007 忍者 vs 赤鬼

 人生は選択の連続である。

 ひとたび道をあやまれば、人の命などというものは、さながら海原にもまれた木の葉のごとく、たちどころに泡沫うたかたの狭間へと失われゆく。――東雲の骨身に刻まれた教訓である。

 そうであるにも関わらず、気がついた時には飛び出していた。

 この突然の乱入にもっとも驚いたのは、他でもない東雲自身であった。


(――なっ、にやってやがるッ!?)


 全身総毛だつような戦慄が走った。すぐさま身をひるがえし逃げをうちかける。しかし東雲の意に反して、彼の足はさらに一歩前へと踏みだした。敵前へ出たからには後退あともどりは許されないと、頭で考えるよりも早く、本能が結論づけたからであった。


「〰〰っ!」


 こうなってしまっては、もはや破れかぶれである。東雲はいまいましげに舌打ちすると、上体を低く倒し、赤鬼の死角を全力で駆け抜けた。一気いっき呵成かせいに膝裏を蹴りつけ、こちらへ背をむけて仁王立つ鬼の体勢をわずかに崩す。直後、驚異的な腕力によって振りおろされた金棒が、ネズミの真横にある石床を蜘蛛の巣状に砕いた。

 見かけに違わぬ恐るべき蛮力である。こんなもの一発でもくらってしまえば、人の身体などあえなくひき肉と骨粉に早変わりだ。ぞっと血の気が引き、一瞬にして脳裏に〝死〟の文字が焼きついた。

 ゆえに、東雲はくすぶる動揺と混乱の種をすべてわきへと投げ捨てた。

 死地において、恐怖や迷いは命とりとなる。

 間を置かず、流れるような脚さばきで赤鬼の正面へ踊り出る。金棒を振りおろしたまま前かがみになっている鬼の喉もとへ、躊躇なく拳を放った。

 喉を潰し、声を奪い、救援を断つのは忍の常套じょうとう手筋てすじである。

 続けざまに掌底しょうていあごを打ち抜く。脳を揺らし、意識を飛ばそうとしたのだ。

 ――しかし、その目論見は外れた。


(浅いッ)


 東雲の渾身こんしんの一撃は、鬼の頑強な骨格をほんの少しぐらつかせるだけにとどまった。言うまでもなく手加減など一切していない。それだけ強固な脊柱せきちゅうが鬼の体幹を貫いていたのである。

 至近距離で、ぎょろりとつりあがった金の瞳と視線が交差した。

 悠長に次の手を模索している暇などない。まばたきよりも早く、戦乱の泥沼でもまれた経験則が、この場の最適解を導いた。

 東雲は突き動かされるままに鬼の手首をねじりあげ、金棒をもぎ奪り、腰を落とすと、力まかせに振りあげた。


「ッ、シッ!」


 凶悪な鈍器が頭蓋ずがいを直撃する重い音が響いた。側頭部に叩き込まれた衝撃が、今度こそ鬼の脳をはずませたのだ。

 さしもの赤鬼もこれにはたまらず、節くれだった太い脚がちどり足を踏み、背面からどうっと大の字になってくずれ落ちた。後頭部を石床でしたたかに打ちつけたが、いくら待てども痛みに起きあがってくるそぶりはない。

 数秒の沈黙をかぞえ、床に沈んだ巨体が完全に動かなくなったことを見とどけるや、東雲はつめていた息をどっと吐き出し、ざんしんを解いた。


「だァーっ、クソ重ェ、信じられん!」


 金棒を放り捨て、酷使した肩をごきりと鳴らす。

 鬼の代名詞とされる鈍器だけあって、一振りしただけでも全身の筋肉が悲鳴をあげている。あわよくば脱出のための武器として拝借できないものかとたくらんでいたが、コソ泥根性など裸足で逃げ出すほどの重量である。残念ながら、人間があつかうには不相応な代物のようだ。

 ――そんなことはどうでもいいのだ。


「〰〰っ!」


 東雲はみるみるうちに顔色を青くして、ぐしゃぐしゃっと頭をかきまぜた。

 なにを血迷ったのか。打算も勝算もなく、衝動的に鬼へ手を出してしまった……。

 我ながらトチ狂ったとしか思えない愚行である。もしかしたら、死んだひょうしに脳味噌を少しばかり現世うつしよへ落っことしてきたのやもしれない。

 自分で自分の行動が理解できず取り乱しながらも、忍らしい臆病な警戒心が、この騒ぎで外の赤鬼が集まって来やしないかと耳をそばだてる。

 現状はまさしく難局である。ただでさえ八方ふさがりな立場であったというのに、これでは赤鬼が目をさます前に脱出しなければならなくなったではないか……。


「あ、あなたは!?」


「……む?」


 ふいに例の獣がすっとんきょうな声をあげた。


「そ、そのお姿……もしや、もしやあなたは、人間という種族では……!」


 鎖に繋がれ、床に這いつくばったままのネズミが、まじまじとこちらを凝視している。

 あたかも珍獣でも見るかのような、奇異の視線である。――そんな顔をしたいのはこちらの方だ。とどのつまり、このしゃべるネズミはなんなのだ。

 すっかり困惑のるつぼにはまりこんだ東雲を置き去りにして、ネズミは興奮ぎみにまくしたてた。


「今すぐお逃げください! ここは危のうございます!」


「……あ? あぁ……いや、そうなんだが、そうなんだがな……」


 言われずとも、ここが危険極まりないことは百も承知である。東雲とて、逃げられるものならばとっくのとうに逃げている。それができないから困っているのではないか。

 東雲は返答に窮した。

 そもやそも、今この瞬間も赤鬼と仲良く鎖で絡まったままのネズミこそ、一刻も早くそこから抜け出すべきなのではなかろうか。


「あー、そういうお前さんはどうすんだ?」


「ご心配にはおよびませぬ! コヤツの懐に鍵がありますので!」


 そう言うやいなや、ネズミは器用に体を反転させ、鬼の衣服から金属製の鍵を取り出してみせた。

 この獣、それなりに頭がまわるらしい。赤鬼を昏倒させた立ちまわりといい、とぼけた見た目に反してなかなかあなどれぬ相手だ。東雲は少しばかり警戒を強めた。

 しかしそう思ったのもつかの間――。


「ふん、ふんぬ、ふんっ!」


 獣はひょこひょことそり返りながら、にわかに謎の踊りをはじめた。どうやら鍵の先端を鍵穴へ合わせたいらしい。しかしながら、ネズミの胴にはめられた鉄輪の鍵穴は背中側にあり、短い手足ではどうあがいても差しこむことができないのだ。


「ふんっ、ふぬん! ふんんんッ!!」


「…………」


 間の抜けた一連の光景に、混乱でゆだっていた東雲の頭が、スッと冷静さを取り戻す。

 他人の痴態ちたいを目のあたりにすることで意図せず気持ちが冷める、あの法則である。

 あわれなほど必死な様子でめちゃくちゃに鍵を振りまわす小動物相手に、身構えるのも馬鹿らしくなり、東雲はひそかに脱力した。このまま眺めていてもらちがあかないと、鍵を取りあげかわりに枷を外してやる。

 カチャリという軽い音が、やや滑稽こっけいな響きで静かな部屋に転がった。


「……大事ないか?」


「っ、か、重ね重ね申し訳ございません!」


 驚いたようにピンと耳を立てたネズミは、助太刀されたと分かった途端、恥じいるように二、三度顔をぬぐい、取りつくろうための咳をした。


「申し遅れました。我が名はトト・ガルテリオ・グライス・アロ・アーナック・ミクトラン! 失礼ですが、名前をお尋ねしてよろしいでしょうか?」


「えらく長ェな……、俺ァ東雲だ」


「あなた様は命の恩人でございます! しにょにょめ殿!!」


「…………」


 ――……噛んだ。

 にわかに気まずい静寂が両者の間を吹き抜ける。


「し、しのにょ……しのろっ!?」


「…………」


「しにょにゅめ……、シ、しのぬ……っ、ふぐぅッ!! も、申し訳ございませぬぅうう! 恩人の名前を噛むなど……! このトト、一生の不覚ッ!!」


「い、いや、構わんよ。別に……」


「おぉ、なんと寛大なお言葉! このような僻地へきちであなた様のような御仁と出逢えようとは、身にあまる僥倖ぎょうこうでございます! ううぅ……っ」


「いやさいやさ」


 ハハハ、と東雲の口から乾いた笑いが生まれた。

 ――愚直まっすぐだ。愚直すぎて背筋がかゆくなりそうだ。純粋な謝意でいろどられた瞳のまぶしさに、むずむずとした居心地の悪さを覚える。

 しかし一方で、東雲は値踏みするように思案をめぐらせていた。

 僥倖というならば、こちらにとってもそれは同じに違いなかった。


(こいつァ、なかなか良い拾いモノをしたかもしれんぞ……)


 先ほどの騒動をかんがみても、このネズミが赤鬼と敵対していることは明らかである。

 探し求めていた情報源として、ともに逃げ出す相方となってくれはしないかと、ほのかな期待がふくらんだ。



――――――――――

◆残心=武術用語。戦闘が終わった後でも相手の反撃を警戒して緊張状態を持続させる心構え。生死を懸けた戦いにおいて、勝利を喜ぶ瞬間がもっとも大きな隙となる。それゆえ忍者は「成功した瞬間に、その成功は忘れること」と教えられた。

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