死地ー1

 星々の淡い光が届き得ぬほど深い森の、どことも知れぬ闇の中にて、シュガーはその身を抱いて小さくうずくまっていた。


 幸いにして身体には怪我らしい怪我を負ってはいなかったが、それは冒険者のメロが防護の魔法を咄嗟にかけてくれたお蔭である。その防護によって、吹き飛ばされた際の衝撃や打ち身など物の数ではなく、軽い擦り傷程度で済んだのだ。


(でも、これって結構やばい状況だよねー……)


 身体は確かに無事ではあったが、しかし第二部隊の面々とははぐれてしまっている。抱えていたはずの銃は無く、用意してきた魔道具を入れた袋もどこかで落としてしまったらしい。けれども探す暇を惜しんで魔物から離れるように逃げてきたから、落とした場所など分かるはずもない。ここがどこであるのかも、日の落ちた今となっては少しも判断できないのである。


「走りに走ったから疲れてもいるし……これは詰んじゃったかな?」


 深刻な状況であるにも関わらず、シュガーの声音は場違いなほどに明るい。それは彼女が無意識のうちにおいてまだ生を諦めていないからであり、死に対する恐怖を意識上に浮かばせないように精神的な防衛機構が働いているためであろう。


 それに、夜が明けて多少なりとも視界が利くようになればどうにでもできるという自信が、彼女にはあった。


 もっとも、明るい声で自身を鼓舞しなければ不安になってしまうという意識も、多少は働いていただろうけれども。


 唯一の懸念としては、件の魔物に遭遇することであるが、こればかりは遭わないことを祈るしかない。血の臭いや唸り声である程度察知することはできるだろうが、見つかってしまえばおしまいなのだ。


 ともあれ、今のところは気配を消してこの場で大人しく待機していることが最善であると、巨大な魔物が現れた際の混乱から立ち直った彼女は判断したのである。


 自身の気配を消し、音も立てずに潜んでいれば、自然に存在している者たちの微かな息吹が聞こえてくる。その呼吸は音にも満たぬものではあれど、感覚野に届くか届かないかといったところで心地よさを生み出し、だけでなく、剣呑な魔物の気配が近くにはないことを明確に示してくれている。もし件の魔物が近くにいたなら、森はもっと生なき静寂に囚われていたであろうから。


 生物の鼓動を感じ取って落ち着いていた彼女の耳に、草むらに分け入り、落ち葉を踏むような雑音が響いてきた。一際大きなその音は、明らかに動物が立てている音である。


(魔物……じゃないね)


 しかし敵ではない、という可能性は低いだろうとシュガーは思う。

 なにせ、ここは人が滅多に立ち寄らぬ森である。第二部隊のような冒険者たちならともかく、並の人間が迂闊に立ち入るような場所ではない。


 そしてこの足音の主はどういうわけか、確実に自身を認識しているようである。足音の方向が真っ直ぐ自分に向かっていることからも、それは明らかであるとシュガーは確信している。


 使い慣れた銃はなく、用意してきた魔道具もなく、丸腰以外の何者でもないが、幸いにして身体に怪我は負っていない。


(逃げちゃうか)


 そう決断して腰を僅かに浮かせたところで、随分と懐かしく感じられる小さな声音が、彼女の耳へとゆっくり届いたのだった。


「……シュガー、いる?」


 声に次いで、暗闇を切り裂いたのは鋭いばかりの紅い眼光であった。それは紛れもなく彼女の愛しい弟分の持つ眼の光であることは疑いない。その魔眼の持ち主のお蔭で、今のシュガーはここに存在できているためだ。


「ソルトくん! 来てくれたんだね!」


 草むらから姿を現したソルトの声に向かってシュガーは駆け寄り、体勢を考えずにそのまま飛びつき、抱き着いた。彼は思わぬ不意打ちを食らって、彼女と共に落ち葉の布団へと倒れ込む。


 文句を言おうと口を開きかけたソルトだが、目の前に輝かんばかりの笑みを浮かべる彼女の姿を認めて、反射的に口を閉ざした。


「いやー、怖かったよ! もう駄目かと思ったね! ソルトくんが来てくれて助かった!」


「……その割には元気そうに見えるけどね」


 はしゃぐような声色のシュガーに、ソルトは虚脱する思いであった。無事で良かったという安堵と、これなら自分は来なくても大丈夫だったのではないか、という拍子抜けの思いが、彼の心を満たしつつあったからである。


「まあ、とりあえず帰ろうか。皆、心配してるし」


「んー……そうだね。第二部隊の皆が心配だけど、今の私たちじゃ足手纏いだろうし」


 二人は服についた落ち葉を払い落としつつ立ち上がったが、すぐに再びその場に伏せて、息を潜めて気配を殺した。


 濃厚な血の臭いが鼻腔に張り付き、身の毛もよだつ気味の悪い魔力が視界の端に入り込み、地鳴りのような唸り声が耳朶の奥にある恐怖を叩いたからである。


「ソルトくん……この状況、ちょっとまずくない?」


「かなりまずい……」


 肌で感じ取れるほどの魔力はともかく、一瞬にして辺りを包み込むほどの血臭さが漂っているのは明らかに異常としか思えない。そしてこの異常な状況は間違いなく『手負い』が引き起こしたものに違いないのだ。


(考えられるのは、『結界』か、『縄張り』だろうな……)


 怪我を負っている『手負い』は、暗闇での視覚に頼れず、そして自身に纏わりつく血の臭いで嗅覚が利いていない。頼れぬ二つの感覚を補うために、或いはそれに準ずるための、魔法的な措置を取っていると考えられる。


 その証拠、というわけでもないが、血の臭いを感じ取った途端に唸り声と気配がにじり寄るようにして、草むらに潜んでいる自分たちの方に向かってきているではないか。


「ソルトくん、どうする?」


「……僕がちょっとした合図を出すから。そしたら一気に撤退しよう」


「合図?」


 小声で問うてくるシュガーに頷き、ソルトは腰元の袋から手の内に収まる程度の小さな球体を取り出した。彼女にそれを見せる間もなく、彼はそれを前方へと放り投げる。


「耳を塞いで!」


 ソルトが叫び、シュガーがその言に従って耳を塞いだその瞬間に、球体は爆発を起こした。


 並の爆発ではない。巨大な爆裂音を数秒にも渡って発しながら、それと同時に強烈な黄色い閃光を辺りに輝かせ、むせるような臭気を付加した紫煙を周辺一帯に広げてゆく。その紫煙は『手負い』の血の臭いや魔力を一気に覆って隠し、なおも勢力を広げてゆくのだ。


「今のうちに!」


 ソルトはシュガーの腕を取って立ち上がり、即座に反転、逃走を開始した。足場の不得意に戸惑う彼女に暗視ゴーグルを手渡して、より一層速度を増し、一目散にその死地からの離脱を試みる。


「ねえ、さっきのってなに? 新作?」


「そうだよ。視覚と嗅覚と魔力の遮断を同時に兼ねる煙玉。使い捨ての試作品だけど、思ったより上手くいったみたいだね」


「さっすがソルトくん! それだけ封じられたなら――」


 雷撃のような凄まじい怒声が二人の後方から轟き渡るのを耳にして、シュガーは言葉を飲み込んだ。飲み込まざるを得ない。なぜなら、樹木の倒れる悲鳴が続き、草むらが薙ぎ倒される絶叫が近づいてくるのだから。


「……あいつ、真っ直ぐこっちに走ってきてるね。まずいなあ」


「そんなのんきなこと言ってる場合じゃないよ! ソルトくん!」


 後方から迫ってきつつあるのは分かるものの、その姿は依然として闇の向こうに潜んでいるままである。しかし少しずつではあるが、その距離が縮まりつつあるのが感覚的に理解でき、二人は文句を言うのも忘れて必死に走り続け、逃げ続けるしかなかった。


 だが、いつまでもそう逃げ続けられるものではない。

 着実に狭まっている具現化した死との距離が、その意識上によぎったのだろうか。


「あっ!」


 シュガーが足をもつれさせて転び、走りを止めてしまったのである。

 すかさずソルトも足を止め、彼女を助け起こそうとした瞬間に、背筋に走る悪寒を知覚した。


「ソルトくん……」


 彼女の視線を追って見ると、そこには紛れもない『手負い』の魔物が、巨大な威容でもって二人を見下ろしていたのである。


(これが……『手負い』か……)


 その眼光は禍々しさの極みであり、赤黒く澱んだ眼球の表面には、理性の一片たりとも認められることはできなかった。その目に映っているのは人間という名の脆弱な獲物であり、それ以上の感情など魔物は持っていなかったのである。


 魔物の巨大な体格から考えれば、眼下にいる人間などは二秒で踏み潰せる存在でしかないだろう。生物の中でも脆弱に位置する人間が、物理的な力で抗うのは不可能であろうし、魔法や魔道具の力をもってしても、よほどの威力を発揮できなければ、かすり傷一つすら与えられないに違いない。


 そう思わせられるほどに、『手負い』の肉体と眼光が放つ威圧感は凄まじかった。強大な肉体が纏っている魔力の揺らめきは脅威であって、その眼前に立ち塞がる者は皆、等しく蹴散らされるより他にないと諦観する以外にない。


 巨大な魔物の剛腕が動きを見せた際にも、ソルトはシュガーを助け起こそうとした姿のままで固まり、その『手負い』の腕を見ていることしかできなかった。


 数多の傷が刻み込まれているその腕を、動かすためには魔力を全体に巡らせる以外に方法の無いその腕を前にして、ソルトが思っていたことは命を失うことに対する諦観ではない。悲観でもなく、後悔でもなく、走馬灯を見ていたわけでもなかった。


 その頭の中はたった一つの、素朴な疑問によって埋められていた。


(いったい、何が『手負い』をここまで傷つけたのだろう)


 その刹那の思いは言葉として発せられることはなく、ソルトの心に興味の種火を残したまま、たちまち消し去られることとなる。

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