第1章 トイレの花子さん
#1 もはやクールじゃいられない
記録的な暖冬と謳われたこの年、いつもの通学路にもようやく冬の足音が聞こえてきた。それは吹きすさぶ木枯らしの音だったり、機関車のように白い息を吐く登校中の小学生の声だったり。街並みはクリスマスカラーに装いを変えて、道行く人は着膨れて。井戸端会議の話題は「寒いですね」のただひとつで。
この街――空の宮市に、じわりじわりと冬が染みこんでいく。私、
「今年も来たわね、冬が……」
冬枯れの街路樹に憂いの視線を投げて、意味深につぶやいてみる。意味深につぶやいてはみたものの、冬が来たから何だと聞かれても、答えは用意していなかった。
私立星花女子学園高等部一年生。花も恥じらい裸足で逃げ出す天下御免のJK1。それが私、纐纈幸来だ。環境に恵まれ容姿に恵まれ、学力――にはそこまで恵まれなかったが、それを補って余りある爆アド:家柄を引っ提げて、私はひとり通学路を歩く。
背筋を伸ばし、前だけを見据え、ローファーのかかとをリズミカルに鳴らす。通学路はランウェイだ。冷たい北風を肩で切って、コツコツと足音を響かせる。もっとも、ローファーではヒールのような音は鳴らないけれど、そこは気分でごまかす。
「ふふふ……」
今の私、とても絵になる。
気分がノッてきたので、低い位置で留めたポニーテールを解いて、冷たい外気に髪の毛を晒してみる。北風に抱かれた深い濃茶色の長髪は、頬をくすぐり、肩の上で軽やかに跳ねた。
「ねえちょっとどうしたの今日の私! 最高にクールじゃない! ヤバ……。自分のクールさが怖いわ……」
そう、私はとてもクールなクール・ビューティー。クールと書いて纐纈幸来と読んでもバチは当たらないくらいにはクールが過ぎる。どれくらいクールかというと、あまりのクールさにクール概念が裸足で逃げ出すほどクール。よしんば私がクールじゃなかったとしても、私は基本的にクールだからクール。はい、クール。
……これだけクールをキメればもう充分だろう。クールのストップ高だ。
身の回りの風景をムリヤリ冬に結びつけて、『冬の到来を密やかに待っていたクールな女ごっこ』を演じてみたら、あまりのクールさに私自身驚いてしまった。
「やっぱりポテンシャルが違うのよね、クール・ビューティーとしての!」
思わずニヤけてしまいそうな表情を、持ち前のクールさで押し込める。カーブミラーに映ったニヒルでシニカルな微笑みを見るだけで、余計に気分がアガってくる。だって、これ以上にクールな笑顔ができる人間なんてそうは居ない。
「フフ、フフフフフ……。あ、いけないいけない。クールが壊れる」
誰に見られてる訳でもないけど、いや、逆に誰も見ていない時でもクールを絶やす訳にはいかない。だから慌てて口角を結ぶ。さも「私はクールな女」と、化粧品のCM女優にでもなりきったような気持ちで。
――私の身に、人生最大級の不幸が訪れたのはそんな時だった。
「もし、そこのお嬢様」
寮生と自宅生が入り乱れた学園正門をくぐったところで、背後から声を投げかけられた。
思えば「お嬢様」なんて、星花女子学園にはありふれている。もちろん、みんながみんな血統書付きのお嬢様ではないけれど、この学園じゃ石を投げれば10回に1回はお嬢様に当たるほど。つまり、私が声を掛けられた可能性はけっこう低い。
そのはずなのに。
どうしても、その声が「振り向いてほしい」ように聞こえてしまって。
――この時振り向いていなければ、私はクールで居られたのに。
「ええ、あなたです。麗しい濃茶の長髪のあなた」
とっさに振り向いてから「しまった」と思った。もし他に振り向いている人が居たら、私はただの勘違い女になってしまう。それってすごくダサいしクールじゃない。
急いで周りを確かめる。少なくとも私の他に振り向いた人は居ない。
「私でしょうか?」
私を呼び止めた女生徒は、育ちがよさそうな上品な笑みを浮かべた。歯を見せず、目元と口角をほんのりと曲げるだけ。微笑みという言葉通りの微かな笑顔。
もちろん上品さは立ち居振る舞いにも現れる。すらりと伸びた背筋に、私をまっすぐに見つめる瞳。自分の美しさに自信がないと、ここまでまっすぐ他人を見つめることはできない。
制服の胸元をちらりと見ると、紫色の校章が縫いつけられていた。高校二年生、先輩だ。
「ああ、よかった。気付いてくださいましたね」
師走の朝。傾いた日差しが斜めに差し込んで、先輩の黒髪をきらきらと輝かせている。丁寧に櫛が当てられてる証拠だ。頭髪には
その態度、その表情、その容姿。もし天使がこの世に舞い降りたなら、きっとこんな姿をしているのかもしれない。そんな風に思って、息をするのも忘れてしまうほど、先輩は煌びやかで華やかで、そして美しかった。
――悪魔は人を騙すため、天使の顔をしていると気付いていれば。
「そ、それで。ご用件は?」
危うくクールを忘れるところだった。だから多少無愛想めに、先輩相手でも怯まない、クールな纐纈幸来をアピールしなければ。
「いえ、あなたが大切なものを落とされたようですから」
「落とし物?」
手持ちのものを確認してみる。通学用の鞄に、ブレザーのポケットに忍ばせたティッシュとハンカチと、髪を結わえる替えのヘアゴム。たしかにわりと落とし物はする方だけれど、今日ばかりは心当たりがなかった。
「本当に私の持ち物でしょうか? 心当たりがないのですが」
尋ねると、彼女は「ええ」とニコニコ楽しそうに笑った。
――人好きのする笑顔の奥に潜む狂気を、いち早く察知していたら。
「間違いなく貴方のものです。私には分かりますよ」
違うと言っているのに先輩は自信たっぷりだ。その自信がどこから出てくるのかまるで分からない。
「一応お伺いしますが、その落とし物とはなんでしょう?」
――ここで聞いてしまったがばかりに、私は。
「こちらですよ」
先輩は手のひらを差し出した。
だけど、手には何も乗っていない。空っぽだ。いったい何を落としたというのだろう。狐に包まれた気分はこういうものなのかもしれない。それとも新手のナンパとか?
そんな疑いの目を向ける私に、先輩は言葉を続ける。
「よく目を凝らして、私の手のひらをご覧くださいませ」
「はあ? ですが手には何も……」
どれだけ目を凝らしたところでないものはない。それよりも、私の視線を釘付けにしたのは先輩の手そのものだった。
先輩の青白い手のひらはマメだらけだった。指の腹、親指の付け根の皮膚が硬く盛り上がっていて、ささくれだっている。おまけにひび割れとあかぎれで、見ているこっちが痛くなるほど。整った容姿を得られる代償として、手にだけ呪いを受けてしまったみたいで。
そちらにばかり意識が向いてしまって、私は思わず尋ねてしまった。
「痛くありません?」
だけど先輩は私の心配などよそに、興奮しきりに話しかけてくる。
「これですよ、これ!」
先輩の指がしなやかに動き、何かを摘まみ上げた。必死に目を凝らしていた私はようやく、落とし物の正体に気付いた。
「落としましたよ、髪の毛!」
角度のついた朝日が差し込んで、先輩の摘まみ上げた糸が光る。光を受けてオレンジに輝くもの――髪の毛だ。
「……はい?」
「ふふ、心配いりませんよ。名乗るほどのことはしていませんから!」
先輩は笑っていた。無邪気で純粋で、穢れを知らない聖女のような笑顔だった。
「なんで……?」
私の口から出たのはクールさの欠片もない間抜けな言葉だった。
いや、クールとかどうとか気にしている場合じゃない。だって、まず髪の毛は落とし物じゃない。仮に落ちたとしても拾って届けようと思う人間なんて普通は居ない。そもそも誰の髪の毛かなんて、目で見て分かるものではない。
え? ちょっと待って。
この人、頭おかしくない?
――今ごろ気づいても、もう遅い。
「ですから、この髪の毛は落とし物なのです。持ち主の元へ返してさしあげようと思いまして」
「……失礼します」
即、踵を返した。この人はヤバい。たった二言三言交わしただけで背筋が凍る。もしくは凍らせるほどの何かがある。逃げよう、逃げるしかない。
だけど、先輩は逃がしてくれない。
「お待ちになって!
すさまじい力でもって肩を掴まれた。このまま取って食われる!
「こんなに美しい髪の毛を落としたままでよいのですか? 正気ですか!?」
「いっ、いいです結構ですそんなもの要りません! 欲しいならあげますから私に構わないでください!」
一方的に告げると、背後の先輩は静かになった。その隙に手を振り解いて距離を取る。だけどその静けさがかえって不気味で、私はついつい振り返ってしまう。振り返らなきゃいいのに。
そしてようやく、私は先輩の本性を知ることになる。
「こんなに美しい髪の毛を戴いてもよろしいんですか!? 天然モノ、ヴァージンヘアの濃茶は本当に貴重で……! しかも光源によって髪色が変幻自在に変わるのです! これはおそらく髪の細さと、貴方のメラニン色素が特殊であるがゆえ!」
あれだけ天使のようだった顔に、それはもう形容しがたい表情が浮かんでいた。私が油断してクールから非クールになってしまうなんて目じゃない。顔面偏差値70は越えていそうな先輩の顔が、一気に3くらいまで落ちている。留年どころの騒ぎじゃない。完全にヤバい。
「私、高等部二年、二階堂
「間に合ってまーす!」
あまりの恐怖に声が裏返って、鳥肌どころか総毛立った。「お待ちになって!」と叫ぶ声を無視して、私は教室へ全力で逃げた。
もはやクールじゃいられない。それはもう必死だ。なんたって、変質者など居ないはずの学園内で、純度100パーセントの変質者に顔と髪の毛を覚えられてしまったのだから。
――これは私、纐纈幸来と恐るべき先輩――二階堂榛那の物語。
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