#6 幽霊の正体見たり、見なかったり

 星花でまことしやかに囁かれる怪談のひとつ、『トイレの花子さん』。

 「人間の髪の毛を嗅ぎ分ける」という悪霊もチビって裸足で逃げ出す特技を有する二階堂榛那は、その怪談を「単なる噂」とクールにビューティーに否定した。とあれば、黙っていられないのは我らがクールビューティー纐纈幸来である。

 これまでの人生で突きつめてきたクールビューティーの座を、みすみす二階堂のような魑魅魍魎に奪われる訳にはいかない。これは幸来のクールビューティーとしてのプライドの問題だった。


 ――トイレの花子さんなんて子どもじみた怪談を信じるなんてバカバカしい。


 クールにビューティーにそう宣言して、幸来は噂に名高い蛇口を捻った。


 水は出なかった。


「ひっ……いひ、ひっ……いひひいっ……!」


 笑い声だか悲鳴だか分からない、幸来のくぐもった声が響いた。幸来は既に顔面蒼白だ。クールともビューティーともほど遠い。


「にっ、ににに二階堂先輩これはイッタイドウイウコトデスノ」

「捻りが足りないのかもしれません。もう少し回してみてはいかがですか?」

「も、もう少し……!?」


 幸来は恐る恐る水栓を回す。件のオバケなんていない歌のメロディに「水はめっちゃ出るさ、出ないなんてウソさ」と訳の分からない歌詞を乗せて、ゆっくりと栓を回す。

 だが、水は出ない。一向に出ない。結局めいっぱい栓を回しても、水は一滴たりとも落ちてこない。


「にっ、にににににに二階堂先輩!?」

「纐纈さん。排水溝を覗き込んでみてはいただけませんか?」

「はっ……排水溝……!?」


 言われて幸来は気づいた。今の状況は先ほどの怪談とまったく同じ展開だ。となれば、排水溝の中に詰まっているのは人間の目玉――


「イヤです! 絶対にNOですわ!? 二階堂先輩が確認してくださいまし!」

「構いませんよ」


 ケロッとした顔で即答すると、二階堂は排水溝を覗き込んだ。そして「あー」と意味深に呟くと、幸来に向かって微笑む。


「噂は真実だった、ということかもしれませんね♪」

「ちょっ!? えっ!? 目玉あったんですの!? いや助けてくださ――!!!」


 叫びかけたところで気がついた。トイレの花子さんは、助けを呼ぶ声に反応してやってくる。こつ、こつとローファーを、途中でびちゃ、びちゃと足音を響かせながら。

 対処法はひとつ、蛇口を元に戻して静かにその場を立ち去ることだけ。


「ひうっ……うっ……!」


 幸来はゆっくり、水栓を逆方向に回す。髪の毛なんて出ませんように、何も起こりませんようにと念じ、ついでにうろ覚えの般若心経を心の中で唱えながら。

 だが、見逃してはくれなかった。


 ごぽり、ごぽり。


「い、いや……!」


 ごぽり、ごぽり。

 ごぽごぽごぽごぽ。ごぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。

 ごぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。


「ひ……ひぃ……こんなところで死にたくな――」

「死にませんよ」

「へ?」


 水栓を握る幸来の手に二階堂が手を重ねる。そして顔面偏差値3のおぞましく歪んだ笑顔だかなんだか分からない表情を見せて、二階堂が耳元で囁いた。


「纐纈さんは私が守りますから」


 二階堂は、幸来が締めようとした水栓を思いきり回し、再び全開にしてみせた。トイレ内部の配管全てが不気味な音を立て、詰まりに詰まった何かを吐き出そうと圧力を極限まで高めていく。配管の詰まりと水の圧力が拮抗したその時、二階堂は叫んだ。


「さあ、出てきなさい!」


 ごばしゃあッ!!!


 蛇口から、黒い塊が勢いよく流れ出た。詰まりに詰まった黒い髪の毛、そして汚れた濁流だ。長年にわたるサビが溶け込んだ赤黒い水が洗い場のシンクを真っ黒に染め上げていく。


「ひいっ!? ごめんなさいごめんなさい許してくださいまし花子さん私は点検を頼まれただけで無実のクールビューティーですからどうか殺さないでイヤ死にたくない――」


 幸来の頭は真っ白になった。反射的に目を瞑り、耳をそばだてる。もし、こつ、こつと廊下を鳴らすローファーの音が聞こえたらどうしよう。耳元で囁かれたらどうしよう。このまま悪霊に呪い殺されて十数年の生涯を終えてしまったら――


 ――と思った幸来は予想は外れた。

 聞こえてきたのは花子さんの足音でも耳元でのウィスパーボイスでもなく。


「はああああああああああ~~~~~~~ッ!!!!!」


 二階堂だ。二階堂がなんとも言えない艶めかしい声を上げている。それも心底嬉しそうに。恐る恐る目を上げた幸来が見たのは、それはそれで恐るべき光景だった。


「そうです、これが欲しかったんです……! これこそが噂に名高い、トイレの花子さんの……!」

「は……?」


 二階堂は蛇口から飛び出した髪の毛を何の躊躇もなく摘まみ上げ、まるで鑑識官が手掛かりを調査でもするように蛍光灯の光に当てている。

 不気味。ただただ不気味な光景だった。

 『妖怪髪の毛女』こと二階堂榛那が、出所不明の髪の毛を手に入れてハアハア言っている。この瞬間、幸来の中で勝敗が決した。

 花子さんバケモノ二階堂榛那バケモノをぶつけた結果、二階堂の方が何倍もヤバい、と。


「二階堂……先輩……?」

「ご覧ください、纐纈さん! 分かりますかこの黒髪が! ずっと水道管の中に詰まっていたので劣化していますが、これこそが噂の真相なんですよ!」

「どういうことですの……!?」


 ふと蛇口を見ると、サビ混じりだった濁流は澄んだ水になっていた。摘まみ上げた髪の毛を水洗いしてシンクの上に並べながら、二階堂は静かに語った。


「今から十数年前にとあるホラー映画が公開されまして、その影響で全国的に流行してしまったイタズラがあるんです。水道管に髪の毛を詰めるというものですね」

「イタズラ!?」


 シンクの上の髪の毛は三つの山になっていた。どうやら髪の毛を一本ずつ観察しながら分類しているらしい。

 顔面偏差値3のキチガイスマイルはとうの昔に元に戻っている。やってることがやってることだが、真剣そのものな凛とした横顔は息を呑む程に美しい。


「ちょっと待ってくださいまし、二階堂先輩。ではこの髪の毛は……?」

「映画を見て感化されたイタズラ好きな当時の生徒……つまり星花OGのものでしょうね。劣化しているため分析は難しいですが、犯人はおそらく三人組。とりわけ主犯格には相当分かりやすい特徴が見られます。何だと思いますか、纐纈さん?」

「聞かれたって分かりませんわよ! 二階堂先輩じゃあるまいし!」

「ではヒントです。主犯格の髪の毛は、塩素によるキューティクル剥離と退色を起こしています。日常的に塩素被曝していなければこうはなりません」

「塩素……?」


 塩素。高い殺菌作用を持つ成分であり、食品添加物や漂白剤として日常広く使用されている。濃度調節が容易で人体への影響も少ないとあって、主にサルモネラ菌やレジオネラ菌の繁殖を抑えるために添加されることが多い。

 そう。例えば、銭湯の湯船や、プールに張られた水などに。


「……分かりましたわ、主犯格は日常的にプールで泳いでいる者。水泳部員か水球部員ですわね?」

「では、ここの点検を頼んだ先生はどなたでしたか?」

「それは水垂先生で……あ」


 幸来の脳内で、すべての点が一本の線で繋がった。

 幸来は、二階堂の秘密を教えてもらう交換条件として、水垂先生から共用校舎トイレの点検を任された。水垂先生は「すいすい先生」というあだ名の通り、塩素の香りを纏う水泳部の顧問。先生が指示したトイレには、蛇口に詰まった髪の毛が流れ出るという『花子さん』の噂が立っていた。二階堂の鑑定によれば『花子さん』の髪の毛は十数年前の星花OG達によるもので、主犯格の髪の毛は塩素焼けを起こしている――つまり水泳部員だった者。


「そうですか……。花子さんの正体は、水垂先生だったんですのね……」

「ええ、先生が星花OGであれば。OGでなかったとしても、花子さんについて何らかの事情を知っているのは確実です。纐纈さんはきっと先生にからかわれたのでしょう」

「むきーッ!!!」


 真実を知った安堵より、怒りの方が勝っていた。幸来はあれだけおっかなびっくり回していた水栓をひと息で締めて、回れ右して出口を目指す。


「どちらへ行かれますの、幸来さん」

「先生に文句を言いに行きます! こんな嘘っぱちな学校の怪談で生徒を怖がらせるなんて教育者失格ですもの!」

「……お待ちになって、纐纈さん。まだ終わってはいません」


 二階堂は真剣な表情で、人差し指を唇に近づけた。「静かに」と言いたいのだろう。指示通り黙った幸来は、仕方なく耳を澄ませる。

 その時だった。


 ごぽり、ごぽり。ごぽり、ごぽり。


「じゃ……蛇口の点検は終わりましたわよ!? まだ何かあるんですの!?」


 ごぽ、ごぽ、ごぽごぽごぽ。ごぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。


「今度こそ花子さんかもしれませんね……! つまり……本物の花子さんの髪の毛を手に入れることができるということに他なりません……はあ……はあ……ッ!!!」


 二階堂が表情を歪める。顔面偏差値3の妖怪モードだ。

 正真正銘、バケモノとバケモノの対決がとうとう実現しようとしている。

 幸来の足は動かなかった。花子さんが怖いのではない。二階堂だ。悪霊すら喰らいかねない二階堂がただただ怖い。

 幸来は思った。


 ――花子さん、逃げてーッ!


「二階堂流師範、二階堂榛那は一歩たりとも逃げません! 溜まりに溜まった髪の毛を一本残らず吐き出しなさい! 悪霊退散ッ!!!」

「二階堂流って何!? 陰陽師!? 陰陽師か何かなんですのーッ!?」


 ごばしゃああああああああッ!!!!!


 トイレに雨が降った。血の雨でもなければ、髪の毛の雨でもない。

 トイレの天井に設置された防火用スプリンクラーだ。幸来達の水道点検がきっかけに、錆びついていた天井配管が一気に流れ出したのだ。当然、止める手立てはない。錆びついた赤黒い雨が降り、長年留まり続けた臭い水が降った後で、混じり気ない透明な水が幸来と二階堂の二人に降り注いだのだった。


「うえぇ……。臭いしびしょ濡れだし最悪よ……!」


 スプリンクラーの水をモロに被って、幸来と二階堂は濡れ鼠状態だった。幸来が朝、家を出る前に長いことブローしてキメた前髪もポニーテールの後ろ髪も、ぐしょ濡れになって身体にまとわりついている。


「まあ、よかったではありませんか。やはり花子さんは単なる噂に過ぎないと分かったのですから」

「そうは言いましても二階堂先輩――」


 振り向いた幸来は、言葉を失った。

 見てしまったのだ、バケモノの姿を。


 全身ずぶ濡れで、

 びちゃ、びちゃと音を立てて歩き、

 真っ黒な髪の毛で全身を覆われた、

 トイレの花子さん二階堂榛那を。


「ほひぇ」


 幸来は気を失った。


「纐纈さん? しっかりしてください纐纈さん! だ、大丈夫ですか……?」


 ――その後の幸来の行方を知る者は居ない。


 *


 一方。図書室。


「ねえ、恵玲奈。あの一年生の……纐纈さんにウソを教えたよね?」

「なんのことかな、叶美さん?」


 吹き馴れない口笛を吹いて、新聞部の西恵玲奈は露骨に水藤叶美から視線を逸らした。あからさまにウソをついている。西の反応を一瞥して、水藤はやれやれとばかりに肩を竦ませた。


「二階堂さんのこと。良くも悪くも水泳一筋の水垂先生が、寮選択の事情を知っているはずないよね。少し考えれば分かることだよ?」

「あー、バレてた?」

「もう……。今からでも纐纈さんに謝ってきたら? ちょっとからかってみただけ、ごめんなさいって」

「いいや、纐纈さんにはやってもらいたいことがあるの。新聞部兼報道部としてね」

「なにそれ……」


 問いかけた水藤に、西は懐から取り出したメモを渡した。『星花七不思議』、そして第一の噂『トイレの花子さん』。その他、いくつか箇条書きで学園でまことしやかに囁かれる噂の数々が踊っている。


「卒業前に解いておきたい謎がいくつかあるのだよ、ワトソンくん。報道に携わる立場じゃ深入りできないことでも、外部の人間なら捜査できるからさ」

「纐纈さんを利用する気?」

「もちろん纐纈さんとの約束は守るよ? 二階堂さんのことは私が責任もって調べ上げる。だから」

「わたしにも手伝えって言ってるんだね、恵玲奈は……」


 西は決まり悪そうに頭を掻いた。その通り、ということだろう。また、思惑を共有したという点においては、水藤も共犯者ということになる。


「叶美には、要所要所で纐纈さんに助言を与えるポジションで居てほしいの。星花女子の七不思議オタクとしてね」

「あのねえ……。このメモ、そっくりそのまま纐纈さんに渡しちゃうかもしれないよ?」

「だいじょうぶ、叶美は約束を守る女の子だから!」


 水藤には、苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 なんだかんだ言っても水藤と西は付き合いの長い、勝手知ったる友人同士。互いに一番のサムワン――叶美に関してはサムワンズだが――が居る身でも、恋愛と友愛はまた別の話だ。


「しょうがないなあ……」

「でもさ、ちょっとワクワクしてるでしょ? 卒業前のちょっとした大冒険」

「……まあ、それなりにはね?」


 水藤はようやく、西と同じ――ちょっとしたイタズラを楽しむ子どものように歯を見せて笑った。

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