#5 トイレの花子さん

「……なるほど。水回りの点検を先生から頼まれたのですね」

「誤解が解けたようで安心しましたわ……」


 「便秘解消にはバナナがいい」という謎の蘊蓄を披露する二階堂の誤解をなんとか解いた頃には、日はとっぷり暮れていた。

 冬は一日が終わるのが早い。共用校舎の心許ない照明が廊下とトイレをぼんやりと照らしている。


「では。点検を済ませてしまいますので私はこれで」

「お手伝いしますよ。髪の毛を戴いたお礼もまだしておりませんし」


 二階堂榛那は、何故だか今朝の出来事を感謝しているらしい。私の髪の毛は桃太郎におけるきび団子か何かなのだろうか。犬猿雉ならまだしも、むしろ彼女は鬼だ、妖怪だ、ラスボスだ。人知を超えた魑魅魍魎を引き連れて、いったい何を倒しに行くつもりなのか。


「……先輩の手を煩わせる訳には参りません。下校時刻も迫っておりますので、そのお気持ちだけで」

「お心遣いは不要ですよ。寮生ですのでさしたる問題もありませんから」

「ソウデスカ」


 気遣いに見せかけたお断りも空振りに終わった。二階堂の起居する桜花寮は学園の敷地内。もちろん寮生とて下校時刻には従わなければならないが、その辺は比較的ゆるいもの。

 そう、二階堂榛那は寮生なのだ。それも、才能に秀でた者のみに与えられる個室の菊花寮を蹴ってまで、二名一室の桜花寮を選んだ奇人。


「……ルームメイトが心配するのではありませんこと?」

「さあ、そうと決まれば点検しましょうか」


 それとなく探りを入れてみても、二階堂は聞いちゃいないとばかりに薄暗いトイレに消えていった。水垂先生には「直接聞け」と言われたが、本人の口から聞き出すなんてできるのだろうか。彼女はそもそも意思疎通ができる相手かどうかさえ怪しい妖怪だというのに。


「纐纈さん?」

「分かりましたわ……」


 頼みの綱は水垂先生しか居ない。距離を置きたい二階堂を調べるため二階堂と行動を共にするなんて本末転倒だが、他に方法はないのだ。

 私は意を決して、照明がちらつく薄暗いトイレに飛び込んだ。


 *


 ――唐突ですが、皆様は『学校の怪談』をご存じでしょうか。

 例えば、走る人体模型や骨格標本。他にも美術準備室の胸像が動いたり、一人でにピアノが鳴ったり、夜になると一段増える階段があったり。そんないわゆる、クラシックでオーソドックスな噂の域を出ないオカルトです。

 これはいわゆる『学園七不思議』にまつわるお話――。


「ここは……出そうですわね……」

「あら、やはり便秘が?」


 心配そうに私を覗き込む二階堂から視線を外して、私は現場を見渡した。

 共用校舎のトイレはほとんど使われていない。理由は単純に、古びているからだ。アクセスの悪い校舎の端にある上に、改修工事が行われていないため設備自体も老朽化している。床はひび割れて黒ずみ、壁には蜘蛛の巣。「今すぐ用を足したい」と切羽詰まった生徒が居たとしても、もう少しだけ我慢すればここより綺麗なトイレはいくらでもある。わざわざここを使う理由はない。

 くわえて、共用校舎のトイレにはいわく付きの噂話もあった。


「二階堂先輩はご存じありませんこと? この場所の噂について」

「さあ。あまりこの校舎に立ち入ることはありませんから」

「……出る、と言われているのです。幽霊が」


 よくある怪談、トイレの花子さんの星花版だ。噂の概要はこんな感じ。


 主役は、下校時刻ギリギリにこの場所に駆け込んだ女子生徒だ。

 『このトイレには、出る』

 そんな噂は知っていたものの、止むに止まれぬ緊急事態だった。トイレに飛び込んだ生徒は怯えながら用を足したが、結局心配は杞憂に終わった。当然と言えば当然だが、特に何も起こらなかったのだ。「なんだ、幽霊なんて出ないじゃん」と生徒は安心したらしい。悠々と鼻歌交じりに洗い場の蛇口を捻った時、一度目の異変が起こった。

 水が出ないのだ。「詰まってるのかな?」と思った生徒はさらに蛇口を捻るも、いっこうに水は出てこない。「おかしいな」と思った生徒がふと排水溝に目を遣ると――


 ――目が合ってしまったのだ。

 排水溝の暗闇の奥に詰まっている、充血した人間の目玉と。


 「きゃあ!」生徒は思わず飛び退いた。人間誰しも、あるはずのないものを見つけたら戸惑うなり驚くなりするものだろう。だが本当の恐怖は、このすぐ後に待ち構えていた。


 ごぽり。ごぽり。


 手洗い場の蛇口が、不気味な音を立て始める。ごぽり。ごぽり。限界まで捻られた水栓、その水の勢いが、詰まった何かを押し出そうとしている。

 ここで生徒は、はたと気づいた。蛇口に詰まっている物と、排水溝の奥の目玉には何らかの関係があるのではないか。


 ごぽり。ごぽり。ごぽり。ごぽり。


 生徒は怖くてその場を動けなかった。だが、このまま水栓を開きっぱなしにはできない。直感したのだ、蛇口を締めなければならないと。「今すぐ蛇口を締めなきゃ」。恐怖をこらえて、何とか蛇口の水栓部分に手を伸ばし、逆方向に回転させる。

 必死だった。とにかく恐怖から逃れたい一心で、全開だった蛇口をしっかり締めた。「これで大丈夫」、そう安堵した束の間だった。


 ごぽり。ごぽり。ごぽり。ごぽり。ごぽ。ごぽ。ごぽ。ごぽ。ごぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。


 蛇口から、ゆっくりと。黒い何かが出てきた。「止めたはずなのに!」。栓は確かに締まっていた。もうこれ以上は締まらない。水の勢いは止まったはずである。それなのに、蛇口はなおも音を立てる。水は止まらない、むしろ先ほどよりもより強く、詰まった黒い何かを押し出すように。


 ごぽぽ。ごぽぽぽぽ。ごぽぽぽぽぽぽ。ごぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。


 そして――


 どろり。


 出てきたのは水ではなかった。髪の毛だ。それも大量の髪の毛が、濁流のように蛇口から止めどなく流れてくる。「きゃあああ!!!」生徒は叫んだ。手洗い場のシンクはあっと言う間に黒い髪の毛でいっぱいになり、あふれた髪の毛がトイレの床を流れていく、満たしていく、生徒の足元に絡みついていく。

 「いや、いや!!!」、生徒は必死で叫んだ。その場を逃げだそうとするも足が動かない。床を覆った髪の毛が、足に絡みついて取れないのだ。まるで泥の中に足を突っ込んだように、その場から一歩たりとも動けない。「助けて、助けて……!」生徒は動転して叫んだ。だが、辺りはもう日が暮れている。下校時刻も過ぎてしまっている。助けは誰にも届かない。そんな絶望が心に芽生える。「だけど!」と生徒は勇気を振り絞る。誰か一人くらい居るはずだ、と。叫び声に反応して誰かが来てくれるはずだ、と。


 こつ、こつ、こつ、こつ――


 音が聞こえた。ローファーの踵が廊下を鳴らす音だ。音は徐々に近づいている。誰かが叫び声に反応したのだ。「こっちに来て!」生徒は必死に叫んだ。目の前の蛇口はなおも髪の毛を吐き出し続けている。床に溜まった髪の毛はくるぶし辺りまで達していた。ガッチリと固定されてしまって足は動かない。だけど、誰かが助けに来てくれれば――


 こつ、こつ。


 足音が止まった。生徒は「こっちに来て!」と叫びかけて、固まった。ローファーの踵の音に、水の音が混じっている。天候は晴れだった、雨が降ったとは考えにくいにも関わらず。


 こつ、こつ、べちゃ、べちゃ――


 呼吸が荒くなる。鼓動が高鳴る。やっとのことで出せた声も、荒い呼吸混じりで悲鳴にすらならない。


 べちゃ、べちゃ、べちゃ。

 ぴたり。


 もう遅い、助からない。背後に気配を感じる。

 鼓動が早鐘を打つ、呼吸が浅くなる。どくどく、ぜえぜえ。全身が不協和音を奏でる。止まらない。そこに自分以外の吐息が聞こえる。近づいてくる。冷たい風に皮膚がそばだつ。そして。耳元に。花子さんの声が――



 こ う け つ さ ん ?



「ぎいやあああああああああああああああ!!!???」


 マンガみたいに叫んで、私はトイレの床に尻餅をついた。怪談話を語っている絶妙なタイミングで二階堂に耳元で名前を呼ばれたのだ。そんなの怖がるなという方が無理な話だ。


「あら、大丈夫ですか。纐纈さん?」

「い、今のは分かってて話しかけましたよね!?」

「ええまあ、多少は」


 二階堂は口元に手を当てて笑った。


「その噂でしたら聞いたことがありますよ。確か、生徒は黒髪の花子さんを目撃し、その場で殺されてしまう。そして、その後の生徒の行方を知る者は居ない……と結ばれるお話でしたね」

「知っていたのなら説明させないでくださいまし……」

「いえ、纐纈さんの語りがあまりにお上手なものですから、つい聞き惚れてしまいまして」

 「立てますか?」と二階堂が差し伸べた手を無視して、立ち上がり周囲を見渡した。ここが星花七不思議『トイレの花子さん』の舞台、共用校舎のトイレだ。


「う……。思い出したら怖くなってきた……」

「では力をお貸ししましょう、一応は先輩ですからね」


 二階堂は何の躊躇もなく蛇口の水栓に手をかけた。驚いたのは私の方だ。


「こ、怖くありませんの二階堂先輩……!?」

「怖い? 何故ですか?」


 さも「どこが?」とばかりに首を捻る二階堂が、私にはやけに頼もしく見えた。

 そうだ、よくよく考えたら二階堂榛那も人間離れした存在だ。たとえトイレの花子さんが噂に違わぬバケモノだろうと、こっちにはそれ以上に危険な魑魅魍魎が付いている。

 私は思った。


 バケモノにはバケモノをぶつけんだよ! と。


「大丈夫ですよ、纐纈さん。さっきの噂話には致命的な欠陥があるんです」


 「欠陥?」とおうむ返しした私の前で、二階堂は蛇口の水栓を回しながら告げた。


「噂話の女子生徒は、真相を誰かに話す余裕もなく呪い殺されました。目撃者の居ない事件をどのように語り継ぐというのでしょう?」


 水栓が回って、蛇口は水を吐いた。

 水は澄んでいる。混じり気なし、透明だ。泥やサビで汚れてもいなければ、髪の毛も混じってはいない。


「ね? 噂は噂。誰かの身に起こったちょっとした恐怖体験が、人から人へ伝わるうちに、背びれ尾ひれがついて怪談になったというだけです」


 二階堂は水を止めた。二つある洗い場のうち一つは問題なし。点検はいともあっさり終わってしまった。

 二階堂榛那。彼女は謎まみれの人物だが、あれだけ怖い怪談にも一切物怖じしない。こちらが驚くほどに冷静で、美しい所作で佇んでいる。世間ではこれをクールビューティーと言うのかもしれない。


「では、もう一方も点検してしまいましょう。よいですか、纐纈さん」

「お、お待ちになってくださいまし!」


 そう、クールビューティー。それは纐纈幸来の専売特許だ。

 クールビューティーを自称し、周囲から一目も二目も置かれなければならない私自身が、こんなつまらない怪談に怯えていてよいのか。それも、よりにもよって二階堂榛那にクールビューティーの座を奪われていいのか。

 いやない(反語)。


「も、元はと言えば私が頼まれたこと! 二階堂先輩の手を煩わせる訳にも参りませんもの! そ、それに怪談なんて子どもじみた噂を信じるなんて、ば、バカバカしいですわよね……!」

「ふふ、そうですね。では、お願いできますか、纐纈さん」

「がっ、ががが合点承知ですわ!」


 水栓に手を掛ける。そして頭の中で「オバケなんてないさ! オバケなんてウソさ!」と歌いながら、思いきり捻った。

 水は――


 ――出なかった。

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