#4 纐纈幸来、危機一髪

「……という訳で、教えていただけませんこと? 水垂先生」


 職員室。

 学園ジャーナリスト・西恵玲奈の情報によれば、二階堂榛那に菊花寮行きを打診したのは水垂という教師であるらしい。情報の真偽はともかく、他に頼るアテもないからと水垂の元を訪ねてはみたものの。


「生徒個人の情報は教えられないんだよねー」


 得られたのはたった一言。結果は推して知るべしだった。

 教師・水垂志緒子。ほのかに塩素特有の刺激臭を漂わせる水泳部の顧問で、生徒に付けられたあだ名は「すいすい先生」。プールをすいすい進むことが由来のようだが、さすがに個人情報ともなればすいすい答えてはくれないようだ。


「そこを何とか!」

「ダメなものはダメだよー」


 水を掻き分けるように手をひらひらさせて「NO」の意思表示をすると、水垂先生は書類でゴチャゴチャになったデスクに突っ伏した。折しも時間は食後の昼休み。午睡を決め込む魂胆だろう。


「ちょっ! それではすやすや先生ではありませんか!? どうしても教えて欲しいのです、二階堂先輩のことを!」


 生あくびを噛み殺した水垂先生と目が合った。とろんとした胡乱な瞳、開きっぱなしの口。どこをどう見ても睡魔と戦っている27歳児といった様相だ。

 だけどわずかに、まるでからかうような表情が見てとれた。


「どうしてそんなに二階堂さんのことが知りたいのかなー?」

「それは……」


 ニヤニヤと探るような水垂先生に、私は言葉を詰まらせた。

 今朝私の身に立て続けに起こった怪異――髪の毛を拾われ、匂いで追跡され、目の前でことを説明しようにも、なにをどう説明すればいいのか分からなかったのだ。


「ふふー、わかるよー? 『気になるあの子のことを教えてください』って相談に来る子、この学園にはけっこう多いんだよねー」

「ならぜひ!」

「個人情報保護の観点から教えられませーん。それにさー?」


 水垂先生はちょいちょいと手招きした。誘われるままに顔を近づけると、あくび混じりの囁きが聞こえる。


「……知りたいなら本人に直接尋ねた方がいいよー。妙な誤解も生まなくて済むし、それにお近づきにもなれるしねー?」

「はあ……?」


 意図が分からず生返事をした私に、水垂先生は静かに笑って続ける。


「好きなんでしょー? 二階堂さんのことー」


 水垂先生は盛大に勘違いしていた。


「違いますわ! 私は二階堂先輩に近づきたくないから彼女の情報を知りたいのです!」

「わかってるわかってるー。ツンデレってヤツだよねー?」

「どうしてそうなるんですの!? 別に私は二階堂先輩のことなんてこれっぽっちも……!」

「はいはいツンデレツンデレ」

「だからツンデレ違いますから! 明らかに勘違いですからッ!」


 強烈な勘違いをされたまま、水垂先生はヘラヘラ笑って「おやすみー」と机に突っ伏した。塩素で退色した髪の毛が乱れることも厭わず、机に顔面を押しつけている。一点の隙もない、隙だらけの昼寝の構えだ。


「せ、先生!? 起きてくださいまし先生! どうして先輩を菊花寮に行くよう説得したんですの!? どうして先輩は菊花寮を蹴ったんですの!? 教えてください!!!」

「おしえないよー」


 どれだけ肩を揺らしても水垂先生は首を縦には振らない。それでも、二階堂榛那の真相を知る手掛かりは今のところ彼女だけだ。私はクールビューティーであることも忘れて必死で食い下がる。


「教えてくださいまし! 何でもしますから!!!」


 ――その一言が命取りだった。


「今、何でもするって言ったよね?」


 水垂先生は息継ぎでもするようにがばっと起き上がると、私の両肩をガッシリ掴んでくる。ほとんど鷲掴みと言っていい、「逃がすものか」とばかりに指が食い込んでいる、ていうか――


「いや強い強い強いんですが!? 痛い痛い痛い!」

「何でもするって言ったよねー?」

「言いました言いましたけどまず手を離してくださいまし折れる折れる! 体育会系のゴリラパワーで折れますから! 華奢なクールビューティーになんてこと――」

「ゴリラが何だってー?」

「ごめんなさい少し盛りました、あがががが!!!」


 ゆるくふわふわ間延びした口調のわりに、力だけはとにかく強い。すいすい先生なんてゆるふわな名前に騙されていけない。体育会系恐るべし。


「あなたは二階堂さんのことが知りたいんだよねー? だったら先生と取引しよう。いいよねー?」

「と、取引……?」


 これが原因でひどい目に遭うなどと、この時の私は考えることすらなかったのです。


 *


 オレンジ色の西日が、空に終業時間が訪れたことを描き表していた。

 放課後。星花女子学園、中等部・高等部共同校舎。

 中高一貫の女子校である星花女子学園の敷地内には、中等部・高等部と校舎が別々に存在する。主だった特殊教室――家庭科室など――はそれぞれ独立しているが、講堂や体育館、図書室などは中高の校舎に挟まれるように建てられた共用校舎に収まっている。

 3つの校舎を北から順に並べれば、高等部校舎、共用校舎、中等部校舎。

 つまりその中央に位置する共用校舎は、中等部と高等部が混じり合う場所だ。


「昨年は、南側からセントラルへ来ていたのにね。時の流れとは残酷なものだわ……」


 共用校舎の二階の窓から、昨年まで通っていた中等部校舎に視線をやってため息をついた。できる限り西日に照らされるように。物憂げな顔を作って。さも「時の流れを噛みしめるクールビューティー」を装って。もちろん、感慨らしい感慨など持ち合わせていないし、大したことは考えていない。気分だけだ。


「それにしても水回りの点検って。普通は業者に頼むことでしょう……」


 1日3回のクールビューティーノルマを達成した私は、先ほどのため息とは違う、本物のため息をついた。すべては、水垂先生が言い出した取引にある。


『共用校舎の二階の一番奥にお手洗いがあるでしょー? でもねーなんか、水が出ないとか妙な噂が立っててねー。調べてきてくれたら二階堂さんのこと、こっそり教えてあげちゃうよー』


 つまりは、水回り配管が詰まっていないか蛇口を捻って点検してきてくれ、というものだ。奇妙奇天烈摩訶不思議な二階堂榛那を調伏するため、あの妖怪変化の情報は喉から手が出るほど欲しい。そのためならば雑用なんて安いものだ。


「フフ。待っていなさい、二階堂榛那。貴女のその化けの皮、すぐにこの私が剥がしてやるわ!」

「あらあら、剥がされちゃうのですね」

「ええ、当然! 何故なら――」


 振り向いたらヤツが居た。


「ぎょええええええええええええええええ!?!?!?」


 長く艶めく黒髪を讃えた二階堂榛那が、私を見て微笑んでいる。柔らかな西日に照らされた姿だけは神々しくすらある程に美しい。が、今朝の髪レロレロもぐもぐチュッパチュパ事件のせいで妖怪が取り繕っているようにしか見えない。

 敢えて語るまでもなく、私から二階堂榛那への感情は限りなくネガティブだ。

 べ、別にツンデレじゃないんだからね。

 本当にツンデレじゃないから勘違いしないでほしい。


「ふふ、喜んでいただけて何よりです。サプライズは大成功ですね」

「どこをどう見たら喜んでいるように見えるのですか!?」

「だって、初めてまともに言葉を交わせたではありませんか。濃茶の君改め、

「どうして私の名を……!?」


 「フフ」と意味深に二階堂は笑った。笑ったと言っても、誰が見ても十中八九不審者だと断言するであろうキチガイスマイルだ。身の危険を感じる。ハッキリ言って怖い。

 だけど、私だってクールビューティーの端くれだ。魑魅魍魎程度に遅れを取るようではクールでもビューティーでもない。真のクールビューティーならば、たとえテレビ画面から這い出してくるタイプの幽霊であろうと、優雅にお茶に誘うくらいの度量がなくてはならないのだ。


「……分かりましたわ。私のクラスの友人に聞いたのですね。水晶みあきあたりは口が軽いでしょうし」

「いいえ、髪に訊きました。貴女のお名前は? と」


 どうしよう、この人本物だ。

 クールビューティーとか言ってる場合じゃない。


「……というのは冗談ですよ、愉しんでいただけました?」


 やはりキチガイスマイルを浮かべる二階堂に、私は開いた口が塞がらなかった。


「本当は、貴女のクラスの担任に伺ったのです。教室の周りに成人女性の髪の毛が落ちていましたので、それを頼りに」

「そ、そうですのね……」


 必死にクールを取り繕って話を合わせた。それより問題は、生徒の個人情報を勝手に漏洩したクラス担任だ。あくまでも個人情報保護を貫いて――食後で眠かっただけかもしれないけれど――取り合わなかった水垂先生を少しは見習ってもらいたい。


「ただ、他の教師や生徒の目があるから纐纈さんのことは教えられないと断られてしまったのです。ならば、先生の髪の毛を頼りにご自宅へ伺いましょうかと提案したところ、いともあっさりと」


 前言撤回。

 担任はきっと、妖怪に目を付けられてすごく怖かったんだろう。個人情報を教えるのは仕方がない話だ。


「ところで、纐纈さんは何を?」

「あ、ああ……ええと……! こ、これからおトイレの方を少々……」

「おトイレで小……?」


 二階堂榛那の情報を教えてもらうためにトイレの水が出るかどうか点検をしている――とは流石に言えず適当に誤魔化したら、まるでを我慢している人みたいになってしまった。


「いえ少々というのはそっちの小ではなく!」

「では小に混じって大きな――」

「違います! 違うんです! 詰まっているものを出さねばいけないのです!!!」

「まあ……。やはり便秘なのですね? 今朝頂戴した髪の毛を見る限り、お通じがよろしくないのはなんとなく分かっておりましたが……」

「髪の毛で分かるの!?」

「ええ、おおよその体調は」


 二階堂は心底かわいそうな、それでいて労うような顔を見せた。完全に勘違いされてしまっている。自分の名誉のためになんとか否定の言葉を探したものの、私の苦労など二階堂は知る由もない。


「頑張ってくださいね? 心細いようでしたら私、この場で応援しておりますので!」

「お、応援していただくものではありませんわ! ていうか気が散る!」

「ところで便秘って面白い言葉だと思いませんか? 周囲の人々に対して便を秘めるのは人間として当たり前のことですのに、何故お通じが悪いことを便を秘めると……」


 どこからツッコんでいいのか分からない発言の後に、二階堂はハッとして私の手を掴んできた。

 冷たい手だ。何故だかひび割れ、ささくれ立った彼女の手のひらの皮膚が、まるで爪でも立てるように私の手の甲をチクッと刺してくる。

 何故、二階堂の手はこんなに荒れているのだろう。どんなに水回りの仕事をしていても――あるいは水垂先生のように水泳をしていても、ここまで手が荒れることはないだろうに。

 そんな二階堂への疑問と一抹の心配は、一瞬で吹き飛ばされた。


「纐纈さんの趣味をとやかく言うつもりはありませんが……その……。公開プレイに励むのでしたら、せめて高等部を卒業してからの方がよろしいかと……」

「露出狂扱いしないでくださいまし!!!」


 二階堂榛那の前では、まるでクールビューティーじゃ居られない。

 どこまでも調子が狂ってしまいそうだ……。

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