。逃亡への手順を描き直しながら、もうひとつ引っかかる言葉があった。


「おぐる……、オグルとはなんだ?」


「オ、オグルをご存知ないので!?」


皆目かいもくわからん。――……ついでに白状するとな、ここへ来るまでに随分と無体をされたらしく、ところどころ記憶が飛んでいやがる。すまないが、いろいろと教えちゃあくれねえか?」


「な、なんと!」


 息をするように嘘を吐き、わざとらしく困った顔をつくってみせれば、ネズミはすんなりだまされた。あざむいた本人が言うのもなんだが、この獣素直にもほどがある。東雲はうっかりネズミの行く末が心配になったが、それはそれ、これはこれ。必要な情報を仕入れるため、背に腹はかえられないのだ。これも人の善意につけこむ〝哀車あいしゃの術〟という立派な忍法である。

 ネズミはしばし悩ましげにうなっていたが、すぐさま端的に言葉を返した。


「あまり時間がありませんので、手短にお話しますと。オグルとは赤鬼の呼び名でございます。そして、この砦を根城にしている赤鬼オグルどもは、ならず者の海賊なのです」


 東雲は片眉を跳ねあげた。


「海賊? 冥府の番人じゃあねえのか?」


「メーフ、とは?」


 きょとん、とネズミは首を傾げた。まるで冥府という言葉すら知らない様子である。

 薄ぼんやりとした憶測とともに、静かな動揺が胸中に広がる……。


「……いや、いい。続けてくれ」


 ネズミの話に耳を傾けながら、腰帯にくくりつけていた縄で赤鬼の手足を念入りに縛り、仕上げに猿ぐつわを噛ませる。麻縄の拘束など鬼の怪力の前では焼け石に水だろうが、打てる手はなるべく多く打っておきたい。


「コヤツらは、ここいら近海の船を襲っては金品を強奪し、本国で売りさばいているのです」


「……ってこたァ、そこの積み荷もどこぞの略奪品か」


「いかにも」


 商船でも襲った後なのだろう。

 部屋にうず高く積まれた木箱には、見たこともない香辛料や干物、鉄鉱石に似た石くずなどがぎっしりと詰めこまれている。

 また、数十ある樽の中身はすべて油であった。鼻を寄せれば、砦のいたるところで見かけた篝火と同じ青臭い香りがする。この部屋の壁にも小さな油皿が備えつけてあるが、少量でも明々と燃え盛る炎は、日ノ本で流通している油とは比較にならないほどの光量を発している。京の都で売ればさぞ高値がつくことだろう、といやしい想像が浮かんだ。


「とすると、奥に押しこまれている青鬼も売りモンか?」


「ええ、……やりきれない話でございます。鬼の国では、青鬼たちは生まれながらにして奴隷の身分ですので……。ここの牢に捕まっている者たちはみな脱走者なのです。賊どもが彼らを捕らえ本国へ連れ帰れば、相応の謝礼の金が渡される、というわけでございます」


「……なるほどな」


 国に黙認された海賊衆というわけか。瀬戸内の海をなわばりとしている荒くれ者どもがまさしくそうであった。

 それにしても、青鬼が赤鬼の奴隷とは。地獄社会もいろいろと複雑らしい。

 しかし別段驚きはしなかった。おおかたそのような具合だろうと当たりをつけていた範疇はんちゅうである。


「ならば俺は、人間はどうなる?」


 同族に近い青鬼ですら、あのような畜生同然の扱いなのだ。まさか手厚くもてなされるはずもないが、己にとって悪い情報こそつまびらかにしなければならない。


「人間は、その……、大層珍しゅうございますから……」


「珍しい? 人間がか?」


「少なくとも自分は、生まれてこの方あなた様以外の人間に出逢ったことがございません」


「……なに?」


 耳を疑った。冥府の底に人間がいないとは一体どういうことか。

 諸行無常の乱世、悪行も煩悩もそこかしこにあふれている。

 東雲が知る限りの顔を列挙しても、地獄は咎人とがびとの亡者でごった返しているはずなのだ。

 やはり、現世で語り伝えられている地獄の様相とはだいぶ齟齬そごがある。


「するってェとなにか。とっ捕まれば鬼の国で見世物にでもされるのか?」


「おそらくは……。軽く見積もっても、まともな扱いは望めないでしょう」


 ネズミはあたかも自分のことのように、苦虫を噛み潰した面持ちで口ごもった。


「とにかく、そういうわけでございますので。逃げるならばお早く! もうしばらくすると、交代のため他の赤鬼どもが起き出してしまいます」


「交代だと?」


「はい、二階で待機している者が五人。現在一階で警備にあたっている者と頭目をふくめれば、総勢十三人がこの砦には控えておるのです」


「十三……」


 多すぎる。ひとり昏倒させるだけでも肝を冷やしたというのに、そんな数とてもではないが相手にしていられない。

 残念なことに、ネズミの言葉に嘘はないだろう。

 探索中、脱出経路としては望み薄であったため足を向けていなかったが、確かに上階へと続く階段があった。そこから増員が降りてくるとなれば、いよいよもって不味い事態となる。

 もはや腹は決まった。得策ではないが、イチかバチか、強行ででも玄関口を突破するほかない。


「島の西岸に船があります。この辺りは潮の流れが速いので、船に乗り込みさえすればすぐにここを離れることができましょう。ご武運を祈っておりますぞ!」


「……ん? 待て、お前さんは逃げんのか?」


「自分は、青鬼らを解放せねばなりませんので」


「…………は?」


 驚愕で思考が一瞬止まった。思わず言葉の意味を反芻はんすうしてしまう。


「青鬼どもを? お前さんが?」


「左様で」


「なにを馬鹿な……。悪いことは言わん、考え直せッ」


「ご心配なく、あなた様にご迷惑はかけません」


「いやいや、そういう問題じゃなくてだな!」


 東雲は頭痛をたえるようなしかめっ面で、噛んでふくめるように説得を重ねた。貴重な道先案内人である獣に、ここで離脱されるのは困るのだ。


「無謀じゃ。死にに行くようなもんだろうが!」


「無謀は覚悟の上でございます」


「勝算はあるのか?」


「……ございませんが」


 だろうな、と声には出さずひとりごちた。

 まさかとは思うが、先ほど赤鬼に捕まっていたのも、青鬼を救おうとして下手を打ったのではあるまいか……。実直すぎるこの獣なら十分にありえる、と頬の端が引き攣った。


「何故そうまでして救おうとする? あの者たちとお前さんに、なんの繋がりがあるってんだ」


「……おっしゃるとおり、縁も所縁もありません。ですからこれは、己の満足のためでございます。トトがそうしたいと思うから行くのです」


「……は、」


 ざらついた腹の底から、皮肉るような嘲笑がこぼれた。

 無償の善意というやつか。いかにも純真なネズミが言い出しそうな甘っちょろい台詞である。

 しかしそれは、身のほどもわきまえぬ美事きれいごとでしかない。


「つい今しがた労して拾った命にしちゃあ、ずいぶんと軽々しく捨てるじゃねェか。おまけに無意味ときた」


「……救って頂いたことには心より感謝しております。しかしこの命の使い道が無意味とは、聞き捨てなりませぬ」


「ハッ、無謀と知りつつむざむざ散りに行くんだろうが。策もなければ得るものもない。運良くことが転んだところで、青鬼どもに礼をされるとも限らん……。ないない尽くしだ。そうだろう?」


 ネズミは首をふった。


「なにかを得るために、行くのではありません。――自分を失わぬために行くのです」


「……なに?」


「トトは気にいらんのです。己よりも弱き者を踏みつけ、悦にいるような下卑た輩が……。どうにかして目にものみせてやらねば、腹の虫が治まりません」


「…………」


「憎っくき相手に散々いいように弄ばれ、このままなにもせず尻尾を巻いて逃げ出したとあれば、悔いが残ります。それは死よりも耐え難いッ」


「!」


 ――絶句である。

 頭を金棒で殴られた心地がした。獣が吐き出した思いの丈は、すべて身に覚えのある主張であった。

 東雲の人生とは、記憶する限り寝ても覚めても屈辱の道であった。

 血と泥と嘲笑でずぶぬれになりながら、ひたすら己の命を握りしめるのに手一杯で、自分を虐げる者に対しては、ただの一度たりともむくいる余裕などなかった。結果、ボロきれのごとくあっさりと捨てられ、最期は身を焦がすほどの虚無と後悔を抱えながら死ぬはめになったのだ。

 幸か不幸か、こうして奈落の底に堕ち、今度こそ同じてつは踏むまいと息巻いた。

 ――そのはずだ、そのはずである。

 しかし実際はどうだ。はじめこそ解放感からくる興奮で、足取りも鳥の羽を得たようであったが、その時ですらすでに、東雲の行動原理は逃げの一手であった。

 なんという体たらく。骨の髄まで負け犬としてのしつけが染みついているといっても過言ではない。

 さらに、最悪を上乗せすることがある。

 東雲は赤鬼を、伊賀の上忍と同列に並べるくらいには嫌っていた。憎たらしい、虫唾が走ると嫌悪したのだ。それだというのに、自分は沸きおこる感情に蓋をして、あくまで逃げに徹しようとした。このネズミのように、格上の鬼へ立ち向かう選択肢など、塵ほども転がってはいなかったのだ。

 それは東雲にとってあまりに自然な行為で、――愕然とする現実だった。


(っ、馬鹿は死んでも治らねェってか、冗談じゃねえ……ッ!)


 後になって悔いるから〝後悔〟とは、よく言ったものだ。

 今ならば痛いほどわかる。世界がいくら変わろうとも、己が変わらなければ結局は同じなのだ。人生の道を決めていたのは、他でもない己自身であった。


 東雲は、心にけりをつけたように一笑した。


「ネズ公、その馬鹿げた一揆……、俺も一枚噛ませちゃくれねえか」


「な、なんですと!?」


 ――行動原理? そんなもの、面白いというだけで十分だ。


「地獄の鬼に、一泡吹かせてやるのも悪くねえ」

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