第6話 最果ての市場 下


しばらく市場を眺めて立ち尽くしていた二人に、ようやく道行くドワーフの一人が気付き、驚きの声を上げた。

それは瞬く間に他のドワーフにも伝播し、街は大騒ぎになった。

「とうとうその時が来たんだ!」

「神の使いだ!」

「誰か、町長を呼んで来い!」

歓声や叫びが入り乱れ、騒然とする市場。

どこからか人が集まってきて、洞窟の穴を背にした二人を取り囲むように壁を成す。

二人は面を食らってただその様を見ていたが、突如として中心から二つに割れ、中から一人のドワーフが姿を現した。

白い顎髭をこんもり蓄え、胴に分厚い鎧を付けた威厳ある老ドワーフ。

彼はゆっくりと人垣の間にできた道を行き、二人の目と鼻の先まで来て止まる。

「ようこそ、メルカートへ。ワシの名はカルロス。この街の長でございます」

低く、腹に響く声で続ける。

「みなが驚かせてしまったかも知れませんが、許してやってください。

彼らも悪気があったわけではないのです。我々はあなた達を心から歓迎します」

「……ありがとうございます」

「ひとまず、この騒乱を収めるためにも、私と共に来てはいただけまいか。

いろいろと話すべきこともありますので。願いのことなど」

「わかりました。お願いします」

二人の同意を取り付けたカルロスは、頷いて踵を返す。

「こちらです」

それから簡潔に一言添え、人垣の合間へと歩き出す。

アリッサ達もその後に続いた。


三人は大通りをずっと道なりに行った。

進むにつれてだんだんと風がじめついて、潮の香りがし始めた。

近くに海があるのかも知れないと、二人は思った。

そして最後には道の果てに着いて、ようやくカルロスは止まった。

そこは白い大きな神殿のような建物の中だった。

太い何本もの円柱で支えられた内部の全てまでが白一色。

入るなり二人は涼しさを覚えた。

それは荘厳な空気感によるものか、単に室温が低いだけか。

祭壇はないがその代わり、中心に台座がある。

道はそこまで続いて途切れている。

カルロスはその前で反転し、こちらを向く。

「あなた達も知っての通り、メルカートでは願いが一つだけ叶えられる。

その力を秘めているのが、こちらです」

彼が背にしていた台座の前から右に一歩ずれ、上に載っているものが露になる。

それは横長の一枚の石板だった。

表面には読めない文字でいろいろと彫り込まれている。

「ここに人間が手をかざし、強く願いをかけることで、それは成就されます」

カルロスは淡々と続ける。

「しかしそれは、物事の一側面でしかないのです」

一定の間を取りながらの、あくまで平静な語り口。

だがそこから紡がれる言葉は、おそらく違う。

その予感を、アリッサは敏感に察知した。

「この石板の真の目的は、契約の締結」

「契約?」

口を開くのはジロー。

「はい、契約です。三千年ほど前、我々幻獣と神とが秘密裏に交わした」

「それが結ばれると、どうなるってんだ?」

急かすような言葉を受けて、カルロスはゆっくりと一度瞬きをし、それから口を開く。

「人間界への道が、閉ざされます。……永遠に」

空虚な言葉が、神殿の空洞に反響する。

そしてアリッサは、シリュウの言葉の意味を理解した。

『試練はある。メルカートの中に』


今二人は、それぞれベッドの上に横たわる。

話が終わった後、ゆっくり時間をかけて決断してもらって構わないとカルロスが言い、この家に二人を通した。

神殿からほど近い、レンガ造りの一戸建て。

寝室はその二階だ。

二人はベッド脇の間接照明だけを付けた暗い部屋の中で、喋ることもなく佇む。

すると何一つ音がしない。

市場の喧騒もここまではこないのか、それとも旅人の到来によりみなそれどころではないのか。

しかし、頭の中まではそうではない。

二人の脳内ではぐるぐると、カルロスに言われたことが繰り返されていた。


「この道は、人間により滅ぼされかけた種族達の願いが作り出した世界なのです」

あの後、絶句する二人に対しカルロスはそう続けた。

「三千年前の事です。それまで平凡な種族だった人類が、突如として魔力を自在に操るようになり、力を付け始めました。

それに伴い多くの種が淘汰され、絶滅へと追いやられていった」

明かされていく驚くべき事実の数々。

二人はあまりの衝撃に打ちのめされながらも、なんとかそれに付いて行った。

「もっとも、そのことで人間の非を責める気はありませぬ。

弱肉強食。その原理に従ったまでのことですので。

――ただその時、我々幻獣の先祖は願ってしまった。滅びたくはないと」

「それを聞いたある神が、こう言いました。

『お前達の願いだけを叶えることはできない。しかし、その代償に人間の願いを叶えることでなら、できる』と」

「それが先程言った契約です。交換条件、と言ってもいいでしょう」

「我々はその神の名において、人間とは別の世界で暮らしたい、と願いました。

そして神は自身の膨大な魔力を使い、我々の願いだけを先に叶えることで、一時的な救済措置を取ったのです」

「その神の名こそポラリス様。彼女はこの無茶な契約のために、神界からの追放さえも受けました。シリュウ殿もこの世界の維持のために自身の魔力を割いています」

「しかし彼らの力をもってしても、やはり不完全な契約では無理や矛盾が生じてくるもの。その不安定さこそがこの道の幻想や謎を生んでいるのです」

「結局のところ、メルカートで叶えられる願いとは人間側の代表としてのものであり、それをもって契約は成立するということなのです」

「ですがご安心ください。もしあなたが願いをかけても、人間界に戻れるだけの猶予はありますので、こちらに取り残されることはありませぬ」

「契約を留保していられる期限は全部で五千年。すでに三千年経っておりますので、あと二千年。それまでに人間側からの願いが取り付けられなければ、この世界は強制的に人間界へと返されます」

「もちろん、酷な事を迫っているというのはわかっています。

願いをかけることを強制は致しませぬ。

どれだけ時間をかけてもらってもよいですし、断ってもらっても構いませぬ。

全てあなた方の自由にしてください」

それが、老夫の語ったことの全てだった。


アリッサは目を瞑り、考える。

――選択肢は、二つに一つ。

願いを使うか、使わないか。

使えば両親と再会できると同時に、幻獣達を人間の魔の手から救える。

その代わり、新しく手に入れた家族や友人との絆と、この美しい道を永遠に失う。

使わなければ今まで通り人間界とマジカルロードを出入りできて、家族や友人を失わずに済む。もしかしたらゆっくり探せば両親に会えるチャンスもあるかもしれない。

だが、この道の未来はわからない。この道に人が入るのは二、三百年ぶりと聞いた。

単純計算でチャンスはあと十回。その中から、ここまで辿り着ける人間が現れるか。

それだけではない。もし現れたとしても、自分が決断できなかったことを人に押し付けることになる。それはあまりにも身勝手じゃないだろうか……。

アリッサの苦悩は続く。

――きっと願いを使うのは、この世界にとって正しい選択だ。

多くの人を救って、私とジローと、その周りの人達だけが辛い思いをする。

多数決的に考えれば、間違いなくこっちだ。

この道の将来の住人達。きっと今の住人と同じように優しい心を持つだろう彼らが、人間達に追われるなどとは考えたくもない。

逆に願いを使わないのは、どこまでも私にとって合理的な選択だ。

面倒や困難という辛い事から目を背け、誰かに押し付けて、ただ自分の快楽だけを追求できる。

ありのままでいられるこの世界で、自分を認めてくれる人達を大切にして過ごす。

それに、私よりも決断するにふさわしい人間が現れないとも限らない。

むしろ可能性は十分にある。なんせ私だってここまで来れたのだから。

――世界の将来を選ぶか、私の今を選ぶか。

どちらかなんて、心の底から決めたくない。

でも今、決めなくちゃならない。

だって結論を先延ばしにし続けたら、その時間の分だけますますこの世界に愛着が湧いてしまう。

そうしたら私は確実に、願いを使いたくなくなってしまうだろうから。

それはフェアじゃない。

同じ“使わない”という結果にしたって、時間切れみたいな卑怯なマネはできない。

どちらかに決めることからだけは、逃げたくない。

――だけどやっぱり、決められない。

どんなに決断しなきゃいけないと頭でわかっていても、決めることができない。

どっちを選んだ未来を想像しても、切り捨てられるものがある。

その失った物を思い起こすだろう時の、未来の自分の心の痛みを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。

どちらの痛みが少ないかなんて、比べられない。

ただわかるのは、どちらを選んでも痛みがない、ということはありえないという事実だけ……。

もう目を瞑っているのも嫌になって重い瞼を開けるアリッサ。

その視界に薄橙色に染まった天井が映る。

寝返りを打ち、目を閉じたジローの横顔を見つめる。

そして何度も投げかけようとした問いを、またも飲み込む。

――ジローはどうするの?

私が願いを使ったら、どこに行くの?

たったそれだけの言葉が、重すぎて口から出せない。

そうしたらジローはきっと困り顔になって、だけどそれから私に一番都合のいい、私の望んでいる答えを返してしまうだろうから。

彼はそのくらい私のことをわかっているし、度し難いほどに、優しすぎる。

自分の気持ちを二の次にしてしまうくらいに。

だから彼に聞くことはできないし、この重荷を彼に背負わせることもできない。

「……ごめん、ちょっと外出るね」

「……おう」

彼女は自身が抱える閉塞感は、閉ざされた暗い部屋のせいでもあると考え家を出た。


箒を片手に、あてもなく夜道を彷徨うアリッサ。

大通りを避けて、建物の合間を縫うように。

すると街は思ったより起伏に富んでいた。

タイルが敷き詰められた細い道はうねり、階段や段差もある。

全ての建物はレンガでできているが、その用途は同じではない。

家もあれば、工房もある。二つが組み合わさったものも。

ふと彼女は、空いた右手を懐に突っ込む。

そして、幾度となく彼女を導いてきた金時計を手に取る。

もちろん、それに答えを尋ねる気など毛頭ない。

彼女はそこまで無責任ではなかったし、こんな覇気のない状態で使っても効果があるとも思えなかった。

それでもやはり、願懸けのつもりで手に持ちたくなってしまうものなのだった。


俯いて、タイルを眺めながら歩く彼女。

ここまで誰ともすれ違ったり、見かけたりしなかった。

それはきっと、みな人間が来ることの意味を知っているからなのだろう。

それは彼女にとって好都合だった。

誰とも会いたくなかったし、ましてやもてはやされたりなどしたら、あらぬことを口走ってしまいそうだと感じていたから。

そこへ、一人のドワーフが向こうから歩いてきてしまう。

気付いたアリッサは、顔を背けて道の左端に寄った。

どんどんと二人の距離が近づく。

もうドワーフの方も確実にアリッサに気付いているだろう。

そのまま何事もなくすれ違おうかという時、ふとドワーフが足を止めた。

顔を背けていてもそれが分かったアリッサは、心で舌打ちを鳴らしてから歩みを速め、ドワーフを置き去りにしにかかった。

しかし、そうはいかなかった。

ドワーフはすれ違いざまに彼女の肩をギュッと掴んで言う。

「そっ、その金時計は、もしかして……!」

よく通る声、その高さからして女性だろう。

肩に手を置かれた瞬間、アリッサの心はささくれ立ち、すぐさま払いのけてしまおうと思ったが、発された言葉の内容を聞いてすぐさま思い直した。

振り返り顔を上げ、相手の顔をよく見る。

軽やかな声がよく似合う、端正な容姿を誇るお姉さんといった出で立ちだ。

「もしかして、父に会ったんですか……?」

小綺麗な顔の全体を使って驚きを表すそのドワーフ。

どこをどう切り取っても似つかない。

しかし、この反応からして間違いなく……。

「――父、って言うのは……ボルヘさんのことですか?」

そう尋ねた瞬間、ドワーフの目や口が一層開かれ、驚きが喜びに変化する。

「はい!そうです!私はボルヘの一人娘、アデラです!」

アデラは両手でもって金時計を握る右手を包み込む。

そしてアリッサの顔をまじまじと覗き込んでくる。

「ああ、まだ父は生きていたんですね!どうでしたか、元気に過ごしていましたか?いつ、どこで会ったんですか?」

興奮冷めやらぬといった様子で、質問攻めするアデラ。

それにたじろぎながらも、なんとか答える。

「ええっと、はい。元気そう、だったと思います。

マジカルロードの始めの方で迷ったときに、何かの拍子で人間界に戻って……。

その時にこれをもらって、助けてもらったんです」

「そうだったんですか。それはよかったです。もう父がいなくなって二百年以上。

私も母もずっと心配していたんですよ」

ホッとしたからか、ようやくアリッサの手を放し少しだけ距離を置いたアデラ。

二百年以上という言葉が引っ掛かり、アリッサはまた彼女を上から下まで見る。

全くもって若々しい。人間ならば三十の手前くらいだろうか。

二百歳を超えているとは、どうにもアリッサには信じられなかった。

急に熱い視線を受けて、少し不思議に思ったアデラだったが、すぐその訳に思い当たり口を開く。

「私達ドワーフの寿命は大体五百から六百年くらいで、長いと八百年くらい生きるそうですよ。なんで私はまだまだ若い方ですよ」

「あっ、そうなんですね……」

なんだか下世話な考えをしていたのを見抜かれて気恥ずかしくなり、目を逸らす。

「うふふ。なんだかこの道の未来を決める方が良い人そうで、安心しました」

優しい表情で、そう言うアデラ。

それを聞いてアリッサは悩んでいたこと思い出し、暗い気持ちになった。

だがそれも長くは続かない。

「……やっぱりお父さんの判断は、正しかったんだ」

またしても、彼女が気になる一言を残したから。

夜空を見上げるその姿を見つめながら、アリッサが言う。

「……一つ、聞いてもいいですか?」

「ええ。どうぞ」

「ボルヘさんって、どうして人間界に行っちゃったんでしょうか」

それはアリッサにしてはかなり踏み込んだ質問で、口に出すとき躊躇いも感じた。

ただ、この平和な世界から飛び出す理由を知りたいという感情の方が上回り、聞かずにはいられなかったのだ。

「……かつて、父はこの街の長でした」

月を見たまま、彼女が語る。

「父は幼いころから誰よりこの道の未来を考えていたので、シリュウさんがふさわしいと推薦したそうです。それにみんなも頷いてくれて、長になったのが三百年前」

「それから百年後、メルカートに二人の人間が辿り着きました。私がまだ五十歳にもなっていない頃のことです」

「実を言うとメルカートまで辿り着いた人間は、これが初めてだったそうで、住民達はみな大喜びしました。とうとう契約が成立するんだって。それで父とシリュウさんも早速彼らに会いに行きました。だけど……」

「だけど?」

「その人間達の願いは、おぞましいほど邪悪なものだったのです」

そこで、アデラがアリッサに視線を移す。

その顔にもう優しさはなく、真剣そのものだ。

「彼らは外面や体裁はよくてみなからも好かれていましたが、心の奥底には暗い感情を抱えていた。それをシリュウさんが見抜き、父に伝えたのです。

これを受けて父は住民を集め、話し合いました」

彼女の語りが着々と熱を帯び始めて、アリッサは引き込まれる。

「実のところその人間達の願いを叶えても、私達に影響はなかったんです。

彼らが悪意を持っていたのはあくまで人間界に対してだけ。だから、大半の住民達は叶えてもいいんじゃないかと言ったんです。私達を滅ぼそうとした自業自得だって」

そこでもうアリッサには直感的にその後がおおよそ把握できてしまった。

「しかし、父だけは違いました。父はみなにこう言ったんです。

『私は人間を知らない。それに不器用な男でもあるから、知っていることに当てはめることでしか、考えることができない。

つまり、私達と同じように人間にも善い者と悪い者がいるのではないだろうか。

確かに人間は私達を滅ぼそうとした。しかし、今を生きる人間達にその罪は無い。

だから、私達の勝手で巻き込むことは認められない』って」

それはやっぱりアリッサの予想の範疇だった。

しかし、だからといってその威力が弱まるということもなく、彼女の心は強く、強く揺さぶられた。

「結果的に父は住民の全員を説得して、シリュウさんに頼み、二人を人間界へと送り返しました。

ただ父はそれを境に悩み始めました。自分のエゴで誤った選択をしてしまったんじゃないかって」

「遂には町長をやめ、人間界に行くと言い出したんです。

自分が決めたことには責任を持つって言い張って、誰の言うことも聞かずに、またシリュウさんの手を借りて」

アデラが語り終えてからも、アリッサは何も言えない。

ボルヘの覚悟や思いが胸に染みて、口を開けば溢れだしそうだったから。

「……父はきっと、信じたかったんですよ。人間と、それから自分達を」

だから代わりに、アデラの方がまた語り出す。

「私、たまに思うんです。父が人間を思いやったような心が、人間の方にはないんだろうかって……」

「一度すれ違っちゃったら、もうやり直せないんですかね?

種族が違ったら、わかり合えないんですかね?」

アリッサの心に、ふとミランダのくれた愛が蘇る。

すれ違ったジローとミランダはやり直せた。

人間の私にも、ジャッカロープの家族ができた。

それってつまり、これから私が下す決断において、どんな意味を持つんだろう――?

芽生えた疑問の中に沈み込んでいこうとする彼女の思考を、あっ、という声が遮る。

「ごめんなさい、私、身勝手なこと言いましたよね。

聞き流してください。人間界を知りもしないドワーフの妄言ですから」

「いえ、そんなことは」

「でも、よかったです。あなたに会えて。父のことを聞けたし、それに――

父は間違ってなかったんだって、わかりましたから」

自信を持って、そう言い切る彼女。

「私はあなたがどんな決断をしようが、支持しますから。

――って、私なんかに言われても、意味ないですよね。

それじゃ失礼します。おやすみなさい」

そうしてアデラは足早に去っていった。

取り残されたアリッサは、また街を徘徊することにした。

さっきまでよりも、少しだけ顔を上げながら。


しばらくして、アリッサは寝床の近くまで帰ってきた。

それは部屋に戻りたくなったというよりは、潮風に誘われた意味合いが強かった。

まだ何も決められていないからだ。

彼女は部屋に戻るときは、大体の方針が固まってからにしたいと考えていた。

アデラとの会話を受けてアリッサは、自分の心に新しい何かが芽吹くのを感じた。

正確に言えば、見落としていた何か、かもしれない。

どちらにせよ、その芽はまだ弱い。

微かで、おぼろげで、手を伸ばせば消えてしまいそうな考え。

だから彼女はその正体がなんなのか、確かめる勇気が湧かずにいたのだ。

ジローの待つ家を通り過ぎ、神殿のさらに奥へと向かう。

そこは深い林が広がっていた。その間をかき分けてなおも進む。

やっとのことで視界が開けた時、やはりそこは海だった。

穏やかな波とその音が、アリッサのざわつきを抑える。

ずっと遠く、水平線の彼方で、空と海が同じ色をして溶け合う。

目を凝らしても境がわからない。

見分け方は星があるかどうかだけ。

アリッサは遮るもののない月光を一身に浴びて、前へと踏み出す。

パウダー状のさらついた砂の感触が、靴越しにも伝わってくる。

砂浜自体は狭い。

幅十五メートルくらいだろうか。

両脇には岩がそびえ、行く手を阻んでいる。

シリュウはメルカートを壁で囲ったと言っていたが、ここは海だから大丈夫と判断したのか、この景勝を残したかったのか。

アリッサが波打ち際に着いた。

靴を脱ぎ、寄せては返す波のはざまに立つ。

湿った砂に足を沈み込ませながら、冷たい水が行き来するのを味わう。

波の音、風、香り、星、月……。

大自然に没頭する中で彼女は、身体が清められていく気がした。

彼女が海を見るのは久々だった。

五、六年前に学校行事で訪れて以来。

当時の彼女も同じように一人で、穏やかな波に足を浸けていた。

それは毛嫌いしていた学園生活においての、数少ない、いい思い出の一つ。

実はその頃からすでに、海が好きだったのかもしれないと彼女は思った。

それからアリッサは海水をすくってみたり、浅瀬を少し歩いてみたりして過ごした。

そこへふと、声がかけられた。

「アリッサ、久しぶりね」

その甘い声の持ち主が誰か、すぐに見当がついた。

振り向いてみて、やはりそれは間違いではなかった。

「ポラリスさん……」

ドワーフの作る陶磁より滑らかな白い肌。

絹のように柔らかで、一切のクセなく伸びるプラチナブロンドの髪。

全くもって左右対称な、整然たる顔つき。

それは綺麗や可愛いという言葉では表し難い、幾何学的な美を誇っている。

その下の細長い、それでいて女性的なシルエットをゆるりと覆うのは、濃紺かつ薄手のワンピース。

溶け合う空と海の境界と全く同じ色をしているその衣は、彼女の美しさを隠すどころかむしろ引き立てる。

そして何より、彼女の周りをかたどる妖しげな輝き。

オーラとも呼ぶべき妖光を溢れ返らせる姿は、まるでそれ自体が星空のように思われ、アリッサは前と同じように目を奪われる。

「この場所、私も好きなのよ」

ポラリスは包み込むような微笑とともに口を開く。

「だから私がお願いして、ここだけは残してもらったの」

彼女は一歩一歩、アリッサのいる波打ち際まで歩み寄る。

「ここまでの旅は、どうだった?」

「……すごく、楽しかったです。辛い事もあったけど、それも含めて」

「それはよかった」

波打ち際から二歩離れたところで彼女は止まり、アリッサと正対する。

「大切なものは、見つかった?」

「はい。この道を行く理由を見つけて、願いもなんとか見つけられて、大切な、守りたい存在までできました。でも……」

俯きながら、なんとか続けるアリッサ。

「結局私は、そうして手に入れた大切なもの達を、秤に掛けなきゃいけないのかもしれないです……」

暗く押し殺すような声が、夜の底に消える。

思わず天を仰ぐポラリス。

アリッサが背負うものの重さに、思いを巡らせながら。

――ポラリスさんは、私にどうしてほしいんですか?

思わずそう聞こうとしたのを飲み込み、別の質問をぶつけるアリッサ。

「ポラリスさんは、どうして彼らを守ろうと思ったんですか?」

三千年前、自らの地位を捨ててでも幻獣達を守ろうとしたその理由を、純粋に知りたいと思って。

「うーん……。なんとなくかなぁ……?」

ポラリスはしばらく悩んでから、間の抜けた答えを返した。

「なんとなく、ですか……」

「うん。最終的には、ただそうしたかったから。

あと、私ってエルフでもあるでしょう?エルフはもう滅んでしまって、私以外にはいないの。今思うと、それも関係あったのかもしれないけれどね」

「…………」

ポラリスは強い。アリッサはそう考える。

比べて自分は弱い、とも。

「でもね、アリッサ」

そんな暗い表情を見かねてか、ポラリスが言葉を紡ぐ。

「私、全く後悔してないの」

より強く、言い聞かせるような言葉を。

「私は自分の意思でこの世界を隔離して、その結果追放されたわけだけれど、神界にいられるかどうかを決めたのは私じゃない。私にはどうしようないことだった。

――あなたがこれからしようとしている決断は、どちらなのかしらね?

全てを自分の意思でコントロールできる?それとも、誰かによって制限されてる?」

「私、は……」

深く、自分の思考に潜り込んでみるアリッサ。

――正直、自分の意思で選んでいるという感覚は薄い。

できればどちらも選びたくない。大切なものを切り捨てたくはないけれど、責任を放棄してしまうのもまた違う。

でも、確実にどちらかを選ばなければいけない。

そんな今の状況を鑑みるに――。

「願いを使うか使わないかはもちろん、私次第なんですけど、でもそれが自由な選択かと言われると……」

アリッサの曖昧な返事をゆっくり咀嚼してから、またポラリスが問いかける。

「じゃあ、この道のことはどう思ってる?

ここまで来られたのは、全部あなたの力によるもの?それとも、誰かの意思?」

アリッサにはポラリスの意図はわからない。

けれど、自分なりに考えて、なんとか言葉を捻りだす。

「……私はここまで、いろんなものに導かれるようにやって来ました。

ポラリスさんや、この金時計に。そんな中でも、メルカートに着く直前までは自信を持ててたんです。いろいろなことを乗り越えて、勝ち取ってきたって……。

だけど、結局は違った。この道はずっと誰か人間が来るのを待ってた。

たまたまそれが、私だったってだけで……」

どんどんと弱く、消え入りそうになるアリッサの語気。

ポラリスはふぅ、と一つため息を吐いてから、一転してはきはきと喋る。

「この世界にはね、実は道なんて無いのよ」

「えっ……?」

それは、彼女を驚かせるには十分だった。

「と言うと少し語弊があるけど、事実なのよ。

この世界には確定された一つの道なんてものはない。

あるのはただ、無数に潜在する、道になれる可能性を持つ点だけ」

「可能性……?」

「その点のどこを結んでいくかは、全て通る者次第。

――つまり、あなたはここまでの全てを、あなた自身の手で掴み取ってきたのよ。

あらゆる可能性があった中から」

「私、が……?」

「そうよ。確かにあなたは多くの者達の支えを受けてきた。

けれど初めの一歩を踏み出したのはあなただし、実際に走ってきたのもあなた。

誰の命令でもなく、あなた自身の意思で」

アリッサは未だに、ポラリスの言うことを信じきれない。

しかしその体が、にわかに熱を帯び始めてきた。

「私が言いたいのは、そういうこと。

今、あなたの前に開かれてる道は、決して二つだけじゃない。

……このマジカルロードと、同じようにね」

その熱が心にまで広がって、さっき芽生えかけた感情を、今一度呼び覚ます。

あの時よりもずっと、ずっと鮮明に。

「……それじゃあ、私はもう行くわ。

あなたの往く道の先に、幸の多からんことを――」

そう言ってポラリスは林の向こうに消えた。

その後もしばらくの間、アリッサは海を前に佇んでいた。


「ただいま」

そう言ってアリッサが寝室に入るや否や、ベッドの上に正座するジローの姿が目に入って驚く。

「どっ、どうしたのジロー?」

「アリッサ、俺は決めたよ。俺は……」

はっきりしたその口調に、アリッサは唾を一つ飲んで待つ。

そしてジローが言ったのは……

「俺は、お前が決めるまで、決めたことをお前に言わないことに決めた!」

思ったより大事なことではなかった。

「それってつまり…………どういうこと?」

とんだ肩透かしを食らったアリッサは聞き返す。

「つまりだな、お前はきっと俺の決断を聞いたら、俺が気を使ってるんじゃないかと勘繰るだろ?」

「うん」

「そしたらお前はそれに気を取られて自分の決断をしにくいんじゃないか?

と思って言わないことに決めた」

「…………」

アリッサには大体言いたいことは伝わった。

そのありがたさも。

だが、彼がそのことで必死に悩んでいたのかと思うとなんだか可愛いやらおかしいやらで、笑いを抑えるので精いっぱいだった。

口元を抑える彼女を見て、ジローが憤る。

「なっ、何笑ってんだよ!俺は真剣にお前の事を思って悩んでたんだぞ!?」

「ごめん、でもなんだからしくないなって……ふふっ」

「らしくないって、お前なぁ……!はぁ、もういい。なんかバカらしくなってきた」

そう言ってジローはドスンと音を立て、仰向けにベッドに倒れた。

「そんだけ俺をからかえるんなら安心だ。……なんか外であったのか?」

「あったよ。ボルヘさんの娘さんに会って、それからポラリスさんにも会った」

「おい、マジかよ!」

ベッドのバネを利用して起き上がりながら驚くジローを見て、忙しないなとアリッサは思う。

「それが、マジだよ。二人といろいろ話してみて、見えてくるものもあったんだけど、その分こんがらがりもして……結局まだこっちは決まってない」

「そうか……」

少しだけ沈黙が横たわってから、アリッサが口を開く。

「ねぇ、これは娘さんに言われたことなんだけどさ、人間と幻獣は、分かり合えないのかな?一度すれ違ったら、やり直せないのかな?ジローはどう思う?」

彼女はその問いがどうしても忘れられず、ジローに聞いてみたくなった。

彼は他ならぬ人間界で生きてきた幻獣だし、一度すれ違ってからやり直せた経験もあるから。

「……正直、簡単ではないだろうな」

「……だよね」

「向こうの世界で幻獣がやってくのは、生半可なことじゃないぜ。

ウサギに角が生えた程度の俺ですら危ない橋をいくつも渡ってきた。

それが亜人達ともなれば、相当な騒ぎになっちまうだろうな。

むやみに怖がったり、毛嫌いしたり。容易に想像できるぜ」

「…………」

「お前はどう思う?俺は都会で人間達の暮らしを盗み見てきたが、直接関わったことはない。人間の間で暮らしてきたお前の方が、その辺よくわかるんじゃないか?」

言われてアリッサは思い返してみる。

自分の暮らしていた国や社会の事なんかを。

「……確かに私達人間は、同じ人間同士でも統率が取れてなかった。三千年前に比べたらそりゃあ文明も進歩して、その頃より野蛮ではなくなったかもしれない。

表立った戦争も起きてないし。

だけど、醜い権力争いやは絶えないし、三千年前よりずっと強い力も手に入れてる」

そう話しながら彼女は、かつて自らの周囲にいた人の事を考えていた。

引き取られた孤児院で一緒だった子達。

それを管理する大人達。

魔法学校の生徒と教師。

それから――まだ見ぬ両親。

誰との記憶を切り出してきても、いい思い出は一つもない。

そんな人間達を、そんな世界を、私は肯定できるんだろうか?

「だから私も、難しいかな、とは思う。思うんだけど……」

それからアリッサは、この道で会った人達を思い出す。

ジロー、ポラリス、ボルヘ、モンク、ツァイ、ミランダと家族達、シリュウ、アデラ、それ以外にもたくさんの者達。

その誰との記憶を取り出してみても、美しく輝いている。

良い事も、悪い事も含めて。

そんな思い出達を抱いて、私は一人、元の世界で生きる。

なんていうと聞こえはいいけれど、本来の私の望みとはかけ離れてる。

「この道に住むみんなは、本当は滅ぶべきだった種族の集まりなのかもしれない。

ポラリスさんがしたことは、神様としては間違ったことだったのかもしれない。

……だけど私は、ここにいるみんなが好き。この道のことが大好き。

そこに何が正しいとか、間違ってるとか関係なくて……。

それで、えっと、結局何が言いたいかって言うと――」

そこでアリッサは詰まってしまい、その先が言えない。

彼女の中には、もうすでに結論に近いものがある。

しかし、それがうまく形になってくれないもどかしさで、彼女はうんうん唸る。

その姿を、じっくりと見定めるジロー。

なんとか彼女の胸につかえているものを理解し、寄り添おうと努める。

これまで見てきた、アリッサについての記憶を総動員して。

訪れた長い沈黙。

その間中ジローは考えていたが、遂には答えは見つけられない。

だから彼はゆっくり目を瞑り、もったいぶって開いて――

「ま、そう難しく考えんなよ――なーんて、言うつもりはないぜ」

これまたもったいぶった言葉をかけた。

シリアスな雰囲気を笑い飛ばそうとしたのかと思いきや、すぐさま否定する。

そんな二重のひっかけに意表を突かれ、きょとんとするアリッサ。

「こんな大事な問題で、悩まない方がおかしいんだって。お前はそういう人間だ」

「ジロー……」

「俺は、お前がこの道でたくさん悩んできたのを、ずーっと隣で見てきた。

だから知ってる。

……最後にはその全てに答えを出してきたってことまでな」

彼には結局、アリッサの懊悩を見抜くことはできなかった。

でも、考える内に気付いた。

「そんなお前が苦悩して出した答えなら、俺はそれを疑わない。

自信を持って、それに従う。――今までだって、そうやってきただろ?」

彼女の投げかけて欲しい言葉を見抜くだけが、方法じゃない。

上手い言葉をかけるだけが、やり方じゃない。

「だからお前も、自信を持て。なかなか決めきれないで悩む自分に、自信を持て。

きっとそんなお前だからこそ、ここまで来れたんだ。

そんなお前にだからこそ、世界の命運は託されてるんだ」

自分のかけたい言葉をかける。自分の伝えたい思いを伝える。真っすぐに。

最終的には、それが一番なんじゃないだろうか、と。

そんなジローの熱量を受けたアリッサは、わなわなと肩を震わせながら、彼の下へと近寄って――

「なーにが自信を持て、よ!

まるで私がウジウジ悩む暗い女みたいに言っちゃってさぁ!」

力強く笑い飛ばした。

彼のいるベッドに飛び乗って、その頭をこねくり回しながら。

「おい、やめろ、やめろって!今真剣な話の途中だろうが!」

体をくねらせて逃げようとするジローを、アリッサは逃がさない。

「うるさい、何大人ぶってんの!無責任でシニカル気取ってんのがジローでしょ?」

「ぶってもねぇし気取ってもねぇ!俺は元々お前より精神年齢上なんだよ!酒も飲めるしな」

「すぐ赤くなるけどね」

「下戸よりはマシだ!」

「飲まないだけで飲めますよーだ」

「じゃあやってみろよ!」

「無理。法律で禁止されてるから」

二人が疲れ果てるまで、その舌戦とじゃれあいは続いた。

最後には双方悪口が底をついて、的外れな事や一度言ったことばかり繰り返した。

それから今、二人はまだ仰向けになってベッドに転がっている。

ふと、アリッサが力強く言う。

「私、決めた」

「……ずいぶん急だな」

「でも、もう迷わない。これだ!っていう確信もある」

「そうか」

「聞く?」

「もちろん、聞く」

「もちろん、教える。嫌だって言っても聞かせる」

じゃあわざわざ確認しなくても、とジローは思ったが、口には出さずに先を促す。

そして間をおいて、とうとうアリッサが決断を打ち明ける。

「私は――――」

一つ、頷いてからジローが言う。

「そっか」

「うん。だから私達は、ここでお別れだよ――」


翌日の昼、洞窟の出口の前。

ナイトウォーカーに跨る二人が、メルカートに別れを告げる。

来た時と同じように見物のドワーフ達が離れて人垣を成しており、近くにいるのは三人だけ。

「お世話になりました、カルロスさん」

「いえ、こちらこそ」

深々とおじぎをする老夫。

アリッサも同じように返し、右隣の人物に視線を移す。

「アデラさんも、お元気で」

「はい。父によろしくお伝えください」

若いドワーフが笑顔でそう言うので、やはりアリッサも笑顔で応える。

「ええ、きっと」

最後の人物には、少しだけ話したいことがあった。

「ポラリスさん、シリュウさんなんですけど……」

「ん?あいつがどうかしたの?」

あのポラリスが“あいつ”などと言うのを聞いて、二人は本当に犬猿の仲なのだと再確認したアリッサの顔に、少しだけ呆れが混じる。

「ポラリスさんが作った壁、壊しちゃったみたいなんで、直してあげてください」

「はっ?」

驚いたポラリスを見るのも初めてで、なんだか新鮮だった。

「私、あなたに招待状渡したわよね?使わなかったの?」

「いえ、シリュウさん、私から無理やり取り上げて食べちゃったんですよ。

面接してもらいたいなら寄越せって脅されて……」

「えっ、無理やり?食べた?脅されて……?」

ポラリスの顔が、嫌悪感で歪む。

「あっ、でも責めないであげてください。面接はキチンとやってくれたんで。

私のこと宙に持ち上げて、全身くまなく舐めるように見たりして」

「…………」

ポラリスの顔はもはや、影になって見えない。

そこでニヤリとほくそ笑むアリッサを見て、ジローは寒気を覚えた。

「あっ、それとシリュウさん、壁を壊した時に腕が千切れて、今は万全じゃないとか言ってたっけ?大丈夫かなぁ。心配ですよね?」

「それは……とってもいいことを聞いたわ。安心して。

私が責任を持って、ちゃんとあなたの分までお見舞いに行っておくから」

ようやく顔を上げたポラリスは笑顔だったが、その目だけが全く笑っていない。

ジローはもう全身の震えが止まらなかった。

――女って、怖い。

「それじゃあ、行ってきます」

用事を済ませたアリッサは今一度三人に別れを告げ、アクセルを吹かし、二人は洞窟の中へと消えた。


道中はゆっくりと走りながら、他愛のないことを話した。

二人共、それが自分達の別れにふさわしいと思っていたからだ。

当然、寂しさや切なさはあったが、それを押し殺し、前を向いて走った。

途中、シリュウの居るホールに差し掛かったが、彼はなんとそこにはいなかった。

ポラリスにチクったのを聞いていたのか、それとも予感したか。

それでアリッサは歯噛みしたが、それでもポラリスならばと思い、彼女に任せることにした。


洞窟を抜け、密林を抜け、草原を駆ける。

そしてとうとうジャッカロープの村に差し掛かって、バイクを止める。

住人達は今、絶賛引っ越し作業中だったが、運良くミランダは畑の前にいた。

「ミランダさーん!!」

アリッサの大声に反応して、駆け寄るミランダ。

それだけでなく、近くにいた複数兎も駆け寄ってきた。

「おかえり!おかえり!」

そんなへたくそな人語が懐かしく響く。

「二人共、おかえりなさい。メルカートには着いた?」

「はい。それで――」

アリッサは彼女に顛末を話した。

「あら、そうだったの……。それじゃ、あなたは人間界に戻るのね」

「はい。せっかく家族になれたのに、すぐにお別れになってしまってごめんなさい」

「……大丈夫よ。どれだけ離れていたって、家族の絆は切れないわ。

向こうでも、頑張るのよ」

ミランダの変わらぬ大きな愛を受け、思わず目の奥が熱くなるアリッサ。

懸命にそれをこらえる。

「はい……。頑張ります」

それでミランダ達は作業に戻った。

彼女達は、気を使ってくれたのだ。

これからアリッサがしなければならない、より大きな別れのために。

少し見つめあってから、ジローだけがバイクを降りて言う。

「じゃあ、元気でな、アリッサ」

震える声をなんとか隠しながら。

バレバレだろうって、わかっていても。

「うん。村のこと、よろしくね。ジローがみんなのこと、助けてあげるんだよ?」

でもそれはお互い様。アリッサだってとっくに限界に近い。

途切れ途切れになって、ところどころ波打つ声が、それを表す。

「当たり前、だろ?俺がいれば、ハイエナなんかにゃ、指一本触れさせねぇよ」

その言葉で、一緒になって笑う。

相変わらずの強がりだけど、なんだか無性に頼もしいと、アリッサは感じた。

ひとしきり笑ってから、アリッサはバイクを降りてジローの前でしゃがみこみ、右手を前に差し出す。

「……それじゃ、握手しよっか」

「……ああ」

応えて伸ばされるジローの右手。

それをガッシリと掴んだアリッサは――

「えいっ」

ぐいっと引っ張って、自分の胸に手繰り寄せた。

「うおっ!」

驚きの声を上げるジロー。しかし抵抗はせず、アリッサに黙って抱かれる。

「じゃあね、ジロー。私、頑張るから……」

「ああ、行ってこい。……お前なら、絶対に大丈夫だ」

強く、強く抱き合う二人。

あれだけ我慢してきた甲斐もなく、互いの目から涙が流れて止まらない。

止まらないまま、ずっと互いの温度だけを味わう。

目を閉じればすぐ、瞼の裏に浮かんでくる。

出会った日から、今日までの全てが。

二人は一切の言葉も無しに、全く同じ瞬間の記憶を共有してゆく。

それがお互いへの限りない愛情を溶かして、雫となってこぼれ落ちる。

優しく、とめどなく――。


永い時間が経って、アリッサはとうとうジローから離れる。

背を向けて、ナイトウォーカーに跨るその様を、後ろから黙って見つめる。

そして今、彼女が発進する。

少しずつ、小さくなるアリッサの背中。

彼女は一度も振り返らないまま坂を登り切り、橙の空へと消えていった。

夕日に伸びるその長い影を見送ったのは、今度はジローの方だった。

いつまでも、いつまでも、そこに留まって見つめる。

変わらない夕暮れの中に、彼女の背中を探し求めて――。



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