006 窮鼠、鬼を噛む
(なんだ、これは……)
無慈悲な鉄柵の牢獄に、数十人もの青鬼が捕らえられている。首にはさびついた太い
牢の外側では、三人の赤鬼が金棒を片手にうろついていた。
仲間割れか――と思ったが、どうにも様子がおかしい。
そもそも、赤鬼も青鬼もどちらも鬼であることには違いないが、その容貌は似ても似つかない。生物の種からしてまるっきり別物といっても過言ではないほどに、両者の姿は異なっていた。
筋骨隆々な赤鬼に対し、青鬼の四肢は
もともと細い体躯なのだろうが、ひどくやつれた風貌もあいまって、今にもぽきりと折れてしまいそうな印象を受ける。
彼らはあきらかに弱者であった。
事情などなにも知らなくとも、彼らが
東雲は、腹の奥底がすーっと冷めていくのを感じた。
(なんだこれは……)
服装も露骨である。ズタ袋のような薄い衣しかまとっていない青鬼と、上等な皮や金具を幾重にも身につけた赤鬼。
青鬼たちは一様に下をむき、身動きすることすら恐れるように、震えながら肩をよせあっている。中には泣いている幼い子供もいたが、奇妙なことに声をあげることなく、わずかな
東雲は
――不快であった。浮かれていた心に冷や水をかけられたような気分だ。
忍として生きてきた東雲は、お世辞にも慈悲深い男とはいえない。虐げられる者を見て、我が事のように悲しむなどという純真さは、とうの昔にささくれてしまっている。
ゆえに、この感情の揺れは、青鬼を哀れに思ったからではない。
ただ、無性に気に食わなかったのだ……。先ほど見た光景は、
人が人を虐げるのが当たり前だった
(――いけ好かねェ……)
自分を縛り、あまつさえ死においやった理不尽が、ここでもまかり通っている。あの光景を目の当たりにした瞬間、地獄の恐ろしい化け物という認識だった赤鬼が、憎き伊賀の上忍と重なって見えたのだ。それが感傷からくる錯覚だとわかっていても、湧きあがるイラだちを正すことすら億劫に思われた。
すっかり興をそがれた面持ちで、暗い廊下を引き返す。
(しょせん、
死後の世界で目覚め、歓喜に震えた気分は見るも無残にしぼんでいた。
こんなところ、とっとと出て行ってしまおう。先ほどとは似て非なる心持ちで、東雲は足を速めた。
+ + +
廊下には他に二つほど扉があったが、どちらも中は空であった。
仕方なくもう一本の通路へ移動した時、奥の小部屋から物騒な物音が響いた。扉ごしに、なにやら興奮した男のだみ声が漏れ聞こえる。
「おらッ! そこだっ、潰せ潰せ!」
息を殺しながら中を覗けば、大量の木箱や樽が積まれた小汚い部屋の中央に、二人の赤鬼がいた。そのうち一人は木箱に腰かけながら耳ざわりな
なにをしているのかと思えば、彼らの足もとには、縦横無尽に駆けまわる小さな影があった。
――ネズミだ。
日ノ本のネズミよりもずいぶんと大きい、
醜悪な笑みを浮かべる鬼の表情から察するに、どうやらこの小さな獣をいたぶりながら叩き潰す〝遊び〟をしているらしい。
ネズミの胴には頑丈な鉄輪がはめられ、長く伸びた鎖の先にはネズミと同じくらいの大きさの鉄球がついている。なんとも悪趣味な絵面だ。
東雲はそれらの様子を白けた視線で眺めた。
人間の腕力では持ちあげるのもやっとであろう大振りな金棒を、片手で軽々とあつかう鬼の剛腕には戦慄を覚えるが……。どうにもやっていることが下劣で幼稚なため、素直に恐怖する気分になれない。
(それにひきかえ……)
ネズミの身のこなしはなかなかのものである。圧倒的に不利な条件下にも関わらず、襲いくる凶器をすべて紙一重でかわすさまは、獣ながら
次第に獣の不規則な動きに翻弄されて、赤鬼の方が肩で息をしはじめた。観戦している片割れのあざけるような野次もあいまって、相当イラだっているのが見てとれる。
ネズミの走りを追うようにジャラジャラと蛇行する長い鎖部分をつかまえれば手っ取り早いものを、そうする素振りがないということは、やはり娯楽の側面が強いのだろう。
おおかた仕掛けたのは鬼の方であろうに、思うようにいかぬと腹をたてようとは、ずうたいに似合わずみみっちい懐の浅さである。
ついには、文字通り足もとにもおよばない
「ちょこまかしやがって! 調子こいてんじゃねーぞ、クソ汚ぇドブネズミが!!」
「ドブネズミではない!!」
(――……あ?)
しゃべった……。東雲はぎょっとネズミを凝視した。聞き間違いだろうか?
驚きのあまり硬直する東雲の目の前で、ネズミは鬼相手に臆することなく胸を張り、高らかに名乗りをあげた。
「我こそは、誇り高きチミー族の戦士トト! 弱きを虐げ、暴利をむさぼるしか能のないデクの坊どもに、決して屈しはせぬ!!」
凛としたその声は、磨きあげられた一本鎗を想わせる鋭さをもって、よどんだ空気を切り裂いた。屈辱的な窮地にありながら威風堂々たるその姿は、
目を奪われるとはまさにこのこと。東雲だけではない――鬼ですら、この小さき者の雄々しい覇気に呑まれた。
その一瞬の隙を獣は見逃さなかった。
雷光のように駆け抜け、荷の山に躍りあがると、積み上げられた樽のひとつに長い鎖を引っかけた。ごろりと樽が倒れ、したたかに床へとぶつかる。木蓋がはねとび、中から琥珀色の液体が飛散した。――油だ。ぶちまかれた薄い波が、瞬く間に床全体へと広がった。
「っ、積み荷を!? よくも!」
慌てて伸ばされた手をひらりとかいくぐり、そのまま下へ飛び降りると、鬼の足首へ長い鎖を絡ませる。体勢を崩した鬼は、油で滑る床へもんどりうって倒れた。
流れるような見事な策である。
たたみかけるように、ネズミは倒れた鬼の太い首へ鎖を巻きつけるや、そのでっぷりとした赤黒い脇腹に思いっきり噛みついた。皮膚を食い破る痛みに飛びあがった鬼の動きにつられ、鎖の先端につけられた鉄球が、重力という助けを得てその首を絞めあげる。
(――……入ったッ)
狙ったのか、はたまた偶然か。
鎖が食い込んだ位置は、ちょうど太い血管が通る人体の急所であった。あそこを圧迫されると、脳への血流が遮断され、人間ならばものの数秒で落ちる。どうやらその点は鬼も変わらないらしかった。
みるみるうちに瞳の焦点があわなくなり、混乱極まった赤鬼は、的外れにも食らいついたネズミをひっぺがそうと奮闘した。しかし暴れれば暴れるほど、鉄球がギリギリと首を絞めつけ――ついには泡を吹いて失神した。
鬼の巨躯が倒れゆく刹那の光景が、東雲の眼に、やけにゆっくりと焼きついた。
(やりやがった……!)
なんという番狂わせ。たかがネズミが――自身の何倍も大きな鬼を、ものの見事に倒してしまった。
知らずしらずのうちに、東雲は一連の攻防にくぎづけになっていた。背筋が震え、肌があわだつ。――恐怖からではない。武者震いである。いつの間にか握りしめていた拳が、東雲の湧きたつような興奮を物語っていた。
「て、てめェッ!」
めまぐるしい展開にただぽかんと立ち尽くしていたもうひとりの鬼も、ようやっと現状に頭が追いついたのか、赤ら顔をさらに赤く
しかしその金の瞳には、わずかな怯えの色がにじんでいた。
――無理もない。一体誰が、このような逆転劇を予想できただろう。
しかし勇気ある者の
憤激した赤鬼は、床に転がっていた金棒を拾いあげると、容赦なく鎖を踏みつけた。いまだ鬼の首に巻きついたままのそれが、ネズミの体の自由を奪う。
――すでに勝負は決していた。
事実として、圧倒的な体格差を前に、小さい者が大きな者に勝つすべは虚を
しかしそれでも、ネズミは真正面から
その
鬼が金棒を高々と振りあげ、小さな躰に叩きつけるその直前まで――意志ある瞳の輝きが消えることはなかった。
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