いずれ菖蒲か杜若

パラダイス農家

序章

馬鹿と天才、カミ一重

 三間続きの和室には、二階堂家の親類縁者が膝を並べています。ドレスコードは和装。男性は一つ紋付、女性は付下げ。五つ紋付や黒留袖のような格調高い正装でないのは、それが二階堂の流儀だから。

 『見目だけ取り繕っても美しくはなれない』。それが流儀ではありますが、粗相があってはなりません。普段は無精鬚を伸ばし放題の叔父さんも、学生生活をキャピキャピと謳歌している少年少女も、今日ばかりは身支度を調えて小綺麗にしています。

 本来であれば、今日はめでたいハレの日です。なのにどの表情も硬いのは、これが実に七十年ぶりに催される儀式だから。なんせほとんど初めてのことです、緊張するのも当然でしょう。

 皆が皆そんな調子ですから、床の間の正面――上座から見渡せる風景は、まるで――


馬欄ハラン万年青オモト葉組はぐみのようですね」


 隣に坐した一歳年上の従姉妹、二階堂家の直系であらせられる榛那姉様が、私に耳打ちなさいました。ちなみに馬欄と万年青はどちらも青々とした大きな葉が特徴の植物。特に馬欄は『生け花は馬欄に始まり馬欄に終わる』と言われるほど、代表的な花材です。

 おそらく、榛那姉様は上座から見える光景を生け花に喩えたのでしょう。仰った通り、和室を大きな水盤に見立ててみると、確かに皆さんの並びが馬欄を美しく並べたもの、すなわち葉組のように見えてきます。


「なるほど。倫子叔母様がしんで、辰也叔父様がそえですね?」

「ええ、そして祐輔さんがひかえ。長男の大地さんは……」

真隠しんかくしではいかがでしょう」

「ふふ。綾さんたら、お上手ですね」

「光栄です、榛那姉様」

「何が面白いのかサッパリなんだけど」

 榛那姉様と二人、声を殺して笑っていると、粗野な声が飛んできました。それは同い年の従姉妹、葵さんのもの。生け花に明るくない彼女のため、榛那姉様は解説を始めます。

「真、副、控は生け花の役枝。簡単に言えば、その花が持つ役割です。真はその名の通り、作品の真芯にあるもの。副は真を支えていて、控は真・副とは違う方向へ飛び出していくものです」

「ああ、そーゆーこと。確かに父さんは母さんの尻に敷かれてるし、祐輔兄さんはウチ継ぐ気なさそうだしね。で、大地兄さんの真隠は?」

 葵さんの家族を生け花の用語で喩えている。それを理解して質問を重ねた葵さんに、榛那姉様は微笑んで答えを耳打ちします。途端、葵さんが笑って、釣られて私も笑います。

 真隠の意味は、真と副をうまく隠して、綺麗に見せるためのもの。葵さんのお兄様は、気苦労の絶えないお方として有名なのです。いろいろと。


「落ち着きましたか、綾さん」

 榛那姉様はそう仰ると、居住まいを正しました。

 お召しになっている若草色の色留袖は春の装いに相応しく、美しい抜き襟からは、白い首筋が覗いています。しかも長い黒髪をまとめた王冠編み込みクラウンアップは、和のテイストを引き立てるために敢えてミスマッチを狙ったワンポイント。美意識の高い着こなしと佇まいは、中学三年生とは思えないほどに洗練されたもので。

「綾さん?」

 思わず見とれてしまった私に、榛那姉様は微笑みをくれました。

「ええ、榛那姉様のおかげで落ち着きました」

 私が胸をなで下ろすのも無理からぬことです。和室に張りつめた空気は欄間らんまの隙間すら埋めるほど。その場の誰もが緊張で息苦しい中、榛那姉様は私の緊張をほぐすため、敢えて軽妙に振る舞ってくれたのでしょう。

「にしても、『ワシの魂を震えさせよ』とはね。どうして急に弟子選びなんだろうね。あのクソジジイ」


 それは、昨年のこと。


『二階堂流すべての門下生に告げる。華を活けよ、美を露わにせよ。そしてワシの魂を震えさせよ。この一年の間に、ワシの目にかなう華あれば、それを次代の家元とする』


 ――立花りっか二階堂流。その七十四代家元である――葵さん曰くのクソジジイ――二階堂宗達は、齢九十を超える達人にして孤高の芸術家。「二階堂流は自分の代で幕を引く」と豪語していた家元が、突如方針を翻したのです。

 こうして全国津々浦々に散らばる二階堂流の者達が、数々の作品を創り上げました。ある人は伝統を守り、ある人は伝統を破り、またある人は伝統を離れて。美意識、センス、伝統の守破離。向き合い方は十人十色ですが、みんなそれぞれの考える『最高に美しい生け花』を家元に披露したのです。「どうか私を、次の家元にしてください」と――。


「……あいつ、あたしの作品見て『ラーメン屋の割り箸立てみたい』って鼻で笑ったんだよ? ひどくない?」

 不満そうな葵さんに、榛那姉様は仰ります。

葵さんの花籠アレンジメントは隙間なく敷き詰めるもの。ですが、生け花は隙間や空虚さも大切ですから。きっと家元には、ぎゅうぎゅうに詰まった割り箸のように映ったのでしょうね」

「アレンジメントがダメなら最初からそう言えっつーの。勝手に震えてりゃいいじゃん、クソジジイ」


 生け花ではなくフラワーアレンジメントが得意な葵さんの話は極端ではありますが、つまるところ。

 家元の目は九十歳を越えても、まったく曇っていませんでした。そもそも家元は名跡みょうせきを襲名して七十年、生涯現役のプロフェッショナル。年月に裏打ちされた審美眼が、作品の至らぬ部分を見逃すはずがありません。

 だからでしょう。二階堂家の者も外様とざまの華道家も、次期家元の座を辞退するばかり。そして今日が約束の期限。家元にまだ作品を披露していないのは、本家筋の二階堂榛那姉様と傍流の私――古橋綾だけでした。


「まさか、榛那姉様と同じ日に生け花をお出しすることになるなんて」

「そうですね。一年かけて準備する必要があったものですから」

「まあ。構想に一年も掛かっているのですか……」


 榛那姉様は、孫世代では頭ふたつ分は抜けた天才です。花材や花鋏はなばさみを扱う技術はもちろん、和洋折衷や新旧のバランス感覚、そしてなにより卓越した美的感覚。疎遠ゆえに会うのは一年に一度程度でしたが、毎年顔を合わせて花を活けるたびに、鳥肌が立ち、目を奪われ、心臓を締め上げられてしまうのです。


 榛那姉様の才能は憧れであり、恐怖。


 正直なところ、私は憂鬱な想いでいっぱいでした。家元に酷評されることよりも、榛那姉様の隣に作品を並べることの方が嫌だったのです。誰だって、追いかけている人との間にできた溝を、明らかにされたくはありませんから。


「ですから今回の作品は自信作です。意欲作とでも言いましょうか」

「……そうなのですね」


 珍しく鼻を鳴らして意気込んだ榛那姉様に、私は心ない相づちを打つことしかできませんでした。座布団の縁から視線を上げれば、緋毛氈もうせんで目隠しされた生け花が置かれています。数はふたつ。榛那姉様と私が、家元に見せるために用意したものです。


「もったいぶらずに教えてよ、榛那姉。何を活けたの? デルフィ? トルコギキョウ? それとも撫子なでしこ躑躅つつじ?」

「ふふ。自分で言うのもなんですがスゴいですよ? 見てのお楽しみです」


 自信に満ちた榛那姉様の言葉の直後、襖を開けて家元が入ってきました。

 途端、場の空気が変わります。喩えるならば、厳しい先生が教室に現れたときのような、薄氷の上で足踏みするハラハラした感覚。「馬蘭の葉組」に喩えられた人の輪は、不自然なほどに背筋をピンと伸ばしていました。

 衣擦れの音すらうるさく感じるほどの静けさが、広間を支配しています。


「では、綾から」

「はい。古橋綾、参ります」

 裏返りそうな声を抑えて、緋毛氈の目隠しを取り払います。

 用意した作品は、躑躅にトルコギキョウを配したもの。こだわった点は、薄桃から白にかけてのグラデーションと濃紫を、黄花のを置いて調和させたところですが――

「……分かった。次、榛那」

 家元の評価は褒めるでも貶すでもない、機械的なものでした。

 おそらく私のこだわり程度では、家元を震えさせることなどできないということでしょう。当然です。躑躅のグラデーション技法は、榛那姉様が教えてくださったもの。美の本質を掴んでいない借り物など、所詮は猿真似もいいところです。

 さめざめとした気持ちで座布団へ戻る私の隣を、榛那姉様が悠々と歩いていきます。そして目隠しをしている緋毛氈を掴み、家元へ向けて勝ち誇ったような微笑みを見せました。


「家元。魂を震わせる、新時代の生け花をご覧くださいませ」

 榛那姉様の宣言に、和室に集った皆さんはもちろん、生け花には興味のない葵さんや、先ほど無言の酷評を受けた私も。そればかりか、あの家元の目の色まで変わっていました。

 その場の誰もが若き天才、二階堂榛那の作品を見ようと身を乗り出しました。

 さあ。いよいよ、御開帳です。

 緋毛氈が取り払われ、恐ろしい才能がこの世に産声を上げました。

 上がったのは産声ばかりではありませんでしたが。


「ぎいやああああああああああああ!?」

 甲高い金切り声を上げて、葵さんのお母さん――倫子叔母様が卒倒しました。倫子叔母様ほどではありませんが、腕に覚えのある師範代クラスの人々も強烈な動揺を口にしています。おまけに


「なんぞこれええええ!?」


 ……今の言葉は家元のものです。

 あまりに動揺しまくって、威厳たっぷりな口調キャラが失われて素が出ています。華道一直線・頑固一徹な職人と思われがちな家元ですが、その本性は、クラブでDJしたり、SNSに踊ってみた動画を投稿するような落ち着きのない好々爺クソジジイなのです。

 家元が好々爺に戻って震えてしまうほどの生け花は、まさに新時代のもの。立花二階堂流の――ひいては華道の歴史を紐解いても存在しえない、新たな世界観に違いありません。


 榛那姉様は、家元の魂を震わせるほどの才能を手にしたのでしょうか。

 いいえ、それはまったく違います。


「ふふ。魂が震えたようですね! いかがでしたでしょうか、椿と山茶花さざんか、そしてを組み合わせた、まったく新しい生け花は!」


 榛那姉様が自信満々で仰った内容が、私には分かりませんでした。耳に入ってはきたものの、うまく咀嚼できなかったのです。

 ただ、冷静になって作品をよくよく眺めて――みた途端、鳥肌が立ちました。いえ、身の毛がよだつと表現した方が適切かもしれません。

「は、榛那姉様……」


 榛那姉様の生け花は、ただただ異様でした。

 椿、山茶花という晩冬から初春にかけて咲く真っ赤な花を用い、季節感を演出するところまでは理解できます。細い枝振りに大きな花、メリハリの利いたバランス感覚もさすがの一言です。

 ですが問題は、その椿や山茶花に垂れている、黒い無数の糸、糸、糸。おおよそ生け花では見たことのない黒糸は、川の流れのようにさらさら、ごうごう、ときおり渦巻いて、黒々と輝いています。

「……ねえ綾、アレってさ」

「ええ、信じがたいことですが……」


 榛那姉様は、ご自身のを、生け花にしてみせたのです!


「ちょー待って、はるるん! なんぞこれ!?」

 家元が素っ頓狂な声を上げました。気持ちは分かります。ちなみに『はるるん』は、家元が榛那姉様を呼ぶ時のあだ名です。ついでに言うと葵さんは『あおあお』、私は『あややや』。

「私なりに美を解釈してみました!」

「いや怖ッ! ホラーやん! よう見て!? ホラー映画でよく見るやつやん!?」

 髪の毛は花から器に、そして器をはみ出て畳の上に落ちています。水を吸って束になった髪の毛が無造作に垂れている光景は、見る人が見ればホラー映画のそれでしょう。

「怖い? つまり魂が震えたということですか?」

「そゆこと違う! なんで髪? これ華道! 生け花! なんで髪!?」

 私は、先ほどのお言葉を思い出していました。この作品は「榛那姉様が一年かけて準備した」もの。準備したものが何かまでは教えていただけませんでしたが、今となってみれば一目瞭然です。

「なぜって。いつも仰っていたではないですか。は細部に宿ると」

だから! ヘアーじゃなくてゴッドだから! どこに何宿してんの!?」

「一番のこだわりは、作品のために一年かけて黒髪を育てたことですね。シャンプーのみならずコンディショナーやヘアオイルも取り寄せて、黒々として艶やかで、絹糸のような髪を目指したのです。そうそう、ブローの時はマイナスイオンが出るドライヤーがオススメで――」

「んなこと聞いとらん! 何やっとんの!?」

「生け花ですけど?」

「サロンやん! カリスマ美容師の所行やん!?」

「美容師の勉強をすれば生け花に活かせるということですね! さすがは家元、盲点でした!」

「どういう!? いやそれどういう――あばばばばば」

「い、家元が倒れたぞーっ!」

「救急車呼んで!」

 ツッコミが追いつかず過呼吸になって、家元は口から泡を吹いて卒倒しました。そこから事態は大混乱。「祟りじゃ、祟りじゃ!」と譫言うわごとを繰り返す家元の許に救急隊が辿り着いたはいいものの、おぞましい出来映えのを見てしまった救急隊員が絶叫して。その絶叫で倫子叔母様が今度こそ気絶して、さらには葵さんが作品を見てゲロを吐いて。ミイラ取りがミイラになり、ゾンビがゾンビを生む、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 ですが。

 騒然とする浮き世のことなどまるで無視して、榛那姉様はご自身の作品をうっとりした目で見つめていました。

「ああ、髪の毛とは、なんと美しいものなのでしょう。絹糸のような手触りに、金銀砂子もかくやの艶めき。やはりは細部に宿るものなのですね……! 髪だけに!」


 数日後、榛那姉様は二階堂流をつつがなく破門されました。

 榛那姉様がどこで何をなさっているのか、私には分かりません。ですが榛那姉様はお強い女性です。きっとどのような環境でも、ご自身の世界観で運命を切り拓くことでしょう。それより先に、絹や真綿を引き裂くような狂乱の坩堝をこの世に創造してしまうかもしれませんね。

 まあ、それは当家には関係のないことです。私が榛那姉様に求めるのは、今後は二階堂流の看板に泥を塗ることのないよう、生け花から離れて青春を謳歌していただくこと。ええ。それだけで結構です。

 二階堂流の今後はこの私――立花二階堂流七十五代家元、古橋改めにお任せくださいませ。


 さようなら、榛那お姉様。

 あなたの才能は、忘れたくとも忘れられません。

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