第3話 湖上の波紋

第3話 湖上の波紋

ボルヘの家を出てすでに三日が経った。

前と違い、これは確かな三日だ。

ボルヘからもらった金の時計が教えてくれた。

あの時計には針も文字盤も無いが、握りしめて強く求めれば正確な時間が脳裏に浮かんでくるのだ。

それは方位磁針としてもそうだった。

二人は、以前はただまっすぐに伸びているようにしか見えなかったこの道が、蛇行や起伏を繰り返していることを知った。

それが本来のこの道の姿なのだろう。

つまらない単調な景色が、急に彩りを増した。

掘り出せばいくらでも貴金属が採れそうな小高い光の丘。その斜面を登り切り、抜けてきたエメラルドの森を眺望した時の感情は忘れられない。

天上の月に照らされ、深く沈み込んだ輝きを放つ翠の海の凪。

アリッサは自らが海原を渡ってきた一尾の魚であるかに思われた。

二人はまた、この道が生き物で溢れていることも知った。

人間界にもいる白い蝶、蟻の群れ、タヌキ、鳩をはじめとして、幻獣であろう七色の尾を持つ鳥の群れにさえ出会った。

おそらく動物達は今まで、見慣れぬ人間を恐れてその身を隠していたのだろう。

裏を返せば今、二人はこの世界に認められつつある、ということかもしれない。

アリッサは彼らとの出会いに喜んだ。


小高い光の丘を滑り降りると、湖水地方だった。

見渡す限りの平野のあちこちに、色も形もさまざまな水たまりがある。

「こりゃすげぇ。でもきっと、黄色の池の魚は食えたもんじゃねえだろうな」

ジローのその言葉に、アリッサは内心頷いた。

旅は全くもって順調そのもの。

この分なら思っていたよりもずっと早く辿り着けるかもしれない。

そう思った矢先だった。

「おいおい、こりゃどうなってやがる?道が途切れてんじゃねぇか」

二人は今、これまでで一番大きく透明な湖の前で立ち尽くしている。

「途切れてるっていうか、沈んでる?」

そう。道が無くなったわけではない。波もなく澄んだ水の中へと飲み込まれている。

遠く離れた対岸の山並みの中に、舗装された道路がギリギリ視認できることから、おそらくそこへ通じているのだろう。

「……迂回するしかねぇのか?」

「待って、コンパスに聞いてみる」

アリッサはボルヘから教わった通りに目を瞑り、願った。

しかし目を開いてみても何も変わらない。

「やっぱり迂回するしかねぇんじゃねぇか?」

「それはできない。コンパスが景色を変えないってことは、道は合ってる、はず」

道を故意に外せば、戻れなくなる可能性もあると思い、アリッサは拒んだ。

前はボルヘに救われたが、次はそうもいかないだろう。

「浮遊魔法とか使えないのか?」

「そんな高等魔法使えるわけない」

「それもそうか。魔法学園でおちこぼれたからこんなとこに来てるわけだしな」

「おちこぼれてない!私の意思で飛び出してきたの!」

「おちこぼれはみんなそう言うもんだ。素直になれよ」

「ええい、うるさい!ジローなんてこうしてやる!」

アリッサは図星を突かれた怒りからジローの両角を掴み、背負い投げの要領で肩に担いだ。

「ちょ、おい!なにすんだ!角はデリケートなんだぞ!」

「知らないわよ!あんたが先に私のデリケートな心に土足でふみこんできたでしょうが!」

「やっぱりおちこぼれだったんじゃねぇか!本当のことを言われて怒るなんてみっともないぞ!」

「何とでも、言いなさいっ!」

アリッサ目いっぱいの力を込めて、ジローを湖に放り投げた。

しかしジローは彼女には重すぎた。

投げ切った後に残る前への推進力に引っ張られ、アリッサもまた湖に身を投げる。

「うぎゃあーーーー!」

「きゃああーーーー!」

静かな湖のほとりにこだまする絶叫。

ぼちゃん。

二人はほぼ同時に着水した。

「なんてことしてくれる!俺様は泳げないんだぞ!」

「私だって泳げないよ!ああ、もう終わり。バカなウサギのせいで私の旅が台無し。やっぱり連れてくるんじゃなかった」

「お前が投げたのが悪いんだろうが!……っておい、なんで喋れてるんだ?」

「そりゃもう死んだからでしょ?死後の世界でもあんたと一緒なんて、神様は何を考えているのかしら?」

「バカか。溺死はそんな楽な死に方じゃないぞ。目を開けてみろ!アリス!」

一理あると思い、はたと我に返ったアリッサは恐る恐る目を開けてみる。

するとそこには、驚くべき光景が広がっていた。

水中とは思えないほど澄んだ、一面の浅葱色の世界。

その中を、鳥と見紛うばかりに優雅に泳ぐ小魚の群れ。

一糸乱れぬ隊列を組んだ彼らは、水面から差し込む無数の光の柱が作る陰影と遊ぶ。

多様な角度から光を受け、その煌めきを絶えず変化させる鱗の連なりは、まるでオーロラのようにさえ見える。

水面に目を移すと、おぼろげな月が引き延ばされ、ちぎられ、揺れている。

地上よりもずっと近い。掴むことさえできそうだ。その光はか弱い。

だからアリッサは疑問を抱いた。

あの月が、いくつもの柱を生み出しているとは到底思えない。

彼女はふと湖底に目を向けた。

そこには月よりもずっと明るい、苔や海藻のカーペットが敷かれていた。

中でも特に明るい光を放つ、口の開いた二枚貝。その中に鎮座する真珠の輝き。柱を生んでいたのは彼らだったのだ。

「……すごい。こんな世界があるなんて」

「……ああ。普段は景色を見て感動なんてしやしない俺様も、さすがにこれはすごいと思うぜ」

二人ははっきりと会話ができる。地上と何の変りもなく息も吸える。

「これならナイトウォーカーで行けるんじゃないのか?」

地上からの道ははっきりと湖底に一筋の線を引く。

その上だけはなぜか、苔が一切生えていない。

「……試してみる価値はある」

二人は一度陸に上がり、ナイトウォーカーの元へ向かった。


ジローの推察は正しかった。

ナイトウォーカーは水の中でも問題なく動作した。

アリッサは心を躍らせた。しかし焦りはしなかった。

こんなに美しい光景を楽しまないでいられるほど、彼女は無感動な人間ではなかった。


湖を潜行し始めて、しばらく経った。

「なぁあの真珠だが、さっきから道沿いに等間隔で置かれてないか?」

「……言われてみれば」

先程までは場所も向きもバラバラだったあの二枚貝の生む柱が、今はこの道にアーチを作るようになっている。

それはどこか人為的な調和を見せる。

しかし会話はそこで終わった。

この先に何かあるという予感を二人は共有していたが、それについて話す気にはならなかった。


幻想に魅せられ、導かれるようにその歩みを進めること十分程度。

二人はとうとう石造りの集落の門前に辿り着いた。

集落は一直線の道沿いにあり、アリッサの背丈の倍近い柵でぐるりと囲われている。

入口から覗く限りでは、三十から四十程度の家々が密集して建てられているようだが、住む者の気配までは悟れない。

「……湖底都市、かな」

「オカルトじみちゃあいるが、こう目の前ではっきり展開されると信じるしかないわな」

「本当は、ジローの存在すら十分オカルトの領域なんだけどね」

門に二人を遮るものはない。

入ること自体は可能だ。

「誰か住んでると思う?」

「……建物が苔むしてないし、その可能性は高いだろうよ」

現在時刻は午後二時。人間ならば活動している時間だが、この道は太陽の昇らぬ場所で、ましてやその湖底だ。常識など当てはまるべくもない。

「ま、悩んでたってしょうがねぇだろ。行こうぜ!」

あっけらかんとそう言って、門の内側へ入るジロー。

「ええっ!?勝手に入ったらまずいって!」

「でも道がこの集落を突っ切ってる以上、こうするしかないだろ?」

「そうだけど……」

戸惑うアリッサを尻目に、ジローは進んでいってしまう。

だから結局折れたのはアリッサの方で、ナイトウォーカーのバイクモードを切り、きっかり三歩後ろを付いて行く。

道に面した家々はみな真四角で、備え付けの窓は暗く中が見えない。

誰もいないのだろうか。

「静かだな」

「うん……」

ゆっくりと、ゆっくりと進む二人。

アリッサはナイトウォーカーの柄を両手で握りしめ、胸の前に抱えている。

ジローも気丈を装ってはいるが、ピンと立った耳から興奮が見て取れる。

そうして進んで、とうとう集落の半分は過ぎたかという時、四方八方から高速の影が急激に迫ってきた。

「うおぉっ、なんだぁ!?」

影達は二人を中心に半時計回りに回り、だんだんとその円を小さくする。

「殺される、殺される、殺される!!」

「魔法!魔法だ、アリス!なんでもいいからぶっ飛ばせ!」

影達は何かを言っている。声を合わせて一つの旋律を奏でている。

しかし慌てふためき、半狂乱の二人には届かない。

アリッサは恐怖に目を瞑りながらも、ナイトウォーカーに魔力を籠める。

彼女の体をまばゆい光が包み、どんどんと膨張する。

「エル・エクスプロージオ!!」

そして、爆発した。

「うあぁぁぁー!!」

「何で俺までぇぇー!!」

弾け飛ぶ影の円とジロー。

ようやくアリッサが目を開けたとき、そこには六人と一匹が倒れていた。

そのうちの一人をよく見る。

「……半魚人?」

フォルムはまさしく人間だ。二腕二足で顔もある。

筋肉質で、二十歳前後の青年のようだ。

しかしところどころおかしい。

前腕についた返しのようなヒレ。指の間の大きな水掻き。水色の肌。

他の者に目を向けても、全員同じ。

「旅人よ、その怒りをお納めくだされ!」

そこへ前方から一人の老人が近づいてきた。彼もまた半魚人だ。

「うわぁ、来ないで!!」

叫ぶアリッサ。箒を握りしめる。

「落ち着いてくだされ!我々は敵ではございませぬ!」

「えっ……?」

なだめるように言う老半魚人は、アリッサから十メートル程のところで止まった。

「私はこの村の長、モンクでございます。我々はあなた達を歓迎しようとしていたのです」

「でも、さっき凄い速さで襲ってきて……」

「驚かれたのなら謝罪します。しかしあれこそがこの村における歓待の作法でございまして。なにぶん、客人が来るのはもう数百年ぶりでございますから、いささか気合が入りすぎたかも知れませぬ」

アリッサは老人の目を見る。そこに虚偽の色はなく、むしろボルヘのそれに近い誠実さを感じ取った。

彼女はそれでようやく、心を許した。

「すいません、取り乱してしまい、彼らにも攻撃してしまって……」

「いえ、非は我々にあります故。謝らないでくだされ。それに彼らは屈強な戦士。すぐに起き上がります」

「……だといいんですけど」

アリッサが先程唱えた魔法は、彼女が知る中で最大の魔法だった。

中範囲に高火力の爆発を起こもので、人が食らえばひとたまりもないはずだ。

しかし倒れている六人と一匹を見る限り、特に目立った外傷はない。

おそらく詠唱に失敗し、目くらまし程度の爆発に終わったのだろう。

彼女は半魚人達を傷つけずに済んだ幸運を喜んだが、自らの才の無さには少し落ち込んだ。

「ささ、お気を取り直して。これからお二人をこの村の社にお連れしたいと思いますが、いかがですかな?ささやかな宴の用意もございますが」

「――宴?だと……」

「そんな!みなさんを傷つけたのにもてなしてもらうわけにはいきません」

「そう言わずに。みな、あなた方がこの湖に入ってきたときから、急いで準備を進めてまいりました。是非お受け取りくだされ」

そうか、だからどの家も留守だったのかと納得したアリッサ。

それならば無下にするわけにもいかない。彼女は了承の言葉を告げようとしたが、「宴じゃああぁぁぁ!」

ジローの歓声にかき消された。

脚のバネを最大限活用して飛び跳ね、喜ぶジロー。

本当に現金なやつ、アリッサはそう思った。


村の中心にほど近い社は、村で一番大きな建物だった。

一階建てだが天井は高く、畳張りで中は広い。

広いのだが今は、この村の半魚人が一堂に会しているため込みごみしている。

百余名はいるだろうか。

「皆の者、よく聞いてくれ」

前に立つモンクの一声に静まり返る聴衆。

二人は彼の横に控えている。

その後ろ、つまり社の奥は一段高くなっており、最奥には祭壇がある。

「今日、ここに二人の旅人が現れた。これは古くからの言い伝え通りのことである。すなわち、彼らこそが神の御使い。みな、盛大にもてなすように」

それを開宴の合図として、半魚人達がどっとわきかえる。中には先程攻撃してしまったもの達も含まれる。彼らは全くもって健康だ。

「さぁ、まずは我々自慢の魚料理を振舞わせてください。どれもこの湖で獲れたばかりの新鮮なものでございます」

モンクがそう言うと、若い女中達が幾つもの大皿を運び込んできた。

白身魚の姿造り、小魚のフリット、海藻の和え物、そしてあの大きな二枚貝の蒸し焼き。どれも豪華で、凝っていて、皿として完成されている。

「綺麗……」

うっとりと見つめるアリッサ。

「おいどれもうめぇぞ!さっさと食え!」

並べられるや否や片っ端から食べるジロー。

「なんて情緒のないやつ」

「メシっていうのは見るためにあるんじゃねぇ。食うためにあんだ!綺麗なもので、腹が膨れるもんか!」

「はっはっは。お楽しみいただけているようで、何よりです」

モンクが愉快そうに笑う。

「いやぁうまい!こんな料理にゃあ日本酒が合うんだがなぁ!」

「あの、ジャパンで作られてるっていうお酒?」

「そうそう。あの国も魚料理で有名な国だからな」

「ふむ。日本酒、というのがいかなるものかはわかりかねますが、酒の用意はございますぞ」

そう言って女中を使いに出し、瓶を持ってこさせたモンク。

「これはこの湖の底に育つ穀物を発酵させて作った代物。お口に合うかはわかりませぬが、この村の名産品でございます」

膳に載せられた直方体の枡に口をつけ、一気に飲み干すジロー。

「これだよこれ!ちょっとのど越しが辛めだが、味は最高だ!」

「それは何より」

ジローはご満悦だ。しかしあの酒は度数が高いのだろうか、もう耳が赤くなり始めている。

「すいません、モンクさん。あまり飲ませすぎないでください」

「それもそうですな。これから見ていただきたいものもございますので」

「なんだいアリス!ケチはよくないぜ!」

「はいはい」

アリッサは酔いどれを適当にあしらいながら、村人達の方を見る。

そちらにもすでに料理が運ばれ、どんちゃん騒ぎが始まっている。

それを俯瞰するうちにふと、こちらを強く見つめる少年と目が合った。

すると彼は慌てて目を逸らした。

――なんだろうか?

彼女は少しだけ不思議に思ったが、すぐに忘れた。


食事が終わると次は神に捧げる演舞の時間だった。

十人程度の若い女の半魚人が祭壇の前で優雅に舞った。

なんでも、かつてこの地を作った水の神への感謝を表しているらしい。

みな静かに見守ったが、酔ったジローだけは声を上げた。

「見ろよあの娘!すんげえ色っぽい!この村は最高だ!」

「静かにしなさい!ジロー!」

アリッサは恥ずかしくてたまらなくなった。


演舞が終わり、宴もたけなわとなる頃にはもう七時を回った。

アリッサ達はモンクに連れられて社の一角にある客間に通された。

そこにはすでに布団が二つ敷かれていた。

「今夜はもう遅い。ここでお休みになられて、明日発つのがよろしい。本当はもっと長くいて欲しいものですが、そうもいかないでしょう。あなた方は、この道の果てを目指される方々ですから」

「どうして私達の目的がわかるんです?それに、私達が神の使いだっていうのも」

彼女はずっと思っていた。なぜ彼らが見ず知らずの旅人にここまで尽くしてくれるのか、と。

「先程、この湖を作った神の話をしましたね」

「えぇ」

「その神が我々の先祖にこう告げたそうなのです。『いずれ来る人間の客人は、この道の未来を決めるものだから、丁重にもてなせ』と」

「この道の未来?私達はそんな大層なものじゃないですよ」

「いえいえ、そんなことはありますまい。まずもって、ここは従来人間がいない地。そこにこうして赴いている時点で、十分に稀有な存在なのです」

アリッサには自分がそうとはどうにも信じられなかった。

「そういえば、数百年前にも人間が来たって言ってましたよね?その人達が使いだったんじゃないですか?」

「ええ。しかしその後、この道に変化が起きたという話は聞いておりませぬ。おそらく、彼らは違ったのでしょう」

「なら私達だって違うかも知れませんよ」

「それはまだわかりませぬ。だから期待することもできます」

モンクはにこやかに笑いながらそう言って、部屋を去った。

そのあとしばらく、アリッサは中空をぼーっと見ていた。

「……まあそんな難しく考えんなって。ただ俺達はありがたがられてる。それでいいじゃねぇか。あいつらは悪い奴らじゃないぞ」

「わかってる。でも、この道の未来を決めるとか、神の使いだとか言われても、私がそうだとは思えない……」

「……」

二人は灯りの付いた部屋の中でしばらく押し黙った。

湖底にも鈴虫がいるのだろうか。リンリンと侘しい音だけが響いていた。

「……ちょっと歩いてみるか。せっかくだしな」

「うん」

そうして二人は社の外に出ることにした。


「やい、お前ら」

出るなり声を掛けられた。

「誰だお前」

「あっ、君は」

それは宴の時にこちらを睨むように見ていた少年だった。

「俺はツァイ。この村で一番勇気ある男だ」

「そいつが俺達に何の用だ?」

ぶっきらぼうなツァイの言葉に、ジローもつっけんどんな応対をする。

「お前ら、人間界から来たんだってな」

「そうだ。それがどうした?」

「神の使いだっていうからどんなもんかと思ってたけど、こんなチンチクリンとウサギかよ。大した事ねえな」

「なんだと!?」

「やめてよ、ジロー!」

食ってかかるジローを羽交い絞めにして止めるアリッサ。

「お前らみたいなのでも出来るんなら、俺に出来ないはずがない。そうだろ……?」

その言葉はどこか、自らに言い聞かせるようだ。

「はっ!ならやってみりゃあいいじゃねぇか!わざわざ俺達に突っかかってくんじゃねぇよ」

「ジロー!」

ギリと歯を食いしばるツァイ。

「言われなくても!……俺はお前達を信じねぇ!俺の未来は、俺が決める!」

そう言って彼は二人に背を向け、歩き去った。

「何だってんだよ、あいつ……!」

「いいよ、ジロー。相手にすることないって」

アリッサはしゃがみ込み、熱いジローの体を抱きしめる。

「……ごめんな、ありがとう。お前の気分転換のために外に出たのに、何やってんだかなぁ」

二人はどっと疲れてしまい、社に戻って眠りについた。


翌朝は、物音で目を覚ました。

まだ五時だというのに、なにやら外が騒がしい。

二人はすぐに起き上がって社を出た。

往来にモンクの姿が認められたので、声をかける。

「どうしたんですか?この騒ぎ」

「ああ、お二方。起こしてしまいましたか」

「構わねぇぜ。それより何があった?ただごとじゃねえ雰囲気だが」

「うえぇぇん!トイレ行こうとして、起きたら兄ちゃんがいなくて!」

「泣いてちゃわかんないぞ!ちゃんと話しなさい!」

「駄目です!やっぱり湖の中にはいません!」

「やはり捜索隊を組んで地上に出るしか……!」

道端では女の子が泣き喚いたり、数人の大人達が真剣に話し込んだりしている。

「それが、内輪話で申し訳ないのですが、私の孫の行方がわからなくなりまして」

「えっ……」

アリッサはハッとした。

「それなら多分、そいつは果てに向かったに違いないな。昨日俺達にそう言った」

ジローが淡々と言う。

「なんと!あやつ、何を考えておるのじゃ!まだ成人もしていないと言うのに!」

「確かに子どもが一人で行くのは危ないけど、そんなに慌てるようなことか?どうせあいつじゃ着けやしない。途中で引き返してくるさ」

「いえ、そうではないのです。成人とは、我々半魚人にとってただの儀式ではなく、文字通り人間相応になるということなのです」

「人間になる?」

「我々半魚人の肺は不完全なものでして、二十歳になるまで時間をかけて人間と同じ強度に成長してゆくのです。あやつはまだ十四。十分に空気を取り込めませぬ!」

「なに!?」

「私達のせいだ……」

昨日の彼の思い詰めた顔と言葉が、脳裏をよぎる。

アリッサは全力で駆け出した。

そして客間からナイトウォーカーを掴み取り、表に戻る。

「ジロー、乗って!」

「おうよ!まったく、世話が焼けるヤローだぜ!」

「お待ちください!あなた方の手を煩わせるわけには!」

制止するモンク。

それに対し、アリッサは言い放つ。

「お世話になった人の大切な人を見捨てるのが神の使いなら、私達はそんなものにはなりません!」

「よく言ったぜ、嬢ちゃん!待ってなじいさん、必ず連れ戻す!」

アリッサがアクセルをふかす。最初からギアは全開だ。

その負荷にぐっ、と一瞬マシンが軋み、それから一気にパワーを解き放つ。

二人の背は、すぐにモンクから見えなくなってしまった。

「私はどうやら、何か思い違いをしていたようですな……。

頼みましたぞ、我が孫を。……二人の忘れ形見を」


「昨日あの後すぐに村を出たと仮定して、今どのあたりだろうな!」

「わからない!でも果てに行くのが目的なら、この道から大きくは外れないはず!」

「違ぇねえ!」

二人はけたたましいマフラー音と風、ではなく水を裂く音に負けない大声で話す。

もう道が昇り坂になりつつある。つまり湖の果ては近い。

アリッサは一層ハンドルに力を込めた。


程なくして、湖から上がった。

ここから先は昨日対岸から見た通り、山岳地帯になっている。

ゴツゴツした岩肌の中に切り出された山道を昇っていく。

「よく目ぇこらして見とかねぇとな!」

「私も一応見てるけど、運転があるから!ジローが見といて!」

「まかせな!ジャッカロープが耳だけじゃねぇってところ、見せてやるよ!」

道は湖底と違い蛇行し、幅も狭い。

一つ間違えば大事故になるような崖際もある。

もしこの途中でツァイが力尽きていたら……。

アリッサはそんな後ろ向きな思考を振り払うように先を急ぐ。


「なぁ、もう追い抜かしたんじゃねぇか!?」

「……」

もうかれこれ一時間近く陸を走った。

その間ナイトウォーカーの速度は上下したが、それでも平均で時速五十キロは出ていた。

彼が村を出てから約十時間。人間の歩行速度はおおよそ五キロ。

半魚人の体力がどんなものかはわからないが、地上に慣れていないことも加味すれば、追い抜かした可能性が高い。

ツァイが道から外れた。それはすでに命の危機が迫っているということを意味する。

アリッサはブレーキをかけ、車体を止めた。

「彼が落ちたような痕跡はあった?」

「あったら言ってる」

これで話はほぼ振り出しに戻った。いや、時間が経った分悪化したか。

率直に言って二人は手詰まりだ。手掛かりは、ほぼない。

「……いや、まだよ」

しかしアリッサは諦めない。

胸元から金の方位磁針を取り出す。

「それはメルカートを指し示すものだろう?今なんの役に立つ?」

「やってみなきゃわからない!彼を思ってやれば!」

アリッサは目を瞑り、願いをかけた。

しかし何も起きない。

「……ほらな。無理だ。ナイトウォーカーで地道に探そう」

「待って!まだ試してないことがある。探知魔法で彼を探すの!」

「本当にそんな高度な魔法使えんのか?あいつの持ち物でもあるならともかく」

ジローの言う通り、探知魔法は探したいものと関連の深いものを依り代にするほど成功率があがる。何もなしにできるのは賢者ぐらいのものだろう。

「だからこれを依り代にするのよ!」

そう言ってアリッサはまた方位磁針を握りしめた。

「わけわかんねぇぞ!なんでそうなる!」

「いいから黙って見てなさい!」

また目を瞑り、ありったけの思いを込める。

――無茶は承知。でもやるしかない。

彼女の脳裏に昨日までがよぎる。

――ツァイはこう言った。

『俺の未来は、俺が決める!』

私の未来は、誰が決めるんだろう。

私は神の御使い?それともこの道を変える者?

――ボルヘとポラリスはこう問うた。

『お前達はなぜ、果てを目指す?』

『あなた達こそ、なぜここに?』

そのどちらにも私はロクに答えを返せなかった。

今だってそれは変わらない。

でも、やらなきゃいけないことがある。

助けなきゃいけない人がいる。

神様も、この道の未来も関係ない!

私は私のすべきことをする!

そしてその先に、私がここに来た理由がきっとある!

アリッサの右手が、右腕が、ついには全身が光に満たされる。

「ははっ、こりゃすげぇ……」

その膨らんだ光がゆっくりと、方位磁針に収束してゆく。

アリッサが目を開いた。

それと同時に方位磁針から一直線に光が飛び出て、それが山の中へ突き刺さる。

「……なんとか成功したみたい。この光を辿っていけば、彼がいるはず」

アリッサの体に重い疲労がのしかかる。しかし今は、それが心地よかった。


「小僧!いるか!?」

光が導いた場所は、湖から五キロと離れていない山中の洞穴だった。

ナイトウォーカーのライトでもって中を照らし、入る。

「ツァイ!いるんでしょう!」

ポタリ、ポタリと湧き水のしたたる音が響く。ひんやりとして湿度が高い。

これは明るい要素だ、そう思いゆっくりと進む二人。

そして二十メートル近く進んだその最奥に、彼はいた。

「……何しに来た?」

ぜぇぜぇと息を切らし、壁に背を預けてしゃがみこんでいるものの、目はしかとこちらを見ている。

危篤状態ではないようだ。

「探したよ」

「昨晩言い争いしたのに、な」

ジローがここでも悪態をつく。しかしその声色はおだやかだ

「……助けなんて、必要ない」

「バカ言え。お前、もう一歩も動けねぇだろうが。たまたま道を外れた先にこの洞穴が無かったら、死んでたかもしれねぇ」

ジローが彼に歩み寄る。

アリッサも近づいて手を差し出す。

バシン!

しかし彼は、その手を振り払った。

ポタリ、ポタリ……。

洞穴に不穏な空気が流れ混んできた。

――どうして?

「……それでも俺は……俺は行かなくちゃならねぇんだ!」

それは洞穴の壁中に反響してか、何度も、何度もアリッサの心の中に響いた。

アリッサは揺さぶられた。

彼は本気だ。

納得がいかない。

「どうして?なんでそこまで果てにこだわるの!?」

今度は彼女の声がこだまする。

それは自らに問いかけているようですらあった。

ポタリ、ポタリ……。

静けさを取り戻して雫が落ちる。

ズレることなく、一定のリズムで。

それがじわじわとアリッサを焦らせる。

知りたい。知りたくない。

開いたままのツァイの口。

そこから思いが紡がれるのを、今か今かと待つ。

「叶えたい願いが、あるから。……お前達に先を越されるわけにはいかない」

命よりも、重い願い。

それがなんなのか、彼女は切実に知りたかった。

しかし同時に、知りたくもない。

それを聞いて自分の走る理由がなくなってしまうのが、怖かった。

せっかくさっき手に入れたばかりなのに。

私がようやく手に入れたのに。

でもやっぱり、我慢しきれず聞いてしまう。

「……あなたの願いは、何?」

しんと洞穴が静まり返った。

そう感じられるほど、アリッサはその口元に集中している。

長い静寂。

そして……

「言えない」

そう言って、ツァイは意識を失った。


湖へ帰る途中は、誰も喋らなかった。

アリッサの背に括られ、弱って眠るツァイはもちろん、二人も硬く口を閉ざした。

いつぞやのように、ナイトウォーカーのマフラー音だけが柔らかく響く。

彼に刺激を与えないよう、スピードを抑えているからだ。

――アリッサは考える。

私は、一つの答えを見つけられた気でいた。

この道を進む覚悟ができたつもりがしていた。

でもそれだけじゃ十分じゃないのかもしれない。

だって私には、願いがない。

彼のように、命を懸けてでも叶えたいものがない。

彼だけじゃない。きっとそういう強い思いを抱えて生きている人はたくさんいる。

そういう人達を差し置いて、私が行って、どうなるの?

「――お父さん、お母さん」

そう呟いたのは誰だったのか、風すらも知らない。


湖底の道を走るうちに、ツァイは自然と目を覚ました。

彼はもう抵抗せず、大人しくアリッサに掴まっていた。

村に着いたのは、午前九時頃だった。

村人達は未だにせわしなく動き回っている。

この村の団結力の高さに、アリッサは少しだけ心が和んだ。

そのまま家々を通り過ぎ、社へ向かう。

そこにモンクの姿を認めてから、アリッサは初めてブレーキをかけた。

あちらもバイクに、そしてその同乗者の姿に気付いたようだ。

「ツァイ!この愚か者!心配かけやがって!」

必死の形相で泳ぎ寄る老夫。

その目からは雫が漏れ出て、少し形を保った後、上に昇って湖に溶けていく。

アリッサは彼を括る縄を解き、彼の背を押した。

バイクから降ろされ、所在なさげなツァイ。

その両肩にモンクが飛びつき、年甲斐もなく泣き喚く。

「うぅ、うぅ……!」

「爺さん。ごめんよ……ごめん」

「いいんだ、もう。帰ってきてくれさえすれば……!」

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

そこにもう一人、年端も行かない少年が飛び込んだ。

「フォンも、ごめんな……。心配かけて……!」

そこでとうとうツァイも耐え切れなくなって、美しい雫を水に溶かした。

そんな様子を、ずっと二人は見守った。


「入るよ」

「俺様も来てやったぜ」

「……ああ」

ベッドの上に横たわるツァイ。

彼は今、大事を取って村の診療所に寝かしつけられている。

「もう行くから。最後に挨拶だけ」

アリッサは小脇に置かれた小さな椅子に腰かけ、ジローはその横に佇む。

少し間をおいて、何度か呼吸をしてから彼女は言った。

「私、行くから」

「……そうか」

「まだ願いは決まってないけど、果てには必ず行く」

それは彼にとっては残酷な宣告かも知れない。

でも告げておかなければならない、そうアリッサは思ったのだ。

「……お前は強いな」

その言葉に彼女は驚いた。

「私が強い?」

そんなことを言われたのは人生で初めてだった。

「そうだ、お前は強い。俺と同い年なのに、俺よりずっと遠くから来て、俺よりずっと先に行く」

「そんなことはないよ。私はただ、少し運が良かっただけ」

それを聞いて彼は、小さく首を振った。

「お前達が助けてくれて、村に戻ってこれて、そして俺は知った。家族の温かさを。俺は失ったものばかり追いかけて、今手の内にあるものを、手放そうとしていたんだって」

「…………」

「でも諦めたわけじゃない。俺はちゃんと今を大切にできるようになってから、もう一度挑戦する。それで駄目なら諦める。やるだけやってみるさ。だからお前達も、自分の道を行け」


二人は走り出した。

湖を背に、一度通った山岳地帯を駆け上がる。

しかし今胸にある思いは、必死で一途だったあの時とは正反対。

まるで取り留めの付かない幾つもの感情が、心の中で渦を巻く。

憧れ、迷い、嫉妬、希望、その全てを内包して、ナイトウォーカーは夜を往く。

いつ見ても変わらない月と星が、今だけは温かく感じられた。






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