討伐ー1

 第二部隊のリーダーであるキーリは、報告を終えた通信機を音も立てずに腰に差し込むと、進行方向上の様子を窺っているロアに尋ねた。


「標的の様子はどう?」


「幸い、まだこちらには気づいていないようです」


 ゴーグルを装着しているロアは、その外周についている目盛りをゆっくりと調整し、視界の明度を確保してゆく。


 彼女の掛けているゴーグルの形をしたそれは魔道具であり、対象との距離が離れていても、注ぎ込んだ魔力の量によって見える距離が伸びるという代物である。加えて、ソルトの改造によって熱源分布による暗闇での視界確保の効果も付与されているため、暗い森であっても視野の狭さに悩まされることはない。


「しかし……確かに闇と同化してるわね、あれは」


 キーリ自身もロアと同じゴーグルを取り出すと、討伐目標の様子を観察しながら呆れたような息をついた。討伐目標の魔物はギルドマスターの推測した通り、ブラックグリズリーの成体であった。


 その毛皮は闇そのものであるかのように黒く、光を反射することがない。それはひとえに、毛皮に纏っている魔力の性質であると言われているが、性質などといった抽象的な説明ではなく、科学的なメスで切り開くことのできた研究者は未だにいないのが現状である。


 その眼は闇を切り開くような黄金の輝きで、これ以上なく美しい素材として珍重されていたものである。闇の中でその輝きを直視した者は、よほどの腕を持っていない限り、死を迎えることになるだろうと畏れられていたものだった。


 かつては【闇の暗殺者】という二つ名で呼ばれ、中級以下の冒険者からは忌避されていた魔物であるが、闇に紛れることがなければ大型の熊を相手にするのとそれほど遜色は無い。視界の利かぬ闇の中で戦うという状況になった場合、上級冒険者でも難儀する魔物である。


 しかし魔道具が一般に普及してからというもの、ブラックグリズリーの脅威が大いに減じたことは確かであった。なにせ、闇夜で視界を確保できる優秀な魔道具が、一般市場で取り引きされているのである。【闇の暗殺者】という二つ名もいつしか廃れ、今ではただの中級難易度に位置する大型魔物として、極々普通に警戒されるに至っている。


「キーリ、準備できた」


「大丈夫?」


「おお、ばっちりだぞ」


 メロが頷き、ロンが笑い、そしてキーリは苦笑した。この双子、どうにも緊張感という性質を欠いた人間であるらしい。


 実際に魔道具で魔物の姿を確認しても感嘆の声を上げるばかりで、恐怖や脅威といったものを感じている様子は無い。それどころか嬉々としている有様で、どうやって倒すか、無力化するか、といった相談を笑顔でする異常者である。


(まあ、頼もしいっちゃ頼もしいけどね)


 後方支援の双子であるが、その支援は的確で、タイミングも内容も、文句のつけようがないものであった。場合によっては前にも出てくることがあり、前衛の窮地を救ったことも二度や三度で済まないほどだ。


「……よし、シュガーさんはメロとロンの近くにいて下さい。この二人は後衛ですから、標的が狙う可能性は低くなるはずです」


「私も戦闘に参加して良いんですか?」


 ロアの言葉に、シュガーは尋ねる。シュガーはここで村に帰れと、或いはここでジッとして待っていろと言われるかと思っていたのだ。まさか戦闘に参加することになるとは、考えてもいなかった。


 疑問が顔に出ていたのか、ロアは頷いて彼女に言う。


「確かに、冒険者でない貴女を戦闘に巻き込むのは本意ではありません。ですが、すぐ側にいてもらえる方が一番守りやすいのです」


 魔物が近くにいる状況で、一般人を一人にしては危険なのだと彼女はいう。討伐難易度の高い魔物ほど知恵があり、今回のブラックグリズリー級の魔物ともなれば、自身にとって危険度の高い冒険者に立ち向かわずに逃げ出すことすら考えられるという。


 ましてや、今回は人との交戦経験があると考えられている魔物なのだ。武装をした冒険者と戦いたくはないと思っている可能性は否定できない。


「そんな状況で、貴女が一人で待っていたなら――」


「……狙われる可能性がある、と。でも、村に帰らせるという選択肢があったのでは?」


「本当に帰りたいと思っていたら、帰すつもりだったんですけどね。でも貴女は、実のところ帰りたいとは思っていないでしょう?」


「……バレてましたか」


「分かるものですよ。そういった考えは」


 シュガーは僅かに目を細め、ばつが悪そうに苦笑した。なんだかんだと言ってはいたが、この娘、母親に似て好奇心が強いのである。狩りに出ていたのも、害獣を駆除するという目的は二の次で、未知の森を探索したいという欲求があったからに他ならない。


 今回の魔物討伐における先導についても、シュガーはその好奇心を発揮したのだ。他の狩人よりも森の地形を知っているという理由で、自分から志願したのである。その目的は、魔物を自分の目で見てみたいというところにあったろう。


「ここまできたら、魔物が討伐されるのをしっかりと目に焼き付けておきたい感じですよ」


「困ったお嬢さんですね」


 シュガーとロアが二人して微笑み合うのを見て、キーリは話し合いが終わったと判断したらしい。ロンとメロに目配せをして、シュガーと共に後方に下がらせる。


 ロアは腰に括っている袋から半身を隠すほどの大盾を取り出して、キーリもまた同様に、半球型の盾を取り出した。彼女ら二人はロンたち後衛よりも魔物側へ一歩を踏み出し、各々の盾を構えて待つ。


「ロア、先手を任せる」


「分かってますよ」


 大盾を出したその武具用の袋から、ロアは柄の長い槍を取り出した。槍の刃には細く浅い溝が刻まれており、刃の全体に渡って細かく枝分かれしている。


「ふっ……!」


 ロアが槍を持つ手に力を込めると、槍の刃に刻まれた溝から淡い白光が零れ出た。その光は溝の隅々まで行き渡り、槍の刃と柄を包み込み、物質強化の祝福をもたらすのである。それは紛れもなく魔法であり、魔法を付与する陣が刻まれている魔槍であった。


「いきます……!」


 光に包まれた魔槍を投擲するべく、ロアは全身の筋肉を躍動させる。爪先へと沈んだ体重を全身運動によって手指の先へと移動させ、槍に体重が到達した時点を見極め、標的に向かって振り抜いた。


 彼女の手から放たれた魔槍は一筋の閃光となって空間を飛翔し、ブラックグリズリーが反応する意識の間隙をすら通して、その後ろ足へと突き立った。否、突き立ったという表現は正確ではない。鉄の如き毛皮を突き破り、鋼にも勝る筋肉を引き千切って、完全に貫き通したのである。


 一瞬の間を置いて、ブラックグリズリーの猛々しい咆哮が空間を慄かせた。その響きに含まれる怨嗟と憤怒と恐怖の念は、歴戦を経た中級冒険者たちが前進を躊躇してしまうほどに、重く昏い死の色によって彩られていたと言って良い。


 その僅かな躊躇によって、第二部隊の面々がブラックグリズリーの隙に乗じて追撃を加えるという図式は完全に失われた。


 なぜなら、ブラックグリズリーの絢爛たる眼光が憎々しげに煌いており、憎悪に塗れた視線が彼女たち第二部隊の面々を射殺さんばかりに注がれていたからである。


「怯むな、いくぞ!」


 キーリは皆に怜悧な言葉を耳から通して冷静を湧き立たせ、面々の目に勇気の輝きが灯った感覚を背中に受けつつ、一人で一歩、前へと踏み出す。


 彼女の一歩を見た魔物は、微かに怯みの色を見せた。がしかし、後ろ足の痛みと痺れが逃亡の二文字を消し去ったのだろう。怯えの色はすぐさま反転し、激情と殺意の空気を纏う。


 色濃く漂う殺意の中で、キーリと魔物は互いの目に映る敵を注視し、噴き出してくる恐怖を抑え、相手の間合いに踏み込んだ。


 そして一手先んじたのは、ブラックグリズリーの方である。


「――――!!」


 言語に絶する雄叫びを喉奥から発しながら、その千年の大樹にも劣らぬ太い右腕をキーリへと叩き落とす。全長にしておよそ五メートル、四足による歩行であることを鑑みても、その高さは三メートルを下らない。


 頭上から真っ直ぐに振り下ろされる豪腕は、黒い奔流となってキーリを潰さんとする勢いで襲い掛かる。瞬きすら許されぬ刹那の間に、しかし彼女は笑みを浮かべた。


「見え見えだね」


 キーリは言葉にしなかったが――そもそも音として発せられるほどの時間はなかったが――彼女の意図は確かに、対峙しているブラックグリズリーへと、目に見える形で伝わっていた。


 彼女を縦から叩き殺さんとした豪撃は、その機を見極め、振るわれた盾によって見事に軌道を逸らされ、むなしく空を切ったのである。空を切ったことによって生じた隙は、時間にすれば極々僅かなものにすぎなかったが、こと数瞬にて攻防が幾度も入れ替わる戦闘においては、あまりに大きな空白であった。


 空を切った右腕をそのまま払おうとするブラックグリズリーの挙動よりもさらに早く、その右脇の根元に槍が突き立てられた。先の如く、白光を纏った魔槍である。ゆえに当然、それを敢行したのは、キーリの相棒たるロアである。


 彼女は標的から目を逸らさぬまま、口元を笑みの形へと変えてみせる。それはキーリに対する無言の応答であり、現状が順調に推移していることを表していた。


 一方のブラックグリズリーは、右腕を振るおうとしたその付け根、右脇の根を貫かれたからたまらない。とはいえ、その巨大な体躯に比すれば魔槍による傷など、精々が針に刺されたようなものだ。傷口から生じる痛みと熱さはそれほどでもなく、けれども激昂するには十分で、右腕による薙ぎ払いは先の振り下ろしよりも一層の速度をもって目の前の敵を散らさんとして振るわれる。


「おっと」


 キーリもロアも振るわれる豪腕からの攻撃範囲から一瞬早く飛び退いて、その攻撃を容易に躱す。見て分かるほどの大振りで、避けるだけならわけもない。だが――


「直撃したら死ぬね、こりゃ」


 完全に避けたはずだったが、二人の盾には横に三本の、浅からぬ溝が生じていた。明らかに爪痕であろうその溝は間違いなく、先の豪腕による薙ぎ払いがもたらした傷であると思われた。濃い黒色が入り混じった紫の魔力が薄らと揺蕩っていることから、魔法攻撃の類であることは紛れもない。


「遠距離攻撃とか反則でしょう……!」


 ロアも自身の盾に傷がついたことに驚きつつも、その表情には凄絶な笑みを浮かべていた。その頬には豪撃の余波による一筋の裂傷が生じていたが、それを気にした風もない。


 そう、これは互いの命を賭けた闘争の場なのである。その高揚は恐怖を塗り潰し、怯えを抑え、精神と思考を研ぎ澄まし、弱き人間を一等の戦闘者へと変えるのだ。敵の動きの僅かな隙すら見逃さず、自身の僅かな隙すら生み出さず、ただただ敵を必殺する機会を狙い、死の世界へと突き落としてゆく討伐者へと変貌させるのである。


 それは冒険者たちにだけ言えることではなく、対峙している魔物においてもまた、言えることであったろう。互いの眼に宿る光は自分たち自身が思っている以上に鋭く輝いており、打倒と勝利を望んでいることが手に取るように分かるのだから。


「油断するんじゃないよ! ロア!」


「分かっています!」


 先の攻防が終わって現在、一瞬の行動が生み出す間隙をそれぞれが狙っている状況だ。


 下手に動けばすぐさま攻撃が飛んできて、前衛が一名減ることになる。中級の魔物とはいえ、その巨腕から繰り出される大質量の攻撃をまともに受ければ、一時的な戦線離脱は免れえないからである。そうなれば、前衛一人で攻撃を捌かねばならぬという圧倒的不利な状況へと推移し、そう遠からないうちに後衛にも被害が出る可能性があった。それは、冒険者たちにとって最も避けたい展開であろう。


 ブラックグリズリーとしても、迂闊には動けない状況だ。真っ先に一撃を放てば、つい先刻と同じようにその間隙を突かれ、少なからない一撃を受けることになる。肉体を刺した魔槍は既に圧し折れ、傷口からの出血はほとんど固まりつつあるものの、しかし内部深くにまで浸透した細く長い損傷は、完全に無視できるほどには軽くない。鈍い痛みと激しい熱が体奥の芯をしばしば刺激し、焦燥と冷静を同時にもたらしているのだ。


 互いに相手の出方を窺う膠着が数秒続き、そして均衡は破られた。


 破ったのは、前衛によって魔物の視線から秘されていた、後衛のロンとメロの二人であった。

 水晶球の嵌められている杖を掲げたメロが、その小柄な体躯に似合わぬ大声で、素早く詠唱を口にしたのである。


「光あれ! 其は太陽の化身なり!」


 詠唱は魔法を起動させる、音声認識の類だと思って良い。幾つかの合言葉を鍵として魔法陣の起動核に認識させ、内蔵した魔石に連結させることにより、魔石内の魔力を中心に消費して現象の励起を可能とするのである。


 そしてメロが励起させたその現象は、詠唱の示す通りであった。


 齢を積み重ねた樹木の伸ばしている枝葉によって生み出されていた暗闇が、白橙色の暖光に照らされ、その闇色を全て白に染め上げたのである。


 陽光の如き暖色は、杖から打ち出された光球による恩寵であった。直視するのも躊躇われる太陽の眷属は、彼女らの頭上に高々と位置を取り、ブラックグリズリーの網膜を焼かんとしてその熱光を放っている。


 その眩い光には、さしものブラックグリズリーの金眼であっても目を閉じざるを得なかったようであった。低い唸りを漏らしつつ、魔物は僅かに、だが確かに前衛の二人から顔を背けたのである。


「今っ!」


 などと声を上げる愚など犯さず、歴戦たる冒険者であるロアとキーリはブラックグリズリーに攻めかかる。大盾を持っているロアが陽動として背けた顔の正面から行き、キーリは背けた顔の逆方向から回り込む。


 キーリの手に握られているのは、先にその身を守った盾と、そして身の丈ほどの長刃を持つ大剣である。分厚い鉄板を叩いて伸ばしたような鉄塊たる平剣は、持ち主であるキーリの勇躍と魔力に応えて蒼い幻炎をその刃に帯び、その意思に従い、ブラックグリズリーの左肩へと勢いよく突撃した。


「――――――ッ!!!」


 五メートルにも及ぶ巨体の、生物としての生存本能がその絶叫を上げさせた。

 光の下で行われているその戦いは、英雄の伝記によって語られるような、誰もが憧れる戦いではない。血を流し、涙を枯らし、息を乱して苦悶に呻き、それでもなお生の温かみにしがみつかんとする、死の冷たさから逃れんとする、数多の生物たちが行ってきた生存競争の再現図である。


 キーリの放った有効打をさらに繋げようとしたものの、しかしロアはかろうじて追撃を踏み留まり、だけではなく、その場から一歩後退した。直感に従って後退していなければ、彼女は地面の土ごと裂き殺されていただろう。濃厚な死を纏った紫爪の空刃が、彼女の立っていた足場をごっそりと抉り取っていた。


「くっ……なかなか厄介ですね……」


「焦らないで、ロア。私たちは確実に、こいつを追い詰めている」


「そう、ですね……!」


 燦然と照り輝く光球の下にて、キーリは強気な笑みを浮かべてみせた。ロアもまた、彼女の笑みに乗っかるように、気丈な笑みを浮かべてみせる。二人は互いに、これからが正念場であるということをその戦いの経験から、感覚的に理解していた。


 なるほど、確かに目の前の魔物は大きく傷ついている。作戦が通じ、攻撃が通じて、少なくない血を流させている。しかしそれらの事柄は「だからどうした」という一言で、一蹴される程度のものでしかないのだ。


 魔物はまだ意気軒昂としており、むしろ戦闘開始前よりも戦意が旺盛になっているほどだ。血液が体外に流れ出ることにより、頭に上っていた血もやや収まってきている頃だろう。


 これからは、単純な戦術や生半可な小細工は通用しない。

 その確信が二人には、いや、後衛に位置する二人の冒険者にもある。


 今やブラックグリズリーの金眼に宿っているものは、当初に見られた憤激や怯懦などという負の感情ではなく、怜悧な知性と平静な沈着であった。どちらを狙い、どう攻撃し、どうやって生き延びるか、生存するために必要な思考を持った、理性の光であったのだ。

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