第4話 黄昏の月の下で

第4話 黄昏の月の下で

今度の山は、長かった。

ここまでくるのに、もう二週間はこげ茶色の岩ばかり見てきた。

宝石が無いのだ。貴金属も。木すらまばら。

だから色彩に乏しかったわけだが、やはり面白いものもあった。

まずは動物。図鑑で見た翼竜類に近しい怪鳥。

その鳴き声は山を揺るがした。とはいえ、そんな声を出させたのは他ならぬジロー。

おいしそうなタマゴがあると迂闊に巣に近寄ったのだ。

逆に食われかける彼を見て、アリッサは初めて会った時を思い出して笑った。

爬虫類も目を引いた。特にトカゲ。昔彼らを小さなドラゴンと呼ぶ言説にふれたが、まさしくその通り。舌は長く、目は大きく、おまけに足が速い。脇にヒレがあり滑空するものもいた。

なんというかこの二週間はロマンがあった。少年が好むような奔放さと弱肉強食のダイナミクスに満ちていた。

だからだろうか、ジローはよくはしゃいでいたが、アリッサはあまり気乗りしていなかった。

……いや、違う。

アリッサはあれ以降悩みを抱えているようだった。それを元気付けようとしてジローは明るく振舞っていたのだ。

彼女はおくびにも出さなかったが、自然とそのことに気付いていた。

ジローの優しさが彼女に染みた。

それはともかく、もう一つの面白いものは星だ。

星が消え始めた。

初めに月が黄色から濃いオレンジ色に変わり始め、それが空にまで伝播した。

結果空は月を中心とした同心円状に、夕方と夜のグラデーションを描くようになり、天頂から順に星が消えていった。

今や星はもう水平線近くにしか見えていない。

「まるで十円ハゲだな」

ジローは始めそう言った。

その次は百円ハゲと言った。

しかしアリッサは知っていた。

「残念でした。十円玉は百円玉よりも大きいんだよ」

何かと物知りな人語を繰るジャッカロープも、異国の貨幣の大小までは知らないらしかった。


今、最後の峰のその頂上に立つ二人。

ここから先はなだらかな下りの後、一面の平野が広がっている。

いくつか川も流れており、それが草木を育んでいるようだ。

きっとまた、新しい景色や動物との出会いがあるのだろう。

それからずっと遠くに目を向けると、水平線がある。

地平と大気が折り合いをつけるその場所に、もう夜の影は一つもない。

今ここは、完全な夕暮れだ。

しばらく堪能してからアリッサが言う。

「ねぇ、私達、もう半分くらいは来たのかな?」

「さぁな。まだまだな気もするし、もうすぐそこな気もする」

黄昏時らしい感傷の気配が、二人の心を淡い旅情で溢れ返らせた。


二人はそれから緩斜面を下っていった。

初めのうちはまだ岩めいており、その上を飛び回るヤギをいくつか見た。

そこらに生える雑草を食む彼らの毛並みは白く、オレンジの背景に全く溶け込まずに自らを主張する。

もっと高度が低くなってくると草木が地面を覆い隠すようになった。

ススキに似た穂先の垂れた背の高い草の群れ。

それらは真っ赤な月に照らされて黄金色に輝き、風に揺られて波を生じる。

二人がその波と全く同じスピードで走ってみると、青い植物の匂いに包まれて、ありし日の夏を思わせた。

あるいは細くうねった川のほとり。

そこへ水を飲みにやってきたのだろう白鳥の一群が羽を休める様を見た。

流れの緩やかな川面を境に鏡写しになった彼らの優雅な憩いが、夢と現実を曖昧にさせた。

全てが黄昏ていた。

本来夕暮れとは一瞬で終わる、留めることができない光景。

だからこそ憂鬱で、切なくて、尊い。

なのにここではそれがずっと続く。

その違和感は、今まで見てきたどんな景色よりも大きかった。


峠を越えてから三日目の午後六時。

二人は今、緑の芝と白い花に覆われた草原にいた。

アリッサはその合間をゆっくりと走る。

ここのところは大体ゆっくりだ。

黄昏の呼ぶ憂いがそうさせるのだろう。

遠くをみても、ずっと先まで同じ景色が広がっている。

これも最近の傾向だ。

景色の変化が緩慢で、じっくりと、気付かないうちにはたと変わる。

本当にこれは夢なんじゃないか、アリッサは半ば本気でそう思っていた。

たゆたう彼女の意識と視界。その遠くの端に一瞬、見慣れたものが映った気がした。

「……ジロー?」

そしてそれは膨らんだ小さな丘の裏へふわりと消えた。

「ふわぁ……。呼んだか、アリス」

起き抜けのかすれ声で答える彼。

「いや、呼んだわけじゃなくて。たださっき、ジローが遠くにいた気がして」

「なんだそりゃ。俺様は当然ずっとここにいたぜ?見間違えじゃないのか」

「どうだろう。一瞬のことだったし、私もしっかり見たわけじゃないんだけど……」

でもあのシルエットはまさしく――。

「おいおい、まさかとは思うが居眠り運転はよしてくれよ?二人仲良く寝たまま御陀仏なんてごめんだからな」

「うーん……」

なんだか気になってしまったアリッサは目をこらしながら進んだ。

そしてとうとう裏側に着くと、そこには木製の柵で覆われた小さな畑があった。

膝丈までの麦が等間隔で植わっている。

その奥にまばらな円錐状の藁のとんがり。おそらく畑の麦で編まれたものだが、どうにも小さい。

「あれは家かな?」

「だとしたら住んでるのは小人だろうよ」

「……グウィリム?」

ふいに背後から女性の声が響く。

「うそ、グウィリムよね……?」

振り返ると道路を挟んでウサギが喋っている。

いやウサギじゃない。頭部から二本角が生えている。

ジャッカロープだ。

全身のバネを使ってジローに駆け寄ってくる。

「あなた、生きてたのね!グウィリム!もう離さないわ!」

そう言ってついには抱きつこうとした彼女を、ジローは角で拒絶した。

「……俺様はそんな名前じゃない。ジローだ。残念だが人違いだよ」

彼の態度から、言葉から、恐れと不快感が滲み出る。

「いいえ、あなたはグウィリムに違いないわ。その、あの人によく似た顔つき。立派な角。流暢な人語。あなたはグウィリムよ。愛しい我が息子!」

しかし彼女は、一歩も引かない。むしろその距離を詰めてさえいる。

「違う!俺はジローだ!俺は一人で生きてきた!親なんていない!」

そう言って彼はひた走った。来た道の方へ。

緩い坂を必死に上っていく。その後を追う影法師が、持ち主の何倍も大きくて長い。

だからアリッサはむしろその影の方を視界の中心に捉え続けた。

彼が登り切った。もう見えない。

でもアリッサの目には影が白く焼き付いて残った。

嘘みたいなオレンジの中に、ぽっかりと穴を開けて。


「えぇ。彼とは人間界で会いました。狼に襲われているところを助けて、それで下僕――じゃなくて、成り行きで付いてきてもらうことになったんです」

アリッサは今、畑の柵にもたれかかって話す。

「なんてこと!人間界に!あの子はそんな困難に遭っていたのね……。

でも立派だわ。マジカルロードを往く者のお伴になるなんて」

そう言うのは先のジャッカロープ。名はミランダと聞いた。

「あはは……」

アリッサはこの牧歌的な村に住む動物すら、自分のことを神の使いとして認識する事実に少し辟易した。

「この草原を行くと見える、密林地帯のその先にメルカートがあるそうよ」

「えっ……」

彼女は事も無げにサラっと言う。

「でも、その密林を超えるには試練を乗り越える必要があるとも言われているの。もし行くときは、覚悟しておいた方がいいかも」

「……」

風がアリッサの髪を揺らした。

それから少し遅れて後方の麦畑をも鳴らす。

ゆっくりとざわめくその音がやけに大きく耳に残った。

「今度は私から聞かせてください。彼はどうして、人間界に迷い込んでしまったんでしょうか?」

「正しくは私にもわからないわ。あの子がいなくなったのは十年前のことよ――」

そう言って彼女は事の顛末を話した。

当時、こことは別の場所にあったジャッカロープの村。

木々の交じった草原の中、豊かな暮らしが営まれたその場所に、突如としてハイエナの群れが襲い掛かった。

みな散り散りになって走り、なんとか大半は木々の根が作る抜け穴へ逃げ切ることに成功した。

そんな中でターゲットにされ、逃げ遅れた一兎のオスがいた。

彼は腕に赤子を抱えていて満足に走れなかったらしい。

そう、それがミランダの夫、ウィルソンだ。

ハイエナ達はすでに彼を捕捉していた。

複数頭に囲われ、嬲られ、いたぶられ、削られていくウィルソン。

体中から多量の血を流しながらも、彼は諦めず懸命に走り続けた。

しかし確実に逃げ場のない方へ追い込まれ、とうとう直径十メートルはあろう大樹を背に囲まれた。

その大樹の根にも穴はあった。

しかし入り口が大きい割に中は袋小路ということは、村の常識だった。

つまり、絶体絶命だ。

じりじりと、距離を詰めてくるハイエナ達。

ウィルソンはとうとう観念して、大樹の穴の中へ飛び込んだ。

ハイエナもそれに続いた。

終わった。誰もがそう思い、沈痛な面持ちを浮かべた。

だが程なくしてハイエナ達は穴から出てきて、焦った様子で辺りを駆け回る。

それを見てみな喜んだ。ウィルソンはうまくやったのだと。

「でも結局夫とグウィリムは見つからなかった。一日経っても、一週経っても帰ってこなくて、気付いたらもう十年」

ミランダは感情を努めて抑え、あくまでも冷静に語る。

「ハイエナ達の様子からして、食べられなかったことは確実。だけど夫のことは半ば諦めていたわ。大樹の下へ着けただけでも奇跡だったから」

彼女の話は非現実的で、脈絡がない。

アリッサは内心そう思っていたため口をつぐんでいた。

「突拍子もない話だっていうのはわかるわ。でもあの子は間違いなくグウィリムなのよ。だってこの、人間のいない世界にいるのに、人語を自在に操れたジャッカロープは、私と夫だけだったから」

それにだって反論はある。

人間界にいたから後天的に人語を習得した、そう考える方が自然ではないか?

でもやっぱりアリッサはそれを口には出せないで、じっと彼女の顔を見続けた。


「こんなところにいたんだね」

午後八時。アリッサがナイトウォーカーに乗って捜索を始めて三十分ほど。

彼はあの緑の芝と白い花ばかりの草原の中心にポツンと寝転がっていた。

彼は何も言わないが、寝てはいないようだ。

というのも、赤い月を捉える目が虚ろに開かれているから。

「私、さっきの人と話してきたよ」

ピクリと耳が動いた。

アリッサはバイクを止め、降りながら言う。

「彼女、ミランダさんって言うんだってさ」

草を踏みしめる柔らかい感触を味わってから、隣に寝転ぶ。

「彼女が何であなたを息子だと思ったのか、いろいろと聞いてきた。

……でも正直、そのどれにも確証はなかったの」

自然と月が視界の真ん中に収まる。

夕日と似ているけれど、月だけあって、ずっと見ていても目が痛くならない。

「ねぇ、あなたは、ミランダさんが本当のお母さんだと思う?」

「…………」

彼はやっぱり答えない。

それはそうだろう。彼にだって、わからないことなのだから。

「じゃあ、あなたは、ミランダさんがお母さんであってほしいと思う?」

「…………いいや」

「それなら、初めて他のジャッカロープと会えて、嬉しい?」

「全然」

「…………嘘、だね」

アリッサは上体だけを起こし、ジローの目を見て言う。

「ねぇ、明日やっぱり戻ろうよ。このまま何も無かったことになんてできないんだからさ。きっと今忘れたふりをしたら、ずっと後悔が残る。

だからちゃんと彼らの暮らしを見て、体験して、それから決めよう。全部。

お母さんのことも含めて」

「…………」

アリッサは勝手に一人で決めて、荷台からテントを取り出し、設営し、ジローをその中に抱えて運び入れた。

外が明るいためランプは付けず、透明なビニールの部分にも覆いをして真っ暗にした。

二人はすぐに眠りに落ちた。


翌朝起きてから、二人はゆっくりと身支度をし、村に向かった。

彼はそれに賛成しなかったが、反対もしなかった。

つまり一度も口を開かなかった。

ただ、アリッサも彼に了承を取ろうとはしなかった。

黙ってナイトウォーカーに乗り、彼を乗せ、当然のように村の前で停めた。

村に着いてみると、何やら昨日と勝手が違う。

平たい石が並べられ、その上にいろいろと載せられている。

彼らのうちの何兎かがこちらに気付いた。駆け寄ってくる。

そして二人の周りをぐるぐると回り、わからない言葉や鳴き声ではやし立てる。

「いらっしゃい!」

「おかえり!」

そんな人語も混ざっている。発音は怪しいが。

「ごめんなさいね、驚かせてしまって。来てくれるかはわからないけれど、一応準備だけはしておいたの」

今度は流暢な人語が聞こえてきて、アリッサは少し落ち着いた。

「ミランダさん、こんにちは。これは歓迎してくれてるんですよね?」

「えぇ、そうよ。せっかくだからちょっとしたパーティを開いてみたの。元々物の少ない村だから、大したものはないけれど」

「そんなことはないですよ。嬉しいです」

そう言って村の中心へと向かうアリッサだが、もう一人は動かない。

彼女は一つため息をついてから、彼を抱きかかえる。

やはり抵抗はしない。

「ありがたがられたなら、難しく考えず受け取っておけ。そう言ったのはあなたでしょう?本当はお祭りとか大好きなんだから、強がらずに楽しむべき」

そしてアリッサは、今一度会場へ足を進めた。


パーティは本当に素朴だった。

麦でできたパンを主食に、あとは木の実や果物なんかが並べられた。

湖底の集落のような派手さはない。

しかしどれも味は良く、優しい味がしてアリッサは気に入った。

彼の方は、始めは何も口につけず仏頂面をかましていたが、蔵で蒸留されたというウィスキーが運ばれてきて一変した。

さすがは大のウィスキー好きとして知られる種族である。彼だけでなく彼らの大半がウィスキーを次々に飲み干した。

そのペースは早い。まるで水のように飲む。

だが彼だけは二杯弱で顔が真っ赤になった。

あらあら、こんなところまでそっくり。

ミランダが誰にも聞こえない小さな声で言ったのを、アリッサだけが聞き逃さなかった。


パーティが終わり、午後三時になった。

今二人は並んで座って、柵の中で働くジャッカロープ達を見ている。

まだ背の低い麦達に、汲み置きの水を撒いている。

ふと月を見る。向こうにいた頃、日本では月面のクレーターが、餅をつくウサギの姿に見えていると聞いたのを、アリッサは思い出した。

まるで童話みたいな話だと思っていたが、こうして実際にせわしなく働く彼らを見るに、あながち冗談でもないと感じられた。

畑にいるのは、全体の三分の一程度。

他は蔵で発酵の相手をしている者や、木の実を取りに行った者に分かれる。

ミランダは畑にいる。

「……手伝ってきなよ」

「……なんで俺様が」

「昨日言ったでしょ?ちゃんと体験してみないと、わからないって」

「嫌だね。働くなんぞありえない。俺様は生まれてこの方その日暮らしさ」

「いいから、やりなさいよ」

そう言ってアリッサは三度彼を抱きかかえ、畑の入り口へ運んだ。

「どうしたの?」

「すいません。彼が仕事を手伝いたいって言ってまして」

「俺様はそんなこと言ってないぞ!」

全身をよじり、ようやく抵抗する彼。

「あら、そうなのね。わかったわ。じゃあ麦の周りの土を踏んでもらえるかしら。そうすると根っこが強くなって、抜けなくなるのよ」

「俺様はそんな泥臭いマネしないぞ!都会っ子なんだ!」

「なら一緒にやろっか。ミランダさん、私もやっていいですか?」

「もちろん大歓迎よ。人間の力で踏んだら、すぐに土が硬くなって、すっごく捗ると思うわ」

そう笑って彼女は自分の仕事に戻った。

「ありがとうございます。ほら、行くよ」

アリッサは彼女の背中に朗らかに笑いかけてから畑に入った。

すると近くでこちらを伺っていた小さめの一兎が足元に寄ってきた。

「危ないよ。今踏むからね」

やってみると意外に土は柔らかく、しっとりとして彼女は心地良かった。

テンポよく踏みしだかれる場所のすぐ傍にいる、小さい一兎が声を上げる。

「すごい!すごい!」

「あはは、どこでそんな言葉覚えたの?」

アリッサは子供の頃に見た夢の続きの中にいるような気分だった。

「ねぇ、早く来なよ。結構楽しいからさ」

未だに入口にいる彼を振り返り言う。

しかし彼はまだ俯いたまま。

そこへ小さいのが駆け寄って彼の周りをぐるぐる回る。

「こっち!こっち!」

「……」

黙りこくる彼にもめげず、今度は腕を引く。

「こっち!こっち!」

「ああもうわかったよ!やればいいんだろ!?」

とうとう彼の方が折れて、三人でもって踏みしだく。

小さいの、彼、アリッサの順で、三人並んで踏みしだく。

テンポよく、背の順に並んで。

前の二人の踏み残しを、補完するように進むアリッサ。

その心に、先程と似た童心が満ちていた。


小さいのはすごくいい奴だった。

なかなか溶け込もうとしない彼を強引に引っ張り、他の子達のところへ連れ出した。

きっと背丈相応に彼より年下だろうが、どっちが年上だかわからないものだった。

「あんなに楽しそうなあの子達を見るのは初めて」

畑から離れ、少しだけ高い所から見守っていたアリッサの下に、ミランダがやってきた。

「ねぇ、アリッサさん。あなたが今日、あの子をここに連れてきてくれたんでしょう?」

それを聞いて彼女は少し目を瞑って笑い、誤魔化そうかと考えた。

「ええ、そうです」

しかしおそらく通用しないだろうと思い直し、ミランダを見据えてちゃんと答えた。

「本当にありがとう。もしあなたが人間界で彼を拾ってくれなかったら、こんな幸せは絶対に訪れなかった」

「いえ、感謝されることなんて……ありません。彼はきっと、本心ではここに来たがってましたよ。ただきっかけが無くて、踏み出せなかっただけで」

その代わり、もう少しわかりにくいところで、優しい嘘をついておいた。

ただそれが嘘であってほしいかまでは、彼女には掴めていなかった。

柵の向こうでは、彼が何匹もの仲間に囲まれて、いつしかそれが輪を成している。

その真ん中で恥ずかしそうに、照れくさそうに、しかめっ面をする彼。

それを見てアリッサはまたも笑った。

でも前と同じ笑顔ではない。

一つとして同じ笑顔はない。

彼女の揺れ動く心を反映して、その都度微妙なニュアンスの違いを、表し続ける。


夜、二人は昨日と同じ場所にテントを張った。

「なぁアリス!あいつらとんでもなく厚かましい奴らだ!

あんな奴らには初めて会った!やっぱり田舎モンは駄目だな!」

「そう」

「娯楽はないし、女はいねぇし、何よりメシが地味だ。……まぁウィスキーだけは評価してやるが」

彼は昼間の酩酊した自分を思い出したのか、また顔を赤くして訂正した。

「とにかくだ。早くこんな場所ずらかろうぜ!夜のうちにいなくなりゃあバレねぇって!」

「それは駄目」

「なんでだ!?昨日からお前おかしいぞ?無理やり俺を連れ出したりして、いつものマイペースはどうした!?」

「別に?誰かさんが私が気落ちしてる時に気を使ったから、マネしたくなっただけじゃないの?」

「なに!?意趣返しってか?ただそれはちょっと間違ってるぜ。そいつは恩を仇で返すって奴だ」

「どっちでもいいよ。とにかく私は明日も行くから」

「なぁ、どうしたアリス~!俺そんなにお前の事怒らせたか~?」

うるさい彼を放って、アリッサはとっとと寝た。


宣言通り、二人は今日も村に来た。

「よく来たわね。今日は水汲みでもしてもらおうかしら」

ミランダは二人を見るなりそう言った。

「働くこと前提かよ」

アリッサの横から小さく、毒のある悪態が漏れた。

「じゃあ私はナイトウォーカーで」

「そうだな」

バイクに跨ったままの二人。

「……何してるの?降りて」

「いや、今ナイトウォーカーで行くって言っただろうが」

「私は、だよ。当然あなたは含まない。人手は多い方がいいでしょ?」

「そんな!一人くらいじゃ変わらねぇって!」

「サボりは駄目。ね、君もそう思うでしょ」

「そうだ!そうだ!」

アリッサはいつの間にか近くに寄ってきていた小さいのに言う。

「お前、いつの間に!」

さらに彼の抵抗も構わずに持ち上げて地面に降ろす。

「やめろ、やめろ、俺様はこいつ苦手なんだ!」

「言ったでしょ?恩を仇で返すって」

そう言って発進したアリッサ。途中で速度を緩めて桶を拾うことを忘れずに。

「恨むからな、アリス~~!!」

「お好きなだけどうぞ~~」

こうして、今日の労働が始まった。


昼時、全員にパンが配られた。

アリッサの分だけ倍くらい大きかった。

彼女はパン職人達一人一人に礼をした。

毛並みを撫でるという行為でもって。

それで彼らは少しむずかり、嬉しそうに跳ねまわった。

そのあと彼女は昨日と同じ、少しだけ高い場所に一人向かった。

「……やってるやってる」

もうすっかりおなじみとなった彼らのやり取りを見たそのあと、それを少し離れたところで笑って見守るミランダに目移すアリッサ。

ふと彼女がこちらを見る。

そしてニコリと笑った。

アリッサも同じように返した。

「……出来た人だよね」

――本当にそう思う。

いつだってみんなを見守って、人間の私にも目配せして。

それで最近は彼との距離感にも気を付けている。

あくまで集団の一員としての関係に留めて。

きっと本当はもっと触れ合いたいだろう。十年の時を埋めたいだろう。

でも彼女は、あくまで彼の心を優先する。

そんなことを考えながら、彼女は咀嚼を繰り返した。

「……よし、そろそろ行くか」

思考がひと段落したところで、丁度食事も終わる。

彼女は何だかすっきりした顔になって、村の方へ降りていった。


午後の作業はまた水汲み。

アリッサはナイトウォーカーに乗りたがるジャッカロープ達を順繰りに乗せ、みなを怖がらせないようにゆっくりと走った。

ゆっくりとは言っても歩く者よりはずっと早い。

だから何度も二人はすれ違う。

初めのうちはやり取りを交わしたけれど、そう何度も顔を合わせれば飽きるもの。

二人共その時々、それぞれの隣にいる相手に注意を向けるようになった。

彼の方までそうなったのは、昨日から考えると大きな進歩と言えた。

仕事ももうすぐ終わるだろう頃合い、アリッサは彼が理解できない言葉を喋るのを聞いた。

おそらく、ジャッカロープの言葉を聞き慣れたか教わったか。

どちらにしろ、彼が新しい言語を獲得し始めたのだとわかった。

「……さすがだね」

彼には前からそういう器用さがあったと思い、アリッサはどこか誇らしくなった。


「いやー、まさか水汲みさせられるとはなぁ!なんて前時代的なことやってんだあいつらは。古代人じゃねぇんだからよぉ!」

今は午後十時。テントの中。

「お前も何とか言ってやってくれよ。あっ、そうだ今度はあいつらに魔法食でも食わせてやるか。きっと、驚くだろうなあ!」

「ねぇ、ちょっと聞いて」

アリッサがやっと口を開く。

「おう、なんだ?とうとうお前も腹が立ってきたか?そうだろそうだろ。ガツンと言っちまえ!」

「私、両親がいないの」

淡々と、ごく普通にそう言う。

さっきまでやかましかった彼が絶句する。

テントの中に、息の詰まる沈黙が垂れ込める。

「というか、最初はいたはずなんだけど、いなくなったの。覚えてないくらい小さい時に」

そんな中でも、アリッサには何一つ不自然さがない。

当然の行為と言わんばかりにリラックスしている。

「急にどうしたんだ……?」

「いや、一昨日の夜に言ったでしょ?ミランダさんからあなたの過去について聞いたって。よくよく考えたら、あなたにとっては知られたくなかったことなのかも知れないと思って。だから私の昔話もして、それでおあいこ」

それを聞いた彼の口は開いたままで、目も大きく開かれたままだ。

「訳わかんねぇぞ……」

「わかんなくても別にいい。――続けるね。

それで、私が物心ついた頃にはもう魔法学園に引き取られてて、毎日やりたくもない勉強ばっかりさせられてきた。

でも自分で望んだ道じゃないから、私は全くやる気が出なくて、あなたの言う通り落ちこぼれだった」

「…………」

彼にはもう、アリッサがわからない。

「以上。大した話じゃないでしょ?――これで一つ、対等になったね」

「さっきからおあいことか対等とか、一体何だってんだよ……?どうしたって言うんだよ……?」

「あと一つ、対等じゃないことがある。

――『下僕は契約に従い、その身を正せ』」

アリッサが服従のスペルを使うのはまだ二回目だったが、いつ見てもその効果は絶大だ。さっきまで四つ足を着き伏せていた彼が、しっかりと二足を揃えて直立し、微動だにしない。

「おい、アリス!冗談はよせよ!アリス!」

「大丈夫、すぐに終わるから」

そう言ってアリッサは目を閉じ、彼の額に右手を置き、そこに意識を集めて……

『ディスカード・コントラクト』

「うぅっ!」

彼の体が伸び上がり、額に赤い文字が浮かび上がる。

それが彼からふわりと宙に抜けて、端の方から砂のように崩れてゆく。

そして全てが消えたとき、彼は体のバランスを失い地に倒れた。

「お前、まさか!!」

「そうだよ。私とあなたの主従関係を解消した」

一気に起き上がり、アリッサに詰め寄る彼。

「ふざけんなよ、お前!何を勝手してやがる!何が目的なんだよ!!」

「言ってるじゃない。これで私達は対等。負い目も、引け目も、契約もない。

――あなたはもう、私に囚われなくていいんだよ」

アリッサは、今度は寂しそうに優しく笑った。

「ねぇ、気付いてる?今日のあなたは、一回もここから去りたいって言ってない。

もうあなたの居場所は、ここじゃない。あの村なんだよ。

同じ姿の仲間と、血の繋がった家族のいるあの村が、あなたのいるべきところだよ」

「俺の居場所は、俺が決める!お前が決めることじゃない!」

どんなに彼が大声を上げても、アリッサはぶれない。

「わかってる。でも、あなたが私と旅をする理由が何かって考えたとき、私にはそれがハッキリとはわからなかった。ねぇ、あなたって、どうして果てに行くの?

それって、家族といるより大切なことなの?」

「それは…………あいつは家族じゃないから」

どこまでも優しく、冷静に返す。

「わからないでしょ?もし本当に家族だったら、どうするの?

……私、ミランダさんに聞いたの。この先の密林を超えたら、メルカートだって。

でも、その前には大きな試練が待っていて、無事に帰れる保証はない。

それでもあなたは果てに行きたい?……ようやく出会えた、仲間と家族を置き去りにしてでも」

その問いに、とうとう彼は答えられない。

彼女は、自分がどれだけ酷なことを言っているか、十分わかっている。

わかった上で、彼が答えられないだろう質問をあえてした。

ここまでずっと、二人でやってきた。

本当にいろいろなことがあった。

喜びの時も、苦難の時も、全てを共有してきた。

もう一緒にいる理由なんて必要ないくらい、二人はお互いを受容している。

でもだからこそ、アリッサは彼を巻き込むわけにはいかない。

もし見つかったのが自分の母だったら。

その人が、ミランダのように再会を喜んでくれたら。

そんなもしもが、頭から離れないから。

「……そういうお前はどうなんだよ。願いは決まったのかよ?ずっと決まんなくて悩んでたみてぇじゃねぇかよ?」

しかしアリッサが彼に答えられない問いかけを出せるのと同じように、彼もまたアリッサの急所を突ける。

それだけ深く、通じ合っているから。

彼女は想定外の切り替えしを受け、初めて動揺した。

何も言い返せず、黙りこくる。

「はっ!笑わせるぜ。そんなんで試練なんざ、乗り越えられるわけねぇだろうが!」

「それは私の問題だから!あなたとは関係ない!」

アリッサは感情に任せて怒鳴った。

しかし、その言葉を口に出している最中から、後悔と自責の念が腹の底から湧き上がっていた。

自分が現在進行形で人を傷つけていると、はっきりわかったからだ。

そして案の定、その言葉は彼の心に突き刺さり、中で必死に抑え込んでいた感情が溢れ出すのが、手に取るように伝わってきた。

「どうして……どうしてそんなに俺を遠ざけようとするんだ!俺の事が嫌いになったのか?元から嫌いだったのか?それならそうとハッキリ言ってくれよ!そしたら俺は喜んで、お前のために身を引いてやるからさぁ!」

こんなつもりじゃなかった。

「嫌ってなんてない!」

なんて言うには、もう遅すぎた。

「じゃあどういうことなんだよ!!」

彼のそのひと際大きな声に、アリッサは何も言えなかった。

――いつも斜に構えて余裕ぶってる彼に、こんな切実な声を出させてしまった。

その事実が、彼女の心を最も深く傷つけた。

そんな彼女の悲しげな顔を見てか、彼は怒りの持って行き場を無くし、一気にその心を冷やす。

「すまねぇ、大きい声出して。……でも俺、もう行くから」

そう言って彼は、テントを出ていった。

アリッサは去り行くその背中を見ることもできず、ただ茫然と、彼の居た場所を見つめ続けた。


テントを出た後村に行く訳にもいかず、二時間ほどうだうだと歩き回った寂しい一兎は、最終的に村から道路を挟んだ向こうの芝生に寝っ転がった。

「……俺は馬鹿か」

――アリッサのは、どう考えても俺のためだった。

一昨日俺が逃げだした時、あいつは追いかけてきてくれた。

それからの二日間も、どうしようもない俺の背中を押し続けてくれた。

俺はきっと、怖かったんだ。

恵まれた生活に馴染んでいくことが。

それで今までの俺の孤独な半生が、否定されてしまうのが。

「ダセェなぁ……」

彼は起き上がり、向かいの畑や住処を見る。

――あの村の奴らは、多分いい奴らだ。

俺のことを本当にグウィリムとかいう奴だと思ってるからか知らないが、本気で歓迎してくれてる。

そしてあいつも……認めたくはないが、悪い奴じゃない。

あの一件が無ければ、それなりにうまくやれたのだろうが。

ああ、俺はこれからどうするべきか――。

そんな命題に囚われる彼の視界に、不審な影が現れた。

村の奥に何かがいる。

彼は一心に目を凝らす。

するとそれは、ハイエナだった。

ドクン、ドクンと彼の心臓が脈打つ。

二頭、いや、三頭いる。

ハイエナ達は何やら村の周りを探るようにぐるりとゆっくり見て回る。

しかし彼は逸る鼓動を無視して、じっと観察し続けた。

知っていたからだ。彼らの狩りは、少数では行われないということを。

彼の想像通り、三頭は特に何もせずに去っていく。

まだ動悸が収まらない。

今一度、彼は自らに問う。

――俺は、これからどうするべきか。


「うーん、やっぱりここにはいないか」

アリッサは明朝、午前五時過ぎに村を訪れてみた。

ナイトウォーカーのマフラー音が目立たぬよう、スピードを落として来た彼女は今、あの少し高い場所に身を潜めて下を探る。

半数くらいのジャッカロープはすでに起きて、朝食の準備をしているようだが、目当ての者は見当たらない。

「まだ怒ってるよね、きっと」

昨晩喧嘩してからというもの、彼女はどうにも心が落ち着かず、悶々と眠れぬ夜を過ごした。

その頭の中はずっと、なぜあんな態度を取ってしまったのかとか、もっとうまく伝えられなかったのかという後悔に包まれていた。

――今なら少しわかる。

私は多分、妬ましかった。

仲間と家族。私にはどちらもないもの。

それを一気に見つけてしまった彼のことが。

そして同時に、私は怖かった。

彼が離れていくだろうことが。

だって私達は元々、どっちも行く当てがなくて、それがきっかけで二人になった。

積極的に二人になったんじゃなく、あくまで成り行きで。

血も繋がってなければ、種族も違う。

それじゃどっちを選ぶかなんて目に見えてる。

だから自分から言い出して、傷を小さく抑えようとした。

――それが彼を傷つけるとも知らずに。

「……ダメダメ。ネガティブはやめ」

いつの間にかまた自己嫌悪のループに囚われていることに気付いた彼女。

深呼吸を一つして、村の入り口へと向かう。

入ってすぐのところにいたミランダが、彼女に気付いて朗らかに笑う。

「アリッサさん、おはようございます。

……あれ、あの子と一緒じゃないんですか?」

そう言って一気に顔を曇らせる彼女。

そこに自らを疑うような相を見て取ったアリッサは、慌てて取り繕う。

「ああ、それなんですけど、彼はまだ眠いみたいで。ほら、今日は早いじゃないですか。それに最近よく働いてるから、熟睡してて」

「あら、そうだったの」

ほっとして言うミランダ。

それを見てアリッサも胸をなでおろす。

「じゃあせっかくだから、この後一緒に朝ご飯を食べましょう?パンは今焼けば間に合うし、木の実と果物は十分あるわ」

「あー……今日は遠慮しておきます。ちょっとやっておきたいこともあるんで」

「そうなの?……わかったわ。でもいつでも食べに来ていいのよ」

「ええ、是非今度そうします。それじゃあ、失礼しますね」

心から残念そうにしつつ、それを抑えて言う彼女を見て、アリッサはいたたまれなくなり逃げるように発進した。

そして彼を探して、村とテントの近辺を走ることに決めた。

彼女は、彼に謝るつもりだった。

しかし、彼はあの村で過ごすべきだ、という基本的な意見を変えてはいない。

昨日は自分の感情が先行しすぎて、彼がどうしたいのかを考慮していなかった。

今度はまず彼の気持ちを聞いて、それから話し合ってみよう。

そう彼女は考えていた。


その三時間前、彼は草原を疾走する三頭の背を百メートル程離れて追っていた。

もうかれこれ二時間は経っただろうか。

彼らが全力ならもっと速いのだろうが、なるべく気配を忍ばせているおかげで彼にもなんとか付いて行くことができている。

方角は道路から村に正対した方。勾配という勾配もなく、障害と言えば水を汲みに行ったあの川を一つ越えたくらいのもので、まっすぐに走ってきた。

今まで村が発見されていなかったことからすでに推察できていたが、やはり彼らは大分遠くからやってきたようだ。

「まったく、何やってんだかなぁ」

彼は懸命に駆けながら呟く。

もちろん彼は一人でハイエナと戦う気なんてないし、敵うわけもない。

だがおそらくあの三頭は、村を見つけたことを報告しに巣へ戻るつもりだろう。

だからその後をつけ、群れの規模だけ確認したらすぐに村に帰ろうと考えていた。

「はぁ、はぁ」

息を切らした肉体は重いものの、思考はクリアだ。

彼はずっと、村に帰ってからの事を考えている。

手段は二つ。

すぐに村を放棄し、彼らが襲ってくる前にいなくなるか、村で待ち構えて、アリッサの力を借りて撃退するか。

前者を選ぶならば、アリッサの手を煩わせずに済む。

ただ次にいつ見つかってしまうかはわからず、根本的な解決とは言えない。

それに畑や蔵、水源の確保などコストも高くつく。

だから彼は後者を選ぼうと思っていた。

昨日のことをすぐに謝って、村に危機が迫っていることを伝えれば、絶対に彼女は一も二もなく頷いてくれるはずだから。

「はぁ、はぁ」

しっかり巣のある方角を見張っておけば、撃退は首尾よく成功するだろう。

ナイトウォーカーに乗ったアリッサに、奴らの頭をやってもらう。

そうすれば群れは瓦解し、たちまち散り散りになることを彼は知っていた。

それからまたリーダーが決まり、群れが再編成されるまでには猶予がある。

その間にゆっくりと村の引っ越しを行えばいい、というのが彼の結論だった。

「はぁ、はぁ」

しかし彼には決めなくてはならないことが、もう一つあった。

それは昨日アリッサに指摘されて気付いた、ハイエナを追う前からの問題だ。

――村の危機が去った後、自分はどうするのか。どこに行くのか。

この問いには先のものと違い、理性で導ける解はない。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

だから彼には決めきれないで、堂々巡りを繰り返す。

自分にとって一番大事なものは何かという問いを、何度も自身に投げかける。

「…………うおっっ!!」

瞬間、彼は地面のくぼみに気付かず前足を取られた。

大きくバランスを崩して前方に吹っ飛び、右肩から着地。

そのまま勢い余って二度三度とぐるぐる転がる。

「グフッ……!!」

――まずい。そう思って急いで起き上がり前方を仰ぎ見るがもう遅い。

振り返りこちらを睨む三頭と目が合った。

「クソがっ!」

彼はすぐさま走った。

走りながら三頭の様子を伺う。

ボウ、ボウと吠えながら顔を突き合わせるハイエナ達。

何かを考えているようにも見える。

そしてすぐに二手に分かれた。

二頭はこちらへ。一頭は先程までと同じ方へ。

それを見て、彼は口元を吊り上げて笑う。

「へっ、上等じゃねぇか。都会仕込みの逃走術、お前らに見せてやるよ!」

こうして彼らの長い追いかけっこが始まったのだ。


「…………いないなぁ」

アリッサは三十分程かけて周辺五キロをぐるりと探したが、彼は見つからなかった。

草原の上でナイトウォーカーを止め、思わず内ポケットから金時計を取り出す。

それをじっと見て、探知魔法を使おうか思案する。

「……いや、そんなに焦ること無いよね」

彼はまだ私と会いたくないかもしれない。時間を置いた方がいいこともある。

そう考えた彼女は、実行には移さないことにした。

――そう遠くないうちに、彼は帰ってくるだろう。

果てに行くのか、村に残るのかを決めた上で。

その時までに、私も決めなければいけない。

試練に挑む覚悟と、願いの内容を。

「…………」

でも、それだけでいいんだろうか。

彼女はその心に、何かが引っ掛かっているのを感じた。


「ふぅ、ふぅ」

チェイスを始めてからもうかなりの時間が経った。

彼は今茂みの連なりに身を隠し、息を整えている。

彼はあの後、右へと逃げようとした。

理由は簡単だ。

前は論外として、左はマジカルロードに乗ってきた方角で、物陰はない。

後ろは村のある方だから無理。

となると消去法で右に遮蔽物があることに賭けるしかなかったのだ。

幸運なことにその先には、低木や草むらがちらほら見え始め、彼は身を隠しつつ逃げることができた。

しかし、彼は自分が着実に追い詰められているとわかっていた。

まず、彼らを撒くことができない。

一度隠れてもすぐに場所がバレ、じわじわと体力が削られていく。

ハイエナは嗅覚に優れており、視覚情報だけに頼らないからだ。

今も彼らがそう遠くにはいないことを、彼はその耳で知っていた。

兆候はそれだけではない。

彼らが最短ルートで追えば、密林に入る前に追いつくこともできたはずだ。

それなのに彼らは一旦回り込み、村のある方角から突き上げるように追ってきた。

その煽りを受けて彼は、方角を斜めに修正せざるを得なかった。

おまけに、始めに別れたあの一頭。

あれはきっと、巣へと報告に行ったに違いない。

――奴らは何かを狙っている。

以上の事を総合し、彼はそう考えていた。

もっと言えば、具体的な見当まで付いていた。

――おそらく奴らはじわじわと俺を削りつつ、決められたポイントへ誘導する気だ。

そこにはすでに群れが待っているだろう。

そうすれば死体を運ぶ手間が省けるし、抜け駆けをしないという彼らの掟にも抵触しない。

つまり、今のうちに何とか彼らの包囲網を打破しなければ、未来はない。

「――ちっ、もう見つかったか」

彼はこちらへ向かってくる一頭を耳で探知し、より森の濃い方へ駆けた。

ボウ、ボウと後ろから鳴き声がする。

きっと物音に感付いたのだろう。

またも誘導するような追い方を取るハイエナ。

わかっていてもそれに従うしかない彼。

その心に、暗い焦燥感が影を落としていた。


アリッサは今、目を瞑っている。

その右手に、金時計を握ったままで。

――ずっと、果てに行くことだけを考えてやってきた。

そこに行く理由を探し、何を願うべきかを悩みながら。

でも突然、この旅の終わりが見え始めてから、やっとわかった。

果てに辿り着くことは、終わりじゃない。

私の人生は、この先もずっと続いていくんだって。

今私がいるのは非日常の中。

そこに永遠に留まることはできない。

だから本当に大事なことは、この後の長い人生をどう歩むかってこと。

誰と、どこで歩んでいくかってことなんじゃないだろうか――。


彼女がより一層右手に力を入れたのに反応してか、金時計が仄かに光を放ち始めた。

それは彼女の思考が深まるにつれて、刻一刻と膨らんでいく。


――彼はこの世界で仲間を見つけ、家族になれるかもしれない存在をも見つけた。

それは彼にとって帰る場所足り得るだろう。

だから私は、彼に村に残ることを勧めた。

じゃあ、私はどうなんだろう。

この旅が終わったら、どこへ帰ればいい?

彼以外に仲間もおらず、家族もいない私は。

また学園に戻って、つまらない日々を送る?

それはきっと妥当で、穏当な、かつての私への回帰。

でも今の私には、そんなことができるんだろうか?

こんなに美しい世界を知ってしまってもまだ、あの退屈で汚れた世界に戻れる?

それで満足できる?

ちゃんと、向き合わないと。

私が本当に求めているものが、なんなのか――。


彼女が目を開いたとき、光はすでに彼女を包んでから、右手に収束した後だった。

そしてそれはあの時と同じように、一筋の道を指し示した。

「――ジロー?」

彼女にはその光が、なぜだか彼への道だと思われた。

――ジローが呼んでいる。

彼女はアクセルを全開にし、草原の中を駆け出した。


「はぁ、はぁ、はぁ」

彼は何故まだ走れているのか不思議な程の疲労を抱えながら、それでも一心不乱に走っていた。

足音からして、十メートルもないくらいに二頭がいるのはわかっていた。

だからもう隠れて休むことはできない。

それ以前に、障害物や遮蔽物も心なしか減っている気がする。

どれほど遠くへ来たのだろう。

どれだけの時間逃げ続けただろう。

――どうせ逃げ切れやしないのに、どうして走っているんだろう。

そんな後ろ向きな思考が浮かんできても、彼は止まらない。

絶対に諦めない。

最後まで抵抗し続けてみせる。

彼はそう誓った。

しかし、そんな彼の決死の思いを嘲笑うように視界は開け、再び草原に躍り出てしまった。

彼は自らも気付かぬうちに、進みたい方角の真逆へ舵を取らされていたのだ。

そしてその先には、十数頭のハイエナが横一線に待ち構えている。

前後左右、どこにも逃げ場はない。

彼はそこでとうとう走るのをやめて、地面に倒れこんだ。

体全身を使い、息をする。

柔らかな芝生の感触がひんやりとして心地よかった。

もうすでに、ハイエナ達に取り囲まれている。

その輪の外に一匹、口元を緩めて笑いを浮かべているのがいる。

おそらく、あいつがリーダーだ。

彼はそちらに向けて、ニヤリと笑い返した。

――奴らは俺に後を付けられていたことを受けて、また少し様子見をするだろう。

その間に俺が帰ってこないことを不審に思ったアリッサが、異変を感じ取ってくれるはず。

あいつらを頼んだぜ、アリッサ。

そして彼はゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちようとする。


しかしその時、閉じ行く彼の意識の端を、ある声が捉えた。

「――ジロー、捕まって!!」

ふと脳内に響いた彼女の声。彼は無意識に腕を宙に伸ばした。

アリッサはそれをすかさず掴み、勢いよく引き上げた。

「ジロー、しっかりして!!」

その呼びかけに彼が目を開けると、視界が高速で動いている。

「アリッサ……?どうしてここに……?」

「その説明は後!そんなことより、どうしてこんなことになってるの!?」

アリッサは彼を自らの脚の間に置いて聞く。

「それは……村を狙ってるあいつらを見つけて、それで後を付けてたら……」

「どうして先に私に相談しなかったの!?」

「……ごめん」

語気に気圧されて謝るジローの言葉を聞いて、アリッサは一つため息を吐いた。

「こっちこそごめん。怒鳴ったりして。でも、もう無茶はしないで」

「……うん」

彼女の思いやりが、その心に染みたジローは、背中をアリッサに委ねた。

「それで、どうすればいい!?」

そう尋ね、車を反転させながら止めたアリッサ。

ハイエナ達は急な乱入者に驚きつつも、一定の距離を保って威嚇してきている。

それを見据え、ジローは口を開く。

「……ナイトウォーカーなら逃げ切ることはできる。奴らも必死には追ってこないだろう」

「じゃあ、逃げる?」

「いや、それじゃ根本的な解決にならない」

「なら、どうするの?」

答えを焦るアリッサの顔をしかと見る彼。

あまり彼女にそうさせたくはないが、他に確実な手はないと思い、ハッキリ伝える。

「お前が頭を潰すんだ。そうすれば群れは崩壊して、しばらく村は安全になる」

それを聞いたアリッサの目が、大きく開かれる。

しかしすぐにその目は据わり、彼女の顔ごと引き締まる。

「……わかった。やるわ」

その口から静かな低い声をこぼして、アクセルを吹かす。

「どれがリーダー?」

「あの、一番奥にいる大きな奴だ」

「……了解」

彼女はその存在を確認し、他のハイエナから距離を取りつつ近づくため、時計回りに円を描くように走る。

極度の集中により、全てのものがゆっくりと見える。

そして十分な距離を取ってからリーダーに標的を定め、右手に魔力を集める。

――今から、私はあのハイエナを、殺す。

アリッサは何かを殺すつもりで魔法を撃ったことなどない。

先日爆裂魔法を放った時も、何も相手を殺そうとは当然思っていなかった。

だから体の震えが止まらない。

――でも、やらなくちゃならないんだ。

彼女の脳裏に、ミランダの語ったことが思い出される。

囲まれ、いたぶられ、痛めつけられて血を流したというウィルソンの話。

そんな自分の夫の最期を冷静に語ろうとする彼女の顔からは、それでも隠しきれない悲壮感が滲み出ていた。

――もし今やらなければ、次やられるのはミランダかもしれない。

そしてそれを見た誰かが、またあんな顔をするはめになるかもしれない。

そんな姿は、もう絶対に見たくないから!

「エル・エクスプロージオ!」

まばゆい光弾が放たれ、瞬く間にかのハイエナを捉えて、爆ぜた。

前と違い成功したその魔法の威力は、不必要なくらい高かった。

焼け焦げた亡骸が宙を舞い、音を立てて地に落ちる。

「ク、クゥゥーン……」

それを見た他のハイエナ達は突然のことに戸惑い、恐れ、散り散りに逃げてゆく。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

今、全てのハイエナの敗走が確認された。

乱れた息を整えようと、大きく呼吸するアリッサ。

じっと右手を見つめる。

まだ震えが収まりそうもない。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

胸の動悸も収まらず、嫌な高揚感がアリッサの全身を包む。

そんな彼女を、全身ボロボロなジローが強く、強く抱きしめ続けた。


帰り道、二人は村のジャッカロープ達にハイエナが狙っていたことを伝え、引っ越しを勧めることに決めた。

ハイエナの頭は倒したが、いずれまた現れないとも限らないからだ。

それ以外にはあまり話さず、ゆっくりと走っていたが、あの水汲みをしていた浅い川に差し掛かった時、ジローが口を開いた。

「悪い、少し止まってくれ」

「?わかった」

アリッサは少し不思議に思ったものの、川沿いにバイクを止めた。

すると彼は飛び降りて、水の中に浸かった。

「……いらない心配かける必要はないだろ?」

ゴシゴシと体の汚れを落とす彼。傷に染みるのか、時折イテテなどと言っている。

それを見てアリッサは笑った。

「全く、素直じゃないよね」

「うるせぇ。お前もいらない事言うんじゃないぞ」

ジローが顔を真っ赤にしながら言い返す。

「はいはい」

その後二人は、彼が乾くまで川沿いの芝生で横になって体を休めた。


村に着いた時には正午だった。

彼らは入るなりミランダを呼び、全員を畑の脇の空き地に集めてもらった。

「それで、話ってなあに?」

そう聞いてくるのに対し、ジローが口を開く。

「実はな、今朝この村はハイエナに襲われかけていたんだ」

「えっ……」

一気に顔が青ざめるミランダ。

「安心してくれ、奴らのリーダーをアリッサが倒してくれたから。当面の間は心配いらない」

「そう、なの……?」

彼女がまだ話の展開に追いつけていないと見たアリッサが、助け舟を出す。

「今朝別れたあの後、たまたま見かけたんです。倒したのは一頭だけなんですけど、そしたら他の全頭どこかへ逃げたんで、リーダーで間違いないかと」

「…………」

「だけど、ここが嗅ぎ付けられたことには変わりがない。だから、ここからどこかへ引っ越すべきだと思う」

「そのことを、ミランダさんからみんなに伝えてもらえませんか?」

「……えぇ。わかったわ。でもその前に――」

彼女はジローの下に歩み寄り、その顔と体をまじまじと見る。

「なっ、なんだよ!」

彼女は一周ぐるりと見て、彼の正面に向き直って言う。

「あなた、ハイエナに襲われたのね」

「――はっ、はぁ?いきなり何言ってんだ!?」

急に核心を突かれ、慌てるジロー。

「あなたがハイエナに襲われてた。そこをアリッサさんが助けた。違う?」

「そんなわけないだろ!でたらめ言うな!」

アリッサも、動揺を隠せない。

彼の体に汚れや目に付く傷がないことはしっかりと彼女が確認済みだ。

細かい擦り傷は多いが、どれも毛に覆われて一目ではわからないはずなのに――。

「見たら、すぐわかっちゃうのよね。昨日までとのちょっとした違いが。肩口の毛並みだったり、顔色だったり、いろいろと細かいところはあるけれど、そういうの全部含めて、わかっちゃうものなのよ」

すでに確信した彼女が、濡れた声で言う。

だからもう、二人は反論できない。

「よかった、無事で……」

ミランダが、その腕をジローの肩に回し、しっかりと抱きしめる。

彼は依然、唖然としたままで抵抗しない。

「なん……で……?」

「だって、私はあなたのお母さんだから。――なんて言うつもりはないわ。

ただ、それと同じくらい、あなたを愛すると決めているから」

ミランダの目から、優しい雫が零れる。

一つ。また一つ。

「初めて会った時、きっと私はあなたを怖がらせたわよね。

ごめんなさい。もう遅いけど、謝るわ。

あの時は本当に嬉しくて、舞い上がって、自分が抑えきれなかったの」

彼女の声は柔らかくて、その言葉は温かくて。

それがジローの心に溶けていくのを、アリッサは感じ取った。

「でも、あなたを見守るうちに気付いたの。

確かに夫やあの子の面影もあるけれど、それ以上に私の知らない所がたくさんあるってことに。

――あなたは間違いなくあなたよ。ジロー。

もしあなたが本当にグウィリムだったとしても、もうあなたはジローなのよ」

ジローの体が小刻みに震え始めた。

それを受けてミランダが一層、回した腕に力を込める。

「だから、あなたは私に縛られる必要なんてない。どこに行くのも自由。

だけどね、これだけは覚えておいて。この村では、みんな一つの家族よ。

そして私は、あなたをもうすでにその一員だと思ってる。

――いつでも帰ってきていいのよ、ジロー」

「うっ……うぅっ……」

とうとう、ジローの瞳からも涙がこぼれる。

「うぅ……うあっ……」

嗚咽を漏らす彼。それを見て、アリッサの目頭まで熱くなってきた。

ふと、ミランダが顔をこちらに向ける。

「アリッサさん。あなたは私の愛する家族の一員を、二度も救ってくれたわ。

……ううん。今回はそれだけじゃなく、私達の村全体を救ってくれた。

本当にありがとう。あなたのためなら、なんだって差し出せるわ」

「いえ、私は別に……当然のことをしただけですから」

胸の前で右手を横に振り、謙遜するアリッサ。

それを見て、ミランダはまた笑顔になった。

「えぇ。あなたは、きっとそう言い切ってしまう思ってたわ。……だから、あなたももう、私達の大切な家族なのよ」

「えっ……」

またも呆気に取られるアリッサ。

その肩が何度か小さく震える。

「助け合うのが当たり前。感謝はしても、見返りはいらない。

私はそういうのを、“家族”だと思っているわ。

そこには種族も、血の繋がりも関係ない。

……そうでしょ?ジロー」

アリッサの目の奥が、熱く、熱くなる。

そしてポロポロと雫になって、ゆっくりあふれ出てくる。

「私は、あなた達二人を、みんなを、等しく愛することを誓うわ」

そう言われてもう、アリッサは我慢できなくなって、思わず二人に抱き着いた。

しゃがんで、上から包み込むように。

「うぇっ……ひぅっ、ありがとう、ございます……!」

子供時代にそんな経験はなかったけれど、子供のように泣きじゃくるアリッサ。

「へへっ、何、泣いてんだよ。お前さぁ……!」

ジローがここでも強がって、アリッサをなじる。

「うるさい!あんただって、泣いてるでしょうが……!」

「ジロー、泣き虫!泣き虫!」

いつの間にか、小さいのがジローにくっついている。

「馬鹿、泣いちゃいねえよ!」

固まって抱き合う三人に、一人、また一人と体を預けてくるみんな。

そして固まりはどんどんと大きくなり、とうとう家族が一つになった。

「ジロー、泣き虫!アリッサ、泣き虫!」

へたくそな人語で合唱するみんな。

「うるせぇ、泣いてねぇって言ってんだろ!」

どこまでも強がるジロー。

「あはは、あはははは!」

心から笑うアリッサ。

「これが、家族なんだね。……温かい。ほんと、温かいね」

この薄暗い黄昏の空の下で、彼らだけが輝いていた。


翌朝、引っ越しの準備を始めた村人達に別れを告げ、二人は早々に村を後にした。

感傷を楽しみながらゆっくりと往くのは、もう見慣れた草原。

「よかったの?」

「今はいいんだよ」

アリッサの問いに、ジローが答える。

「あいつらと暮らすのは、果てに行ってからでも遅くないだろ。それに……」

「それに?」

「お前、俺がいないと全然なーんもできないからな。なんでも、大層な試練が待ってるらしいじゃねぇか?お前一人じゃ心配で行かせらんねぇって」

「ばーか」

そう言って二人は大きく口を開けて笑いあった。

それがひと段落着いた後、ジローが小さく言った。

「ありがとな」

「……何?急にどうしたの」

「いや、ちゃんと伝えとかねえとなと思って」

ジローの相変わらず軽い、けれど少しだけ真剣味を帯びたトーンを敏感に読み取り、アリッサが彼の言葉を待つ。

「お前は、俺を二度も拾ってくれた。そんでとうとう、家族にまで引き合わせてくれた。――俺はそんなお前と、この旅をちゃんと締めくくりたい。

だから、最後までよろしくな」

「……なーにかっこつけてんのよ?泣き虫ジロー」

「お前、俺がせっかくいい事言ってやったってのに!」

「そんな改まって言わなくてもいいよ。……もう、家族なんだから、さ」

「…………」

アリッサは振り返りジローの顔を見る。

すると彼女の予想通り、彼は真っ赤になっていた。

ふふ、とほくそ笑むアリッサ。

「……お前、だいぶいい性格になったな?」

「さあね?誰かさんが“意趣返し”ってのを教示してくれたからじゃない?」

「お前なぁ!」

「あははははは!」

こうして二人の旅路は、一層笑いの絶えないものになった。

そうしていると、どんな試練でも乗り越えられる。そんな気がした。

「ねぇ、私、願い決めたよ」

「……ふぅん」

興味を抱きながらも、感付かれぬよう振舞うジロー。

「ささやかで、小さいけど、大事な願いが。……聞く?」

「……聞かない」

しかしアリッサはそれを見透かした上で、あえて彼に選択権を委ね続ける。

「そう」

「そうだよ」

「そっか。……なら、飛ばそっか、ジロー?」

「……おうよ、アリッサ!」

そして二人は、スピードに乗って平野を駆け抜ける。

そうするほど旅の終わりが近くなると知っていても、なおも早く歩を進める。

だって今、こんなにも風が心地いい。

二人は胸を梳く疾走感の中で、その刹那、世界で一番輝いていた。



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