第2章 ノリカスペシャル
#7 ある夏の日
本家の門をくぐる時、幸来はいつも緊張してしまう。
当然のことだ。本家は大きい。片側二車線の国道縁にあり、敷地は木造の壁で囲われている。外から敷地内の様子を伺うことはできないし、敷地の周りを壁伝いに歩くだけで2、3分は掛かる。とにかく大きいのだ。「建坪で言えば160」。以前父親が話していたが、そもそも坪の指すものがピンと来なかった幸来にとって纐纈本家はただ大きくて、憧れて、疎外感を味わうだけのものだった。
ここで、少しだけ纐纈家のことを紹介しておく。
纐纈家は国道沿いの邸宅という言葉が示すように、この空の宮市ではそれ相応の名家だ。家系図を紐解けば市議会・県議会議員の名前があり、さらに辿れば藩政時代、そして大名の近辺まで遡ることができる。近年における功績と言えば、空の宮市の成立とそれに伴う大改革だろう。かつての旧空野市・旧野宮市を合併し、地元企業・天寿と共同して推し進める産官連携の教育特区改革は、地方自治の次世代モデルケースとして国内外からも注目を集めている。つまり纐纈家は先祖代々政治家の家系だ。
だが翻って、幸来の分家筋は
*
まだ祖父が生きていた頃。幸来が小学生だった頃、夏休み。
空の宮市市内にあった祖父母の家は、あの纐纈家の眷属とは誰も思わないであろう、かろうじて猫の額ほどの庭があるだけの手狭な一軒家だ。
祖父母の家に帰省した時の幸来の定位置は、庭に迫り出した縁台だ。縁台に座って足をブラブラさせながら、青空と入道雲を見上げるのが好きだった。
なんだか、写真みたいだったからだ。
庭の端にあるブロック塀と軒下、そして視界の左右に入る雨戸や簾が、夏空を綺麗に切り取っていた。
「幸来」
「なんですの、おじいさま?」
食べたスイカの種を飛ばしていた幸来に、縁台の隣に座る祖父が尋ねてくる。
「お前さん、将来は何をしたい? 何になりたい?」
幸来は迷うことなく即答した。
「しゃしんをとるひと! おとうさまみたいな!」
「キャメラマンか。ならキャメラが必要だな」
祖父は立ち上がり、どこかへ消えた。
風鈴の音。蝉時雨。スイカの果肉が奏でる音。
ぼんやりと空を見ながらスイカの甘みを感じていた幸来の隣に、祖父は再び腰を下ろす。
「幸来、このキャメラで爺ちゃんを撮ってくれるか?」
「ふえ!? いいんですの!?」
子どもだった幸来に、本物のカメラは憧れだった。アマチュアカメラマンの父に与えられたオモチャのカメラでは、幸来は満足できなかったのだ。
幸来の夢は、オモチャではなく本物のカメラを使って作品を創ること。それがこの時、叶おうとしている。
「おとうさまのカメラとはちがう……」
「そりゃあそうさ。こいつはドイツ製の古いヤツだ。爺ちゃんと同じ、オンボロだ」
「オンボロ……」
「でもな幸来よ、古いモノにもいいモノはある。もちろん、新しいモノにもな。大事なのは、古いとか新しいとかに拘らず、自分がしたいことをやることだ」
祖父の教えは、幸来にはまるで分からなかった。幸来が漠然と理解したのは『古いものがいい』ということだけだった。
「……はっ! 知ってる! それ、のすたるじいって言うんですわよ!」
「そうさな。じゃあ爺ちゃんはノスタル爺ちゃんだ。撮ってくれるか?」
「わかりましたわ!」
渡されたのはドイツ製の古い一眼レフだった。フィルムの巻き取りはおろか、ピントの調整すら手動でやらなくてはならない古くて不便なもの。それでも幸来は祖父の説明を熱心に聞いて操作を覚え、ファインダー越しに祖父の顔を捉えた。
「じゃあ、撮りますわ! はい、チーズ!」
夏休みのあの日。
祖父のお下がりで撮った幸来の最初の作品は、花で囲まれ飾られた大きな祭壇に掲げられた。ピントがぼけていた。逆光だった。遺影としての出来映えは決して褒められたものではなかったが、纐纈本家の栄華と繁栄を捨てて七十余年を生きた男の生涯を飾るには、これ以上ない笑顔だった。
小学校の制服を着て、祖父のカメラを肩から掛けて。
幸来は山間の火葬場の外、山頂に向かってまっすぐ伸びるアスファルトを見上げる。
生い茂った木々。アスファルトの逃げ水。わきたつ入道雲。そして青空。
幸来はファインダーを覗き、ピントを入道雲に合わせた。
おじいさまは、あの雲より高く昇れただろうか。昇れたらいいのに。
*
幸来の祖父は、幸来の撮った遺影で送られた。
そして祖父の死をきっかけに、断絶状態だった纐纈本家と復縁した。
初めての纐纈本家訪問の時、当然、幸来は緊張した。
初めて親戚達の顔を見た。自分と近い歳のいとこやはとこ達を見た。そして空の宮市の名士達に挨拶された。知っている人は誰も居ない。幸来に分かる話をする人も居ない。やることがない。
さらに、本家筋の子ども達が「お祖父ちゃん!」と呼んで慕う人を、幸来は同じように呼ぶことができなかった。
どんなに面影が似ていても、血が繋がった兄弟であろうとも。幸来にとっての「おじいさま」は死んだ祖父以外に居ない。カメラをくれた人、初めての作品の被写体になってくれた人だけだ。
幸来は壁の花になり、窓から見える空を祖父のカメラで覗いていた。
家柄がどんなに良くても、どんなに世の人の役に立っていようとも、祖父はきっと、この纐纈家が嫌いだったのだ。
なら私は――分家筋の纐纈幸来はどう行動すべきだろう。
結論はまだ出せていない。
*
「んう……寒い……」
身体の芯を刺すような寒さで幸来は目覚めた。見知らぬ天井は、温かな色味の壁紙で覆われている。肌に触れるのは、布の感触。ふかふかしたベッドに裸で寝転んでいる。
そう気づいた瞬間、幸来は飛び起きた。
「おはようございます、纐纈さん」
「え……」
部屋着に着替えた女性が、ベッドサイドの椅子に座って幸来を眺めている。顔面偏差値70。見目麗しい、人間の皮を被っている時の二階堂榛那だ。
「寒かったでしょう。この部屋の暖房、壊れていまして。今温かい飲み物を――」
そして幸来は自分の姿を見る。全裸だ。毛布を被せられてはいるが、制服もキャミソールも――下着すらも着けていない。
「ええええええええええええええ!?」
幸来は素っ頓狂な声を上げた。当然だ。トイレの一件で冷たく臭いスプリンクラーに打たれ、花子さんの姿を見て気を失ったところまでは覚えている。そこから昔の夢を見たと思ったら、目覚めた途端よく分からない部屋と二階堂だ。しかも裸で布団に寝かされている。
「こ、ここはどこですの!? 何故裸なんですの!? 二階堂先輩は何をなさったんですの!?」
「愛し合いました♪」
「あ!?」
「冗談ですよ、驚きました?」
止まりかけた幸来の心臓が再び動き出した。そのまま力なくベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。自分のものではないシャンプーの花の香りが幸来の鼻腔をくすぐった。
ポットのお湯が沸くと、壁に反響した二階堂の声が聞こえてくる。
「ココアとコーヒーでは、どちらがお好みですか?」
「……………………」
「纐纈さーん? コーヒーで構いませんかー?」
「砂糖とミルク多めでお願いします……」
「愛情は?」
「……余計な味付けは結構ですわ」
サイドテーブルにコーヒーが運ばれてくる。毛布に包まって――裸を見られないようベッドのへりに座って、幸来は二階堂と顔を合わせた。
「……まさかとは思いますが、ここは二階堂先輩の部屋ですか?」
「あら、やはり気を失っていたのですね……」
「どうぞ」進められたままにコーヒーを飲む。甘く温かなコーヒーが、冷えた身体の芯をほぐしていくようだった。そうした幸来の様子を見て、二階堂は事情を告げた。
「びしょ濡れで気絶してしまったので、ここまで連れて来たのです。担任の先生を通してご家族には連絡しましたので心配はいりませんよ」
「ということは桜花寮……? ていうか私の服は……!?」
「脱がせました。今はランドリースペースの洗濯機の中ですね」
「見られた……」
「ええ、じっくりと」
咄嗟に幸来は毛布を身体に巻き付けた。その反応を見た二階堂は、口元に手を当て笑う。「冗談ですよ」と言えば許されるものではない。幸来にとっては冗談が過ぎる。
「そのままにして風邪を引いてしまっても困りますもの。ですので悪いとは思いつつも靴下、スカート、ブラウス、キャミソール。そしてブラジャーとショーツの順に」
「み、皆まで言わないでくださいまし!」
「ご安心くださいね。私が欲情するのは髪の毛だけですので」
「そっちの方がどうかしてますわよ!?」
「纐纈さんの濡れ髪はとても艶めいていて美しくて……肌にぴったりと張りついた濃茶の質感が……はあ……はあ…………!!!」
二階堂の顔面が崩れ始めていた。なんとか綺麗なままの――話が通じる人間の二階堂榛那のままで居てもらおうと、幸来は必死に話題を探す。
「に、二階堂先輩のルームメイトはどんな方ですの? 私は寮生ではないのでいまいちルームメイトというものが分からなくて~!? お話してくださいませんこと?」
「そんなことより纐纈さんの髪の話をしませんか!?」
「ひいっ!? 効果なしですの!?」
幸来はベッドに押し倒された。徐々に近づいてくる二階堂の鼻息は相当に荒い。ものすごい力で身体を押しつけられて抵抗することもできない。
「ひっ!? や、やめて……犯さないで……!」
「はあ……はあ…………! 髪の毛! 濃茶の髪を、髪の毛をッ!!!」
部屋着姿の二階堂の黒髪が幸来の顔に掛かった。しなやかで肌触りがいい。まるで絹糸だ。肌をくすぐるそれが幸来の鼻辺りに達したとき、なんともむず痒い感覚に襲われた。
――クシャミが出そう!
「びえっくしゅ!」
鼻腔をくすぐられ、そして寒さも手伝って。目と鼻の先に二階堂の顔があるにも関わらず、幸来は豪快に放った。唾と口に残ったコーヒー、そして鼻水までセットのフルコースだった。大変きちゃない。
「あ、すみません……」
二階堂の動きは止まった。そしてゆらり、と揺れたと思ったところで、幸来の肩を毛布の上からがっしりと掴む。
「も……」
「も……!?」
「もしや風邪をお召しになってしまったのでは!? いけません、体調不良は髪の毛の大敵! せっかく美しい濃茶の髪がやせ衰えてカサカサになってはなりません至急温めねばこうなれば私が添い寝してひと肌で!」
「どうしてそうなりますの!?」
二階堂が部屋着を脱ぎ始めたところで、幸来はなんとか口実を探した。桜花寮・菊花寮には大浴場があるらしい。身体を温めるなら風呂でもいいはずだ。
「そう、お風呂! であればお風呂に入りますので!!!」
二階堂の添い寝は必要ないが、身体が冷えているのは事実だ。大浴場であれば冷えた身体を温められるし、臭い水でベタついた身体も洗い流せる。どうせ制服その他は洗濯中だ。それに二階堂の魔の手を逃げるチャンスもここしかない。
「それでは諸々ありがとうございました! 失礼いたしますわ、二階堂先輩!」
「お待ちになって、纐纈さん!」
「まだ何かあるんですの!?」
「その、纐纈さんの露出癖は存じておりますが……たとえ寮内とは言えストリーキングはいかがなものでしょうか……」
幸来が巻き付けていた毛布がずるりと落ちた。一糸まとわぬ姿を二階堂に見られて――目元を隠すフリして指の間の暗闇としっかり目が合って――しまった。
「きゃっ♪」
二階堂は楽しげに笑っていた。
気を失っていた時に見られる分にはまだいい。意識があるうちに、自分の姿を二階堂に見られてしまった幸来の顔は、みるみるうちに真っ赤に染まったのだった。
「お、お風呂へ行くための服を貸してくださいまし……二階堂先輩……」
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