精霊ー1

 窪地から離れて、ソルトは再び歩みを開始した。

 その足取りは、心に巣食っていた不安が幾らか和らげられたためか、僅かに軽い。

 足元すら見えぬ深い闇に惑うことなく、光明無き道を苦と思うこともなく、信号の発する元へと向かってゆく。


 しかしそれほど経たぬ間に、彼の足は思わぬところで一旦の休止を余儀なくされた。


「……これは、ちょっと困ったな」


 彼は足元を見、落ち葉の群れと戯れているそれを拾い上げ、困ったように小首を傾げた。ソルトが拾ったそれこそシュガーに渡したはずのお守りであり、実のところ、お守りを模した魔道具だったからである。


 シュガーがこの場に訪れたことは間違いないが、しかしこの先いずれの方向へ進んだのか、落ちていた発信機を手にして手がかりを失ったソルトに知る術はない。かといって、ここまできて引き返すという選択など、一人で飛び出してきた彼が認めるはずもない。


「……仕方ない、緊急時だしね」


 気の乗らなそうな口調で独りごちた彼は、掛けていた眼鏡をそっと顔から外して腰元の袋に仕舞い込み、その可愛げのない風貌を夜の風に晒した。


 そこで一際目に引くのは、彼の紅い瞳である。

 その眼は光差さぬ闇の中において、鮮烈なほどの紅い閃光を湛えており、周囲の状態を観察するかの如く、鋭い煌めきを見せている。


 ソルトは闇を見通すその眼によって辺りをあちこち見ていたが、やがてすぐ側にある草むらの一点に目を留めた。注視するように目を細め、けれども強まる輝きは、そこに存在している何者かを見出したのだ。


「……ねえ、君。その草むらに宿っている君のことだよ」


 彼の呼びかけは、他の者にとっては空に向かって独り言を呟いているようにしか見えないであろう。なぜなら、そこには人間どころか獣すら、潜んではいないのだから。


 しかし、何者もいないはずの草むらから確かに、彼に応える声があったのだ。さながらそれは風のようで、彼以外の耳には届かない声ではあったのだが。


『……あなた、私がみえるの?』


「もちろん。僕の眼はどちらも魔眼だからね」


 静かで落ち着きのあるソルトの声音に、草むらの主は興味を引かれたのだろう。草むらから浮き出るようにして、その姿を彼の前へと現した。


 それは、身長にして約十センチばかりにも満たない、小さな生命体である。半透明の身体を持ち、さながら妖精の如き外見をしている。無性の裸体、背に鮮やかな色合いをした蝶の羽、身に纏う燐光は魔力の光で、横に伸びる耳は上下に軽く震えている。若緑に輝く髪は、女性のように腰まで伸ばしており、顔立ちはどこか子どもっぽくありながら、それでいて整った造形による美を有していた。


 倫理感が著しく欠如している商人がそれを見れば、如何なる方法をもってしてでもその存在を捕らえて獲得し、高値で売りさばくべく画策したであろう。


 けれども、ソルトは利益のためならば悪魔に魂を売りつけるほどの強欲とは縁の薄い人間であったし、その存在も彼にその種の悪意がないことを見抜いているようで、恐怖や怯え、警戒といった様子を少しも見せることはなかった。


 むしろ人間に対する好奇心が旺盛のようであり、ソルトの周りをぐるぐると回って飛翔している。そしてやにわに彼の顔の前で姿勢を止めると、物珍しげな顔をして、その小さな口から感嘆の意を吐いたのだ。


『どうやら、本当にわたしがみえるみたいね』


「そうだね」


『その魔眼のおかげかしら。ちょっと、わたしにゆずってくれない?』


「それは困るかな」


『そっか、ちょっと残念』


 言葉の割には少しも残念そうな素振りを見せず、その存在は声も出さずに軽く笑った。そんな存在を前にして、しかしソルトは真面目であった。真面目で真摯に接しなければ、たちまちのうちに去ってしまうだろうという直感が、彼に働きかけていたためである。それに、冗談が通じそうな相手にも見えない。


「ところで、精霊さん」


『なあに?』


「これの持ち主を知らないかな」


 そう言ってソルトが差し出したのは、シュガーが落としたであろうお守りの魔道具であった。自身の身長より僅かに劣るほどの大きさのそれを、精霊はほうほうと頷きながら、ゆっくりと手を伸ばした。


「――!」


 精霊がお守りに手を触れる瞬間、ソルトは咄嗟にお守りから手を離す。危険を察知した生存本能における、無意識的且つ反射的な反応であった。


 果たして彼の取った反応は、まさしく正解だったと言える。


 なぜなら、精霊の手が触れたお守りの魔道具は、その触れられた部分から水が染み透るようにして物質的な存在を消失させていったからである。完全に消えてなくなる、という意味ではない。物質としての要素が劇的な変化を起こし、精霊の身体と同じ性質の魔力体へと、変異を遂げていったのだ。


 ほんの数秒も経たぬうちに完全な魔力体と化したその変遷は、世界が秘している奇跡の一端に他ならず、ソルトに感動をもたらした。


(物質体から魔力体への完全変異……? どういう原理が働いているんだ?)


 驚きと疑問によって動きを止めているソルトに目もくれず、精霊はお守りを手にしてしきりに頷いている。かと思えば、精霊は手にしていたお守りの端を折り、その破片を口へと運んでゆく。むぐむぐと口を動かしながら、ああ、と何かを思い出したかのように、小さな口を軽く開いた。


『この魔力、おぼえてるよ。やたらげんきなおんなのこだったよね?』


 そして精霊の言う女の子の特徴は、シュガーのそれと一致していた。髪の色から口調まで、ぴたりと当ててみせたのである。


「……もしかして、話したことあるの?」


『はなしたことはないけど、このもりに出入りしてたことはしってるよ。めずらしくおいしい魔力だったから、よくおぼえてる』


 そう言いながらも、精霊はお守りを折って口に入れていく作業を止めようとはせず、遂には全て食べ尽くしてしまった。満足げな顔をした精霊はソルトの顔を見上げて、軽く首を傾げてみせる。


『それで、その女の子をさがせばいいのかな?』


「うん。協力してほしい」


 彼の即答を受けてしばらくあごに手を当てていた精霊だが、やがて納得がいったのかしきりに頷き、朗らかな笑みを顔に浮かべた。


『ことばだけで案内するのもむずかしいから、わたしがついてってあげるよ』


「! 場所が分かるの?」


『残り香はきえてないから、それをおっていけばよゆうだよ』


 胸を反らせて威張る精霊の姿を見て、ソルトは僅かに不安と疑心を抱いたが、他に手がかりのない状況であると思い出し、その提案をありがたく受けることにした。


『うんうん、素直なのはいいことだね。あなたのお名前はなんていうの?』


「ソルト」


『私はフラットだよ。ソルト、みじかい付き合いだけどよろしくね』


 朗らかな笑みを見せながら、フラットはその手を差し出した。握手をしようという、友好の意図を目しているに違いないのだが、しかしソルトはその手に応えるべきか躊躇する。


 なにせ、先ほどの魔道具はフラットの手に触れたことにより、物質体から魔力体へと変質してしまったのであるから。自身もまた、魔力体にされて食べられないとも限らないのだ。


 そういった彼の危惧を、その心中を、フラットは正確に読んだのだろう。無邪気な笑い声を立て、目尻の涙を拭いながら、ソルトに優しく語りかけたのだ。


『大丈夫だよ。生物にたいしてあーいうことはしないからさ』


「……そうかい」


 何事もなく握手をした後で、『……まあ、いきものの魔力はあまりおいしくないからだけど』というフラットの不穏な呟きを耳にしたため、ソルトは再び不安を胸へと抱くことになるのであるが。



 今の森には、強大な魔物の存在がある。その魔物によって人間の部隊が蹴散らされたのだとソルトはフラットに説明したが、フラットは特に感慨を抱いた風もなく、気乗りのしていなさそうな相槌を寄越しただけであった。


『まあ、でもシュガーって女の子のまりょくいがいはきょうみないからなぁ。まものの魔力はまずいし、ほかのひとのまりょくもたいていはおいしくないし』


「いや、魔物の魔力を食べたことがあるのが不思議だよ」


 シュガーが残している僅かな魔力の痕跡を辿りつつ、他愛のない話を連ねてゆく二人である。その話の中でソルトが驚いたのは、このフラットという精霊が別の場所から移住してきた過去を持つということであった。しかも人間と暮らしていたこともあるらしく、フラットという名はその生活の名残であるらしい。


「あの爺さんが聞いたら失神しそうな話だ。精霊があちこち移動するなんて聞いたこともない」


『居場所にあきたらみんなわりとふらふらしてるよー』


「人間と暮らしてたってことだけど、その人間は今どうしてるの?」


『さあ? 旅のとちゅうでわかれたからね。生きてるかしんでるかもわからないよ』


 まあ、どっちでもいいけどね、あんまり覚えてないし、と何の感慨も持たずにケラケラ笑いながら言い放つあたり、精霊の精神は人間のそれとは構造が根本から違うらしい。


 フラットはその人間の容姿どころか名前すら覚えていないらしく、よほど気に入った相手でないと記憶の片隅にすら残らないそうである。


(良き隣人、というわけでもなさそうだ)


 とソルトは思わずにはいられない。このフラットと暮らしていた人間は、恐らくとびきりに楽観的な人間だったのだろう。或いは、良い意味でいい加減な人間だったに違いない。そうでもなければ、この善悪定かならぬ、気紛れが具現化したような精霊が、一時的とはいえ一緒に行動を共にしていたはずがないのだから。


(もしかしたら、シュガーのような人だったのかな)


 ふと、彼がそう思ったとき、先導するフラットがその進行を突然止めたのだ。ソルトが怪訝に見遣ると、その身が微かに震えており、その手は口元を抑えている。


「……どうかした?」


『このさきに、シュガーって子のまりょくをかんじる。けど――』


「けど?」


『……そのもっとさきに、きもちわるくなるくらいにおおきな魔力のかたまりがある……それで、ちょっと酔った……』


 フラットのその震えは、禍々しいほどの魔力の波動が魔力体たる心身に影響を及ぼしたものであるらしい。肉体という物理的な鎧を纏わぬ魔力の身体は、その濃密によって大きな影響を受けるとのことである。引き千切られそうな感覚を受けることもあれば、頭痛や腹痛といった症状に悩まされることもあるらしい。


「……分かった。ここから先は、僕だけで行くよ。案内してくれてありがとう」


『気にしないでいいよ。私もはなすのたのしかったし……うっぷ……』


 ソルトはフラットの前へと出て、その先へと向かう。恐らく、フラットの言う大きな魔力の塊は、『手負い』の存在によるものであろう。


 シュガーが『手負い』と遭遇する前に、なんとしても合流を果たしてその場から即座に離脱しなければならない。


 フラットの視線をその背に受けつつ、ソルトは死地へと赴くのであった。

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