咆哮ー1
ブラックグリズリーが理性の光を宿してから、キーリたち第二部隊の面々は厳しい総力戦を強いられた。そしてそれは、狩人たるシュガーも戦闘の部外者ではいられなかったことを意味している。
その戦いは時間にすれば数分すら経っていない僅かな時間の攻防であったが、『一瞬』などという客観的に短い時の流れにおいて、彼女たちはその生命の時間を凝縮させたのだ。
それは、ブラックグリズリーですら例外ではなかった。
互いの生命を賭けた攻防は、生と死の円舞曲を演じていたようなものであったろう。一つの攻撃行動によって死を出迎え、一つの回避運動によって生を得られた。
一挙一動、いずれの攻撃も相手を死世に届かせんばかりの鋭さである。手先の技術は人間の方が上を取り、純粋な力は魔物の方が上を取る。どちらが優れていて、どちらが劣っているか、互いの優劣を比論するような下らぬ戯言は、この場においては微かな意味すら為し得ない。
この場にあるのは、生命を賭した戦いの結果だけであった。
生き残って往く者と、死んで往く者との、声なき対話があるだけであった。
前衛を担当していたキーリとロアは深い疲労に陥っていたが、しかし、その顔には喜怒哀楽のいずれでもない感情が備わっているようであった。魔物を打倒した達成感、充実感、満足感などといった感情とは、明らかに異なる種類の心が動いているように思われる。
そんな彼女たちの状態は無残と言って良い。身に着けている鎧は裂かれて砕け、今や鎧とは言えぬほどの残骸となり果てている。盾についてもほぼ同様で、その表面部分はかなり削られて摩耗しており、盾としての効果を期待することは難しい。体内に残っている魔力は使い捨てた幾十もの魔槍と大剣の鋭度強化、大盾の防護強化によってほぼ全てを使い切っており、気絶していないのが不思議なほどであった。
後衛については前衛とは違って魔物の攻撃に対応しなくて済んだが、しかしその分、前衛を援護する魔法の行使により、魔力の消耗が一層激しかった。魔力を経口補給できるエネルギードリンクを飲みながらの心身を削る魔法行使は、明らかに無茶を通り越して無謀ですらあっただろう。
だが、前衛も後衛も自身の命を削りながらでなければ、避け得ぬ死を前にして冷静と理性を得たブラックグリズリーを相手に、戦えなかったのも事実であった。
第二部隊の面々は満身創痍といった状態ではあったが、その目には生気が強く輝いていて、死に往く者に対する敬意が湛えられている。
対して、死に往く者たるブラックグリズリーにも、まだ息の根は残っていた。その身に宿る生命の炎はほんの僅かな種火ほどの小さな火勢に過ぎないが、しかしその肉体に刻み込まれた数多の傷を一目見たなら、命の神秘性というものについて思いを馳せずにはいられなくなることだろう。
生きているその姿こそが奇跡と呼べるほどに、ブラックグリズリーは惨たる有様であった。
左腕は肩から千切れ落ち、右腕は半ば引き千切れてはいるものの、その巨体から離れ難いと泣くかの如く、小刻みの震えが止まらない。第二部隊を苦しめた硬質な爪の先には新しい血液が次々と流れ落ち、地面に血溜まりを作っている。脚部の関節には魔槍の柄が折れたまま肉体に残っており、そしてそれは脚部に限ってのことではない。腹部・胸部・脇腹・腕部・喉元・頭部など、全身のありとあらゆる箇所においても、魔槍によって穿たれた痕跡が見られるのだ。いずれの傷痕も血流の脈道を的確に穿ち貫いているため、外部へと流出している血液の流れを留めることができないでいた。
全身を覆っていた黒い毛並みは流血によって荒れ、赤黒い斑に染まり、土と埃に塗れているものの、されど雄々しき強者としての威風を損なわぬは、それが彼の者にとっての意地だからであろう。
黄金の瞳に宿る輝きが弱くなっていこうとも、その奥にある心胆は少しも減じられることなく、色濃い意思を瞳の色に反映しているのである。
そこにあるのは、強者たる自らに勝ち得た弱者たちへの、惜しみなき賞賛であったろう。
両者は互いに見つめ合っていたが、やがて間もなく、片方の命脈がついに尽きた。
重たげなまぶたがゆっくりと閉じられ、黄金の瞳がその輝きを永遠に内へと収めてゆくと、覇気満ちた空間は僅かに弛緩の色を纏わせたのであった。
「……終わったわね」
「そうですね……」
残心を終え、どちらともなく息を吐く。長く、深く、呼吸を繰り返す。心身に圧し掛かっていた緊張をゆっくりと解していくように、安堵の実感を得るように、生きている現実を確かに勝ち取ったのだと認識するかのように。
「こんな疲れる戦い、久しぶりだったぞ……」
「しんどい……眠い……」
ロンとメロも盛大に息を吐き出し、互いに背を預け合って、そのままずるずると座り込んだ。
普段であれば叱責されるような気の抜け方であるが、キーリもロアも疲れきっており、双子の休息を咎めたりはせず、諦めたような苦笑で済ませた。
「シュガーさんは、大丈夫?」
「……はい、なんとか」
後衛からの援護に徹していたシュガーであるが、彼女もまた酷く疲労していた。そもそも、魔物との戦闘というものが今回初めてであり、さらには連携までこなさなければならなかったという事情であるから、より一層に神経を削ったことだろう。
連携を崩さぬよう、そして味方の邪魔をせぬよう、援護を行うのは相当に難しかったに違いない。けれども彼女は最初の戦闘で、しかも歴戦たる中級冒険者と一緒の戦いにおいて、その難行を成したのである。誰もができることではなく、非凡の才と言って良い。
「……ともかく、これで討伐作戦は終了ね。連絡を入れて、それから帰還するわよ」
キーリが腰に差し込んでいた通信機は外見こそ汚れてはいるものの、通信自体にはなんらの悪影響も及ぼさなかった。
「こちら二部。応答されたし」
『こちら一部。通信精度は良好なり』
「二部了解。こちら、当該目標の達成に成功した」
『一部了解。ただちに帰還を――』
「キーリッ!」
悲鳴の如きロアの警告を聞きながら、しかしキーリはそれ以上に、背後から突き立ってくる冷たい気配に焦燥を感じていた。それは、先ほどまで正面に対峙していた濃厚な死の色だと、彼女は理解したのである。
「ッ……!」
咄嗟に前へと転がり込んだが、一瞬にも満たぬ足への溜めが、彼女に傷をもたらした。否、足に力を溜めて転がらなければ、彼女は傷を負うどころでは済まなかっただろう。背中を熱く燃やすような傷の刺激が、そこから溢れてくる血の量が、死ではなく生を掴んだのだとキーリを強く説得していた。
転がり起きると同時に戦闘体勢を立て直し、そして振り返ったその先に、彼女は暗闇の如き巨影を見た。
「嘘でしょ……!」
キーリの視界に入った黒い巨体は、つい先ほど倒したばかりのブラックグリズリーであった。
(いや……違う!)
その魔物は、先に倒したそれよりも遥かに強大な威圧を放っていた。全長にして六メートルは下らぬその圧倒的な体格は、明らかに先の個体よりも格が上であることを示すものだろう。両腕全体に揺らめく紫色の魔力は濃密すぎる死の世界を感じさせ、目にするだけで気力を萎えさせ、体に震えを起こさせる。
その眼光は如何なる理知をも感じさせない、常軌を逸した殺意と狂気の色に染まっており、暴虐と蹂躙による凄惨を生み出すだけの暴力装置を思わせた。
いずれにしろ、尋常ならざる者であるのは明白である。
そして戦闘を避け得ぬことも、また明確であったのだ。
恐怖すら生温く感じられるほどの圧威を漲らせている凶獣を前に、さしものキーリも呆然として立ち竦まずにはいられなかった。無意識に構えた大剣が微かに震えているのは、その心の奥底から這い出ようとしている名も無き深淵によるものだろう。
糸の切れた人形のように立ち尽くす彼女を、しかし眼前の凶獣は何物とも思わない。邪魔とすら、思っているかどうか。
彼の者は当然のように、目に見える動物を視界から消そうとして、その剛腕を無造作に振るった。空間を叩き壊すようなその衝撃はしかし、キーリを直撃することは無かったのである。掠らせすら、しなかったのだ。
自失していた彼女を救ったのは――
「……ロア……?」
「しっかりして下さい、キーリ! ……やれますね?」
キーリが誰よりも信頼している、相棒のロアであった。
今の四人パーティになる前からの、初期から組んでいた相棒である。物心つかぬ幼き頃より一緒に育った、唯一無二の親友である。
その彼女の強い輝きが、笑んだ表情に浮かぶ眩しさが、虚脱に陥りかけていたキーリを救い出した。恐怖を払い、生気を与え、心の底から這い出ようとしていた深淵を封じ込め、戦う力を取り戻させたのだ。
「……ありがとう、ロア。私はやれる」
「それでこそ、ですよ」
二人は互いに頷きつつも、その視線を凶獣からは逸らさない。その狂気から、逃げ出さない。
刃の毀れた大剣を構え、切り刻まれている大盾を構えて、武具の損傷などどこ吹く風と言わんばかりに、二人は巨獣に正対したのだ。背の傷など、全身の疲労など、少しも感じさせないほどの気迫を纏って真正面から対峙したのである。
生命の輝きに満ちた強い視線に、覚悟の生み出す気迫の炎に、さしもの巨獣も感じ得るところがあったのだろうか。
彼の者は顔を上げて天を向き、山すら震わせ慄かせるほどの激する咆哮を轟かせると、足元の大地に向かってその巨大な剛拳を思い切り叩きつけたのである。
空間が、破裂した。
そう錯覚してしまうほどに、その強打は想像し得ぬ結果を生んだ。
大地を深く陥没させ、土砂や落ち葉を高くたかく捲り上げさせ、空間を破って砕かんとするほどの圧力と衝撃を、その場から広範囲に伝播させたのである。
天を覆っていた枝葉は錐揉むように吹き飛ばされ、その元たる樹木は倒壊し、薙ぎ倒され、遮られていた日の光は穴の開いた大地を照らし出した。
この凶獣による一撃と咆哮の響きは村にも及び、少なからぬ人々を驚かせ、動転させ、不安と恐怖の谷底へと突き落としたのである。
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