マジカルルート000

hugo

第2話 迷いの森

第2話 森の中の平屋


妖艶なエルフ、ポラリスの営む喫茶店を後にしてからすでに、七つの夜を経た。

しかしそれは七日が経ったことを意味しない。

あくまで七度寝て七度起きたというだけのことだ。

この道は常に薄明かりに包まれている。

そしてその光源たる月は沈むどころか動く素振りすらない。

だから二人は正確な暦の感覚を早々に失い、ひたすらナイトウォーカーに跨り、疲れたら眠り、起きたらまた跨るという無機質な生活を送っていた。

アリッサはそれを退屈だとは思ったが、怖さは感じなかった。

彼女の頭の中はポラリスから授かった紹介状と親切のことで満たされていた。

その果てに辿り着けばどんな願いも叶うと言われる幻想の道、マジカルルート000。

――私は今、そこにいるんだ。

出発前に珍妙な獣を助けるという想定外から始まったこの旅。

同行者のまやかしの言葉や、孤独を呼ぶ霧に目標を失いかけたこともあった。

しかし今、私の脳裏には確かなものが描かれている。

ドワーフの市場。そこで売られるこの世のものとは思えないほど精巧な品の数々と、それらが誇る優雅な煌めき。

実際にドワーフと会ったことはない。

ポラリスの口から聞かされるまでは、その存在を信じてすらいなかった。

でもエルフはいた。そして優しい心の持ち主だった。

だからきっと大丈夫。

願いは叶うし、市場にも必ず辿り着ける。

そんな確信めいた思いが、彼女を突き動かしていた。


「うふふ、順調なようね」

疾走するアリッサを照らしているのと同じ光が、あの喫茶店にも降り注いでいる。

その軒下で、ポラリスは目を閉じて言う。

「この道は、生きている。あなたの心に呼応して」

「頑張ってね、アリッサ。ジロー。あなた達なら、きっと――」

彼女は店先に生える桃色の花、そのひとひらを取り、右手に乗せて息を吹きかけた。

花びらは天高く舞い上がり、濃紺の空に溶け、無数の星の一つになった。


迎えた十度目の起床の後、道はエメラルドの木が生い茂る森林に差し掛かった。

霧もだんだんとその濃さを取り戻してきている。

「ようやく景色が変わったかと思えやまた霧の中かよ。なあアリス、俺様そろそろ気が狂いそうなんだけど」

「うん」

「メシは毎日魔法食だしよぉ」

「うん」

魔法食とは一センチ四方のキューブ状のインスタント食品である。

これに灼熱魔法を使用すると一気に膨張し、パスタやバゲットなど様々な食事に早変わりする。

アリッサはこれを膨大な数、ナイトウォーカーの荷台に備え付けられた魔法圧縮空間の中に貯蔵していた。

「あれ、ウソくさい味がすんだよ。俺様は好きじゃないね」

「なら食べなければ?」

「いやいやそうもいかないだろ。大体ここって食えるもんあんのか?」

「さぁ」

「…………」

そこで会話が終わり、ナイトウォーカーのクリーンなマフラー音だけが鮮やかな翠の中にこだまする。

霧はどんどん深まってきている。もはや車体二つほど先までしか見えない。

しかしアリッサはブレーキをかけず、黙々と前だけを見据える。

「なぁアリス」

「なに?」

「霧が濃すぎるぞ。これ以上は危ない」

「そんなことない。ここまでずっと道は一直線だった。きっとこれからも」

「誰がそれを保証してくれる?」

「保証なんていらない。私にはわかるの」

ジローははぁと一つため息を漏らした。

「全く、変な所で強情なんだ、この嬢ちゃんは」

ジローはもう説得を諦め、沈黙した。


それからどれほど進んだときだっただろう。

ふと霧が開けた。

そこは明らかにこれまでと様子が違っていた。

まず宝石の煌めきがない。

未だに森の中ではあったが、エメラルドは何の変哲もない木々に取って代わられていた。

そして何より、道路がない。

今いるのは獣道のような舗装されていない細い小径。

アリッサは己の目を疑い、進むのをやめた。

「言わんこっちゃない、アリス」

「うそ、そんなはずない……。だって私には見えていたのに。市場へと続く一本道が……」

アリッサは困惑し、失望した。

――もう、二度とあの道に戻れないかもしれない。

暗い思考の嵐が、彼女の中に吹き荒れる。

――退屈な日々と、弱い自分から逃げるように飛び出してきた。

この道の入り口に立ったとき、何かが変わりそうな予感がした。

でも結局私は……。

「はぁ、はぁ……」

アリッサは息も絶え絶えで、その視界がグラグラと揺れる。

その中に、何かが浮かんでいる。

――あれは幼い頃、お気に入りだったおもちゃ。

青いドレスを着たお姫様のお人形。頭を押すとくるくる踊る。

大好きで、大好きで、肌身離さず持ってた。

でもある日パタリと動かなくなって、ずっとそのまま。

きっと今の私は、彼女とおんなじ目をしてる。

「うっ、うぅ……」

頭を抱え、ハンドルに伏せるアリッサ。苦しげに声を漏らす。

「おい、アリス!大丈夫か!」

その背に飛び乗り、肩をゆするジロー。

「まだ終わったわけじゃない!来た道を帰ればあの道に戻れる!アリス、しっかりしろ!」

「はぁ、はぁ、はぁ…………ふぅ、ふぅ」

ゆっくりと落ち着きを取り戻してゆくアリッサ。

それを見てジローも、その小さな肩をめいっぱい大きくなでおろした。

「……ありがとう、ジロー」

「嬢ちゃん、ちょっと気ぃ張りすぎだぜ?幸か不幸か時間はいくらでもあんだ。のんびりいこうや」

「うん。そうだね」

そして二人は小径を引き返していった。


行けども行けども、元の道に戻れない。

そのうち体の疲れが、一日を終えるようにと訴えてきた。

アリッサはナイトウォーカーのバイクモードをオフにし、箒状に戻し、杖代わりにして森の中にテントを張れるだけの開けた場所を求めて歩き始めた。

結果としていいスペースは見つからなかった。

その代わり、一軒の家屋に行き着いた。

天井の低い瓦葺で、煙突が特徴的なレンガ造りのその平屋は、深い森の中にあるとは思えないほど小綺麗な出で立ちだ。

よく手入れされているのか、最近建てられたか。

しかし場所が場所だ。誰かが住んでいるとは到底思えない。

「まさかこんなところに家があるなんてな。運がいい。さっさと入ろうぜ!」

「ちょっ、待ってよジロー」

アリッサの肩から飛び降り、跳ねるようにドアへ走り寄るジロー。

大きくジャンプし、ドアノブにしがみついて器用に捻る。

「お邪魔しまーす!ま、誰もいねぇだろうけど」

扉が開く。中は真っ暗だ。

アリッサはホッと一つ息を吐き、ジローの後に続こうとしたその時、

「誰じゃ」

「うおぉぉぉぉぉっ!」

突然暗闇の中から深い声が響いた。

慌てて跳びすさむジロー。

「嘘だろ、人住んでるよ!」

「だっ、だから待ってって言ったのに!」

うろたえる二人。目を見開き、視線をドアの向こうへ集中させる。

ドシン、ドシンと大きな音が大地を揺らす。

「なんだ、この音……?」

「しっ、知らないわよ!」

ドシン、ドシン。

ゆっくりと、何かが動いている。

尻もちをつき、ジローと抱き合うアリッサ。

「うっ、うわぁぁぁぁ」

今暗闇から、正体があらわになる。

共鳴する二人の悲鳴。

そして現れたのは、口元に大量の白いヒゲを蓄えた、屈強ながらも背は低い木こりのような出で立ちをした……

「ドッ、ドワーフ?」

「いかにも。ワシはドワーフ。名はボルヘ。しかし貴様ら、礼儀がなっておらん。

急に押しかけておいて悲鳴をあげるとはどういうつもりだ?」

こんもりした髭の上の皺だらけの目元にさらに皺を寄せ、凄むボルヘ。

「ひっ、ひぃぃぃ!すいません、すいません!こいつが全部悪いんです!こいつがマジカルルートから道を外して、そんでこの森に迷い込んで!」

頭を地に擦り付けて謝るジロー。

「ちょっとジロー!私を売る気!?」

「うるせぇ、事実だろうが!」

「ほぅ?マジカルルート、とな?」

「はい!そうです、この馬鹿がその果てまで行きたい行きたいうるさくてかないませんで!仕方なく私も付いて行っていたんでございますです!」

「ふむ……」

顎髭を右手で梳きながら、深く思案するボルヘ。

その姿を二人は息を飲んで見守った。

幾ばくか経って、ようやくボルヘは口を開いた。

「事情は分かった。非礼については許そう」

「ははぁ!ありがとうごぜぇやす!」

「久しぶりに訪れた客人だ。そう無下にするものでもないだろう。さぁ、入れ。何もない家だが、歓迎しよう」


二人が入るなり、ボルヘはログテーブルの前に丸太椅子を二つ用意した。

それから火打石でもって暖炉に火を点け、その火をランタンに移してテーブルに載せた。

ようやく明るくなった部屋を、二人は見回す。

ずいぶんと質素な部屋だ。

木の脚のベッド。ドーム状の石窯。壁には斧が三本立てかけられている。

「まあ飲め」

ボルヘはガラスのグラスを二人の前に並べた。

中身は琥珀色で、上層に白いクリーミーな泡が浮いている。

どう見てもビールだ。

「えっと、私はまだ十四なのでちょっと……」

「ん?ああ、そういえば人の国にはそんな決まりもあったか」

そう言ってボルヘは頭を掻きながら別のグラスに水を用意してアリッサの前に置きなおした。

「嬢ちゃん飲まないのか。じゃあ俺様が頂くぜ」

ジローは自分の分を一息で飲み干し、アリッサの分を自らの方に寄せた。

「ほう、ウサギにしてはいい飲みっぷりだ」

「このペールエールもなかなかイケるぜじいさん」

「当然だ。手間かけて作っとるからな」

自慢げに言って、自らの分も樽からグラスに注ぐボルヘ。

「なあじいさん。この辺りは他に家なんて見当たらないが、一人で暮らしてるのか?」

「そうだ。作物を育て、狩りをし、一人で生きておる」

「それって……寂しく、ないですか?」

アリッサがためらいながら尋ねる。

「全く。好きでやっておるからな。それに一人であって一人ではない。ドワーフは生来、自然と暮らす生き物。木々も、大地も、風も、星も、友人のようなものだ」

「それじゃあ、生まれてからずっとこの森に?」

ボルヘはその問いを受けてからグラスに口をつけ、もったいぶって一つ飲んだ。

その間部屋にはチリチリと、薪が燃える音だけが響いていた。

「……お前ら、マジカルロードの果てを目指していると言ったな」

ボルヘはどこか遠くを見るように言う。

「はい。そこにはドワーフの市場があると聞きました。ボルヘさん、何か知りませんか?」

「メルカート」

「えっ?」

「メルカート。それが市場の名だ。……ワシの生まれ故郷でもある」

その声の深さに押し黙る二人。

「幼き頃から自前の工房で金細工をこしらえ、それを売って暮らしていた」

「いい日々だった。街中が美しく輝きを放っておった。住む人々もまた、同様に」

「……そして、ワシは長い職人生活を終え、街を出て、ここに行き着いた」

語り終えたときボルヘは、満たされた寂しい顔をしていた。

「さて、次はワシから尋ねさせてもらおう。お前たちはなぜ、果てを目指す?やはり、願いを叶えるためか?」

その問いはアリッサを少したじろがせた。

顔を伏せ、考え込む彼女。

「……実はまだわからないんです。物心ついたときから、ずっと憧れだけがあって」

答えを探りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐアリッサ。

「でも、これだけは言えます。私はきっと、そこに行くべきなんです。理由が明らかじゃなくっても、それだけは確かなんです」

そこでアリッサは顔を上げ、ボルヘの彫りの深い目をしっかりと見据えて言った。

それを受けてボルヘの方も、彼女の目の奥を探るように見つめた。

じっくりと、時間をかけて。

「……なるほど。確かに、そうかもしれぬ。ウサギ、お前の方は?」

「俺様はただの付き添い。果ても願いも興味はない。でもアリス一人じゃあ辿り着けそうもないから、付いて行ってやってるのさ!」

相変わらず調子のいいジロー。

「アリスじゃなくてアリッサ。それに、あんたは私に恩があるから付いてきてるんでしょうが」

「あれ、そうだっけ?忘れちゃったなぁ!」

アリッサは呆れてものも言えない。

そんな二人を見て、ボルヘは口元を緩める自分に気付いた。

――笑うのは、いつぶりだろうか?

彼はなんだか懐かしい気持ちになった。

「理由についてはよくわかった。しかしここに迷い込んでしまった所を見るに、まだマジカルルートのなんたるかを把握できていないようだな」

「何か秘密があるんですか?」

「あの道は普通の道ではない。それはわかるな?」

「はい。なんとなくは。ずっと夜だし、宝石が散りばめられてるし」

「そうだ。だがワシが言いたいのは、そういう表層の事じゃない」

そう言ってボルヘはテーブルを離れ、木箱に右手を突っ込み、何かを取り出した。

「これを見ろ」

「すげぇ、こりゃほんとの金でできてるぜ!」

「これは……時計?」

チェーンの付いた円盤上のそれは今、カバーが開けられて中が見えている。

その形こそ懐中時計で間違いないが、文字盤もなければ針もない。

あるのはガラスとその奥の金色だけ。

「ああ、これは時計だ。だが同時に方位磁針でもある」

「バカ言えじいさん。針がない時計も方位磁針もあるもんか」

「確かに針はない。だがそれでいいんだ。あの道とそれが繋ぐ街においてはな」

「……それがマジカルロードが普通じゃないってことの意味ですか?」

「そういうことだ」

「まったくわけがわかんねぇぜ、あの道は」

うなだれるジロー。アリッサにも訳が分からなかった。

しかしボルヘは全くもって真剣だ。そこに疑う余地はない。

「これを持って行け。そして霧が濃くなったらこれを手にして目を瞑り、道を思え。そうすれば霧は晴れ、正しい道が現れるだろう」

差し出された時計を、アリッサは両手で受け取った。

見た目よりずっと重く、ずっしりと手になじむ。

「いいんですか?これきっと、高いものですよね」

「かまわない。これはワシがメルカートで暮らしていたときに私用に作ったものだ。売り物ではない。それにここで眠らせておくよりも、お前たちの役に立つ方がそいつのためにもなるだろう。

ものにはそれぞれ、役目というものがあるからな。無論、お前たちにも。

……先程お前はこう言ったな。私はそこに行くべきなんだ、と。ならば行くがいいさ。そして見てこい。あの街の全てを」

「……はい!」

アリッサはボルヘの言葉に強く励まされた。

懐中時計が、さっきより重く感じられた。


「いろいろとお世話になりました」

「元気でな、じいさん!」

今二人はナイトウォーカーを手に、ボルヘの平屋の前にいた。

「ああ、達者でな」

「私達、必ずメルカートに辿り着きますから。ボルヘさんと会ったこと、街の人達に言っておきます」

その言葉に、ボルヘはまた笑みをこぼした。

「小径に出たら、来た道をまっすぐに進め。じきにまた霧が現れるはずだ。そしたらさっき渡した金細工を使うんだ」

「はい。やってみます。それじゃ、失礼しますね」

そしてとうとう、二人が平屋から去った。

ボルヘはその背中が見えなくなっても、ずっとその場に留まっていた。

月明かりに照らされながら。


ボルヘの言った通りに来た道を引き返し始めてからしばらく経った。

ふいに霧が立ち込めてきた。

「よし、アリス。さっそくやってみようぜ!」

「うん」

アリッサはローブの内側のポケットから時計を取り出して目を閉じ、瞼の裏に思い描く。鮮やかな翠の森。はるかに佇む丸い月。そしてなにより、どこまでもまっすぐに伸びるあの道自体を。

すると、心の中で何かが音を立てて切り替わる感じがした。

ゆっくりと目を開くと、そこはもうあのエメラルドの木々に囲まれた道の真ん中だった。

「……どうなってやがる?確かにさっきまではあの森にいたはずなのに」

驚嘆するジロー。アリッサも驚きを抱いた。でもそれ以上に戻ってこれたことが嬉しかった。

「さぁ、行くよジロー!」

「へへっ、もう見失うんじゃねぇぞ!」

そして二人はまた進み始めた。この長く、不確かな幻惑の道を。

きっといつか、辿り着く日を信じて。



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