強者ー1

 魔力を通わせた『手負い』の巨腕が振り下ろされるその直前に、彼らは確かに耳にした。


「よく、ここまで生き延びてくれました」


 言葉の意味を脳が理解するよりも早く、より疾く、その男はソルトたちを庇うように前に立ち、『手負い』の真正面から剣を振るった。


 振るわれた剣閃はさながら宵闇に浮かび上がる三日月のような白い軌跡を描き出し、泰然の権化に見紛う『手負い』の巨体をその場から切り動かしたのである。鋼金属同士が激しく衝突したかの如き轟音を響かせながら、『手負い』は大きく二歩ほど後退し、体を丸めて魔力を迸らせ、新たに現れた『敵』に対して威嚇と恐怖の唸りを上げた。


 警戒し、臨戦態勢に入った『手負い』を前にしても、その男、上級冒険者のペッパーは涼しげな表情を微塵も揺るがしはしない。


「もう大丈夫ですよ。ソルトさん、シュガーさん。俺たちが来たからには、もう安全です」


 その大胆不敵な言動に不快を示したのか、『手負い』は大きく吼え猛り、後ろ足の筋肉を強大なまでに膨れ上げさせ、その巨体を前へと押し出した。


 地が爆発したような轟音よりも早く、落ち葉と砂塵が打ち上げられて落ちぬ間に、『手負い』はペッパーに向かって突撃したのだ。


 それは、六メートルを超えた筋肉体による弾丸であった。死の脅威が形となって迫りくる光景は、流石のペッパーといえども如何ともし難かったのだろうか。


「ほう」


 と感心とも呆れともつかぬ息を吐いたまま、彼は防御しようとも避けようともせず、その場で全身から力を抜き、剣を下げているのみである。


(危ない!)


 そう叫ぼうとしたソルトであったが、彼にも現在置かれている状況がこの上なく最悪であることを理解していた。


 それほどまでに質量の大きな肉体というのは、圧倒的な力を行使できるものなのだ。如何に技術が優れていようと、身のこなしが軽かろうと、攻撃力が強かろうと、どうしようもない差というものは存在するのである。


 それでもなおペッパーが余裕であったのは、ソルトの目にそのように見えたのは、その巨体による突撃をどうにかできる手段があったからに他ならない。


 ソルトとシュガーは迫りくる『手負い』の強襲が、右方向の茂みから飛び出してきた何かによって、激しく突き飛ばされる様を見た。『手負い』は丸まった体勢のまま方向を変えて突き飛ばされ、暗がりの奥にあったろう樹木にその巨体の弾丸を突き立てたのであった。


 その際に生じた衝突は鋼金属がぶつかり合うような音ではなく、地の底にまで轟くような鈍く重低音であった。低音は彼らの腹を強かに打ち響かせ、衝撃を発し、森の枝葉をざわめかせたのである。


「お待たせしたでござるな」


 音もなく着地した何かは、紛うことなき人間であった。背は低く、されどその全身に渡って鍛え上げられた筋肉は武術家のそれであり、一片の無駄も不足もない。髪は無く、服は道着と帯のみで、靴などは履いてすらいなかった。


 彼は少しも油断を見せることなく、突き飛ばして転がした『手負い』の方向を鋭く睨みつけたまま、ゆっくりと構えを解いて立ち上がる。自然体ではあるものの、その立ち姿には呆れるほどに隙がない。


「彼の名はグレープ。俺たちが頼り、誇りとしている兄貴分です」


 なるほどと頷くソルトたちに目を向けず、グレープは静かな口調でもって、朗らかな笑みを浮かべているペッパーを嗜めた。


「ふざけた紹介をしている場合ではないぞ、ペッパー殿。奴が動き出し始めたので、ご準備を」


「やれやれ、楽はさせてもらえそうにないですね」


 ペッパーは剣を鞘に収めつつ、音も立てずに前へと進む。グレープと共同して、『手負い』を退治する算段であるらしい。


 ソルトが二人で戦う危険性について何をか言わんとする前に、落ち着いた声音が彼の耳朶を叩き、熱に浮かされていた思考をゆっくりと沈めさせた。


「あれでもあやつらは『手負い』より厄介な魔物を何十匹と倒している猛者よ。お主らが心配するようなことはないぞ?」


「……バニラ先輩?」


「如何にも、如何にも」


 ソルトとシュガーの振り返った先には、魔女と呼ぶに相応しい風格を備えたバニラが、気配もなく佇んでいたのである。


「いつの間に、ここに……」


「お主が店を飛び出してからずっと尾けておった。危機の際には手出しできるように、の」


「……そうだったのか」


 自身の軽率な行動について改めて反省し始めるソルトであったが、しかし逆にバニラは一人ででも救出をしようと決断した姿勢を良しと褒めたのである。彼女の評価を過大にすぎると彼は言ったが、けれども彼女は聞き入れない。


「むしろ魔道具を持っているのに行動しなかったら、お主は何のために魔道具を作ったんじゃという話になる。行動して正解だったんじゃよ。道具は使われるためにこそある」


「……いや、でもたった一人で魔物のいる森に入り込むなんて無茶だったよ。結果としては、確かにシュガーと合流はできたけど、何もできずに死ぬところだったから……」


「いや、人を救出するに足るだけの魔道具を揃えているのは確認しておった。お主が出て行ったことで責任が生じるのなら、それを止めんかった我も同罪じゃろ。ま、我は誰にも責められる気はないがの」


「でも……!」


「それに、魔道具の性能を見てみたいという欲求もあったからな。身体機能を上げるのも良いが、あの煙幕の魔道具は特に良かったぞ。相手が並の魔物であれば、あれを投げつけるだけで逃げ切れてるところじゃったろうよ」


 まあ、今回は相手が悪かったわけじゃがな、とバニラは肩をすくめて締めくくった。後輩に文句を言わせず、自身に対して文句を言わせぬと豪語するあたり、どうにも善悪の基準を無視した唯我独尊の風情がある。けれどもその態度は妙に彼女に合っていて、不思議な説得力が生じているのだ。


 そんな彼女の様子を見ていたシュガーは、恐る恐るといった風に、遠慮がちにバニラに問いを投げかけた。


「あの、他に助けは来るのでしょうか。いかに上級冒険者の方といえども、二人だけではあの魔物は荷が重いと思うのですが」


「うむ、確かに二人ではきつかろうな。だが、他の冒険者は村の警護じゃよ。つまり、助けは来ない」


 あっけらかんと言い放つバニラだが、しかしその声色には、聞いている者の心を安心させるような強者特有の自信が備わっている。


「我はお主らの守りをペッパーの小僧から頼まれてここにいるわけじゃ。万が一、『手負い』が逃走してこちらにきても、我が守ってやれるからの」


「いや、あの『手負い』相手に二人だけじゃきついって言ったよね、今。先輩が手伝った方が良いんじゃないの?」


 ソルトの不安を耳にして、バニラは二人におどろおどろしい笑みを見せた。それは見る者に対して襲い掛かろうとするかのようなおぞましい表情であったが、しかしソルトとシュガーは不思議とその表情に不気味を思わず、むしろ頼もしさすら覚えたのである。


 そして二人の思いが正しい感覚であるかのように、バニラはことさら愉快そうに言ったのだ。


「あの『手負い』相手に二人じゃ確かにきつかろう。だから、今は三人で戦っておるわ。まあ、気楽に茶でも嗜みながら、戦闘が終わるのを待とうではないか」


 そう言ってバニラは手の平から人数分の茶器を出し、ポットを片手に笑ったのである。



 茂みの奥の暗がりに、倒壊した樹木の根元に身を潜め、低い怨嗟の声を上げ続ける『手負い』を注意深く観察しながら、ペッパーは隣の仲間に問うた。


「グレープさん、手応えの方はどうでしたか?」


「相当硬いでござるな。急所を打ったはずであるのに、あの毛皮のせいか、受け身のせいか、威力が完全に浸透していないように見受けられる。正攻法で戦うとするならば、かなり厄介でござろうよ」


「ですよね」


 信頼できる戦闘巧者の言葉に、ペッパーは肯定の頷きを返す。自身の斬撃も『手負い』の肉を斬ることなく、その手前の毛皮で完全に防がれてしまったのだ。衝突音から、衝撃すら通ったのか怪しく、通っていたとしてもたかが知れている。


(恐らくは魔力か魔法による毛皮の硬質化といったところでしょうかね……)


 つまるところ、相手は天然の鎧を纏った狂戦士であり、生半可な攻撃で打倒できるほど甘い敵ではないということになるだろう。並のブラックグリズリー程度の硬質化であればペッパーの斬撃も通ったのだが、今回の敵はどうにも格が違うらしい。



「そこで、この七大黒天神御柱の朧巫女である罪業救済第九位階・死天之白光の出番というわけ……」


 声の主たる女性は、いつの間にか二人のすぐ側に立っていた。水色の髪をポニーにまとめ、丈の長い黒の神官服を着込んでいる。左目には眼帯を着け、右手には聖書を持ち、左手は右腕全体に巻いている包帯をしきりにいじっていて落ち着きがない。


 実力は確かで外見こそ整ってはいるものの、挙動と言動と格好の不審であるところが冒険者たちの噂となり、【残念美人】という二つ名を捧げられるに至っている。


「ショウコ殿、貴殿はどのようにあの防御を突破するつもりでござる?」


「……私はショウコじゃなくて、罪業救済第九位階・死天之白光」


 グレープの問いかけに反論しつつ、ショウコは右手に持った聖書を開いてそのページを幾枚かつまむと、そのまま一気に引き抜いた。左手に引き抜かれた聖書のページは白く眩い光を放って、彼女の手元を明るく照らす。


「ページは対象の魔力を吸収して光を照らす性質を持つ。私がページで対象の魔力を吸収するから、二人は白光の導きのままに攻撃を行えば良い」


 ショウコが比較的まともな説明を終えたと同時に、三人の前に『手負い』の巨体が現れた。音を消し、気配を絶ち、唸りすら抑えて強襲に臨むという行動は、今までの『手負い』からは考えられないほどに優れた不意打ちであったろう。


 前脚を軽く振るうだけで殺せるような脆弱な者たちに対して、このような行動に『手負い』が及んだのは、彼らが自身を殺しうるほどの実力を有していると認識を改めたためだろうか。否、それは生存本能による衝動的な発作の現れであったかもしれない。


 いずれにせよ、三人の意識の間隙を縫うようにして、その巨体は不意を打つことに成功したのは間違いのない事実である。


 その振り上げられた両腕は黒紫を纏って怪しく輝き、間もなく地表を穿つであろう。至近の三人はその広範囲に渡る絶撃を避け得る距離を稼げぬまま、巻き上げられる砂塵もろとも粉々に消し飛んでしまうに相違ない。


 けれども、死を前にしているはずの三人は逃げ出す素振りを見せるどころか、恐怖に怯えた表情すら浮かべず、平然としてその場に佇んでいる。驚いた様子もなく、身構えもせず、眼前の魔物に対する相応のアクションに欠けているのだ。


(何か策があるな)


 と、理性のある者ならば思って当然の態度である。しかし『手負い』の理性は狂気によって消滅しており、その行動の源泉は魔物の本能が持つ凶暴衝動によって突き動かされているに過ぎない。


 ゆえに『手負い』は相手の様子など気にすることなく、左右の剛腕を三人の中心に向かって力のままに振り下ろしたのだ。


 爆発と見紛う衝撃と振動を起こして大地を大きく傷つけることとなったその攻撃はしかし、僅かに大地を揺らすに止まった。


 自身の一撃が不発に終わったことに対して、『手負い』は疑問を抱いたのだろう。或いは、腕に異常を感じ取ったのかもしれない。自身の両腕に注がれた視線は、自慢の黒毛が一部の隙もなく、白く輝く紙片によって覆われているのを認識した。


 驚愕といった情動は、狂気に沈んだ『手負い』には存在しないはずである。だが、その動きが一瞬にも満たぬ僅かな時間、鈍ったことは確かであり、そして生じたその隙を見逃す三人ではなかった。


 声を出さずに音も消し、気配を落ち葉に紛れさせ、ペッパーは『手負い』の後頭部に貼りついている紙片を狙って愛剣と共に突進する。


 確かな手応えは、しかし至らなかったと持ち主に告げた。毛皮を突き破り、肉を断ち切り、けれども強固な頭蓋を穿つこと能わず、ゆえに剣先は致命に届かなかったのである。


 そして『手負い』は、致命でなければ動きを止めることはない。痛痒などはもはや感じず、多少の傷が増えたところで、それが如何ほどのものであろうか。後頭に位置する敵を払わんとして、『手負い』は魔力の通わぬ白き碗を振るう。


 魔力が抜かれて強化が効力を果たしていないとはいえ、その腕の一振りは凶器として十分に通用するだけの攻撃力を有している。そこまで考慮しての行動ではなかったろうが、『手負い』としては攻撃できれば何でもよかった。


 絶え間ない攻撃衝動に加えて生存本能までが絶叫を上げ、今までにない疾さをもって、腕を敵へと向かわせてゆく。


 しかし、どれだけ疾かろうとも、短絡的で直線的な攻撃は上級冒険者にとって稚拙に過ぎず、予測するにも値しない。数瞬の余裕をもってペッパーはその腕を見切ってかわし、振るわれた巨腕は虚しく空を切るのみであった。そしてそれが、決定打へと繋がった。


 巨大な剛腕の空振りがもたらしたものは、体勢の不安定だ。

 腕が後頭部を過ぎて高所に届かんばかりになったとき、肉体は腕に引っ張られ、僅かに腹部を外へと晒したのだ。それは『手負い』が生み出してしまったこの上ない隙であり、その瞬間、グレープの鉄拳が巨体の胸部中央を貫いた。


 空を裂いた鉄拳によって伝播していく衝撃は、周囲の肉体すら破壊して、胸部に小さくない欠損を与えたのである。


 心臓に送られるはずだった血液が欠損から溢れ出して地に滴り、『手負い』の動きを鈍重へと誘い、感覚を痺れさせ、熱量を失わせ、大質量の生命を外界へと流出させてゆく。


 それでも動きを止めぬ『手負い』と呼ばれる魔物は既に、化け物と呼ばれる領域に足を踏み入れているだろう。心臓を潰され、感覚は失われ、意思と理性を消滅させておきながら、敵に対する攻撃性は微塵も衰えさせることはなく、人智を越えた超常によって敵を屠らんと肉体を動かし続けている。


 もはやそれには意識すらないだろうが、しかし彼らは生命に対する敬意を込めることを決して忘れず――


「御免」


 その白く輝く首を的確に刈り、『手負い』の生命を完全に断ち切ったのであった。

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