2章 12話 鬼との激突①
カッシーラの商業区、そこの一等地に大きく看板を掲げる商会がある。
昼間はごった返すほど多くの人々が行き交うその場所は、不思議なことに夜になると地元民は決して近寄ろうとせずひっそりと静まり返り、出入りするのは一部の関係者のみ。
『夜にここに近付いてはいけない』それはカッシーラで暮らす人々なら幼い子供でも常識として教え込まれるものだった。
――商会の名を『ガルシア商会』という。
『ガルシア商会』の歴史は浅い。意外なことに町への影響力の割りに商会長のガルシアが裸一貫で立ち上げてからまだ二十年を過ぎた程度だった。
小さな町の商人の三男として生まれたガルシアは昔から腕っ節と野心、そして少しの商才があったが、堅実な両親の敷くレールにうんざりしていた。
つまらない現実。自分の才能を活かせない未来。そんな鬱屈した日々を捨て、二十歳前に単身カッシーラに逃げ込むように居場所を求めてやってきたのだった。
照らす光が強いほど、闇もまた濃くなる。それは商機が転がっているチャンスでもあり、カッシーラはガルシアの望んだ通りの場所だった。
表向きは日々拡大するカッシーラの町の建材屋として機能し、裏では非合法な物も取り扱った。
荒くれを集め武力とし、女をあてがい弱みを握り、じわじわと商会を拡充させていく。しかしながら決してガルシア自身が傑物というわけではなく、ちょうどカッシーラを取り巻く環境や状況にタイミング良く噛み合っただけに過ぎない。それでもたった二十年ほどで構成員三百人(チンピラを含めれば五百強)の裏の組織へと育て上げた手腕は内外から畏怖されている。
ただ、彼のアキレス腱が一人娘の『ミラ』であることを把握しているものは少なくない。
もちろんそれは同時に逆鱗ともなり得る。今までミラに手を出そうとして一体何人の人間が
最愛の妻を若くで亡くし、娘を溺愛する。それは決して珍しくもない光景だったが、父親が権力を持ちすぎるとそれは笑い話にならない。
そしてある意味ではカッシーラの裏のお姫様とも言えるお嬢様のミラは残念ながら『おてんば』という冠が頭に付いた。
護衛をすり抜け、いかに父親を困らせるか、鬱屈した家庭環境にある思春期の子供特有の行動は彼女にも現れていた。ここ最近のお気に入りは旅行者の財布をくすねること。それで自分はいつでも自立できるという父親への精一杯のアピールにもなっていた。もちろん、被害にあった旅行者からすると堪ったものではないし、警備兵には何度かバレてはいたが、ガルシアの一人娘だということでお目こぼしもされていた。何度か盗まれた金額の倍以上の金を握らせ事件そのものが無かったことになったこともある。
自分のあずかり知らぬところで快く思っていない父親に守られていたなんて知ると、ミラはきっと激高するだろうが、蝶よ花よとおだてられ育ってきた彼女の稚拙な考えではそこまで頭が回らないのも無理はないのかもしれない。
そんな彼女にも、今回だけはさすがにカッシーラの警備側も放ってはおけず、現在は町管轄の病院で面会謝絶扱いの入院を余儀なくされていた。
それはもちろん、ガルシアにとって心地良いものではなく……。
「そろそろお酒は控えた方が宜しいかと思いますが」
四十半ばに見える髪を少し剃り上げた男――ガルシアは忙しなく貧乏揺すりを繰り返しながら、心配する声を無視し豪華な机の上に置いた酒を知ったことではないというふうに呷った。
酒に強いガルシアはこの程度で潰れることはなかったが、どうしても不快感を消すために酔いに頼ってしまいたかった。
彼に声を掛けたのは直立不動で部屋の隅に控えている初老の男だ。
年齢は五十代から六十代。いくつも白い毛が混じる髪を柑橘系の匂いが混じる整髪料で後ろに固めており、背筋をピンと張って執事服に身を包んだ彼の佇まいはまさに執事のお手本とも言えるような装いと様相をしていた。
二人の関係は見た目通り、雇い主と雇用人である。ただし対価は特殊だった。
「まだか?」
「まだです」
主語も目的語もない二人だけで通じるそっけない会話。これだけで二人の親密さが窺い知れる。
けれどガルシアの方は不満気を隠そうともしない。待つ時間を繋ぐようにまた口にコップを運び、顔を背けたくなるような酒気が強い息を吐く。
それを見かねて執事の男が小さく鼻で嘆息をもらしてから主人を気遣って話題を出す。
「そのように懸念されなくても、あれは実力だけはあります。必ずや目的を達成することでしょう」
「それは分かっている。『バータル』、お前たち一族の優秀さは俺が一番よく知っている!」
「では……」
「それでも一分一秒でもミラに危害を加えたやつに報復したい。そんなやつがのさばっていることが我慢ならんのだ!」
ガルシア自身の怒りは執事には向いていなかった。そして町を牛耳る商会のボスはここにはいない。目の前にいるのはただ娘を傷つけたものへの復讐を企む一人の父親だけだった。
それが分かっているからこそ彼――バータルは、自分こそが最適にガルシアのサポートができるように冷静にならねばと胸の奥で自戒を刻む。
「もうしばらくお待ちを。ツォンは至らぬ孫ではありますが必ずアレンという冒険者を連れてくるでしょう。そのあとは総動員して下手人を捜し出し八つ裂きに致します」
真顔で恐ろしいことを述べるバータル。
その目は決して冗談で言っているようには見えない。
アレンが今カッシーラを騒がせミラに被害を追わせた
そして吸血鬼に襲われた人間が‘魔力欠乏症’に近い症状を出している話は二人を慄然とさせた。
魔力欠乏症は不治の病。これは誰でも知っている常識だ。もし本当だとすればどれだけ金があろうが努力しようが死への旅路を邪魔することは何人にもできやしない。
真実を確かめるために、手掛かりを持つアレンとコンタクトを持ちたいと考えたのだが、さすがに牢の中に入れば手出しの仕様が無かった。しかし、釈放されると聞きつけすぐさま手下を放つに至る。
バータルの懸念としては、協力を仰ぎさえすれば良いので大金を積んでも構わないと思っているのだが、孫のツォンは脅しと暴力で連れてくるつもりのようでそれがどう転ぶのか読めないことだった。
彼の実孫であるツォンは、人間離れした資質を持っており、ガルシア商会に正式に所属したのはここ数年のことだが腕力で解決する場面では最も頼りになる存在として認められている。
たった数人で敵対組織の放った十倍以上の刺客と戦い組み伏せたり、子分が暴力を受けたという理由だけで一人で組織を壊滅させたり、果ては三メートル以上はある魔物と遭遇し素手で勝ったりと若くしてすでに逸話に事欠かなかった。
当然、アレンから聞き出した情報で吸血鬼を特定したあとは正面切って叩き潰すことを期待されている。
けれど、どうしても思考が単純傾向というか、ハッキリ言って馬鹿なのか悩みの種だった。
「そこは疑ってはいない。ただ娘の身柄の引渡しすらできんというのはどういうことだ! もっと質の良い魔術士の医者がいる病院に移せるはずだというのに……」
娘のために治療費は惜しまない彼の思いを深い愛と見るべきか傲慢と見るべきかは人によって見方が違うかもしれない。ただバータルにとってはこれは肯定だったのでそこに異存は無かった。
彼にとってもミラという少女は単なる主人の娘というだけではない。とある縁で生まれたときから知っている自分の孫娘のように可愛がっていた存在で、それを傷付けられたことは父親のガルシアに匹敵するほどに噴飯やるかたない思いを抱いていた。
「大方、ダルフォールあたりの差し金でこちらを挑発しているのでしょう。ですがここで兵士たちや領主と表立って対立するわけには参りません。ここで下手な動きを見せれば自身の首を締めるだけです。ご辛抱を」
「分かっている! あの男、いつも何かと俺の邪魔をしてくれる! だがいよいよとなったら悪いが俺は娘を取る。契約を違えた卑怯者といくらでも罵ってくれて構わない」
「……いえ、ミラ様も大切な同胞です。感謝こそすれ私に責める資格などはありません。それにどこまで確度のある情報かも分かっていません。ダルフォールには効きませんが、彼の部下に鼻薬を嗅がせて得た‘魔力欠乏症’と似た症状など前代未聞のはずですから」
金で転ぶ人間に大きな信用など持てない。もたらしたのが不治の病に感染したかもしれないという眉唾ものの話では、どこまで本当に信じていいのやら、という疑惑もあった。
ガルシア商会とダルフォールの因縁も、ダルフォールが兵士長に就任してから数年、すでに浅からぬものになっていた。
貴族の後ろ盾があるおかげで面と向かって取締りをされることは避けられてきたが、ダルフォールの妨害工作が障害となり商売がやりにくくなった事例はいくつもあり、それを思い出してガルシアの額に皺が寄る。
さらに今回は娘の命に関わる妨害となるとさすがに怒りを静めることは難しい。
ガルシアのイライラはかつてないほどに達していた。
「まぁあいつのことは今はいい。今はそのアレンとかいう冒険者のことだな」
「はい」
数人の冒険者を捕まえるために七十人ほどの規模の集団を向わせたのだ。成功することは火を見るよりも明らかだった。だが思ったよりも帰りが遅いのも事実でガルシアは落ち着きがない。
数秒もしないうちにまた口を開いた。
「天恵使いというのはそれほどに強いのか?」
その問いにバータルは一瞬考え込む。
魔術以上の効果を発揮する『天恵』というギフトは当たり外れはあるものの、時に数の差を覆す力を秘めているのは常識としてある。
アレンの天恵は事前に仕入れており、剣を操れるというものなのは承知していた。ただ情報を鑑みても一対一や複数相手程度ならまだしも、数十人規模に路地で同時に襲い掛かられれば大して役に立たないと踏んで送り出している。
それにバータルは孫のツォンが自分以外にやられるところを想像ができなかった。技術はまだしも、石すら素手で砕ける膂力と、無類の耐久力を誇るのだ。一度でも相手を掴んでしまえばツォンに負ける道理がない。
「分かりません。私が実際に見たことがあるのは、自分が触った物の重さをほとんど無くせる者や、視界に入ったものに物理的干渉を与えるとかそういうものです。有名どころでは【雷公】や【飛翔】などおりますが、どこまで私たちと張り合えるかは未知数です」
天恵持ちの数は少ないが種類は多岐に渡る。戦闘用でないのも多く、アレンのように戦いに使えるものの場合は冒険者になりやすく一般的で名は知られやすい。
【雷公】と【飛翔】というのはどちらもランク6の有名な天恵持ちの二つ名だ。遠い地の興味が無い者の耳にまで届くのはそれぐらいで、それ以上となると同じ町にたまたま能力を発現した者がいれば知っているぐらいなものだった。
「勝てるか?」
「お望みならば」
だがその人を超える能力を有している人間に勝てる、とバータルは即断する。
ガルシア商会の武力を支えた自負がそこにあった。
「お前は昔から――」
ガルシアがしゃべろうとしている途中――突然、けたたましい破砕音が背後から聞こえ、足元が揺れるのを感じながら咄嗟に生存本能から体を丸める。
背後の壁が爆散したのだ。
粉々になった土や石、それに家具の破片などが跡形も無く室内に散乱する。
品の良い絨毯はまくれ上がり、壁に掛けられていた優美な絵画や調度品が一斉に床に落ちて割れた。
「旦那様!」
バータルが呆気に取られたのは刹那の時間のみ、すぐさま己の職務を思い出し主人に駆け寄る。
脳裏にまず浮かんだのは何者かの襲撃だ。ここは三階、周囲には商会直属のガードマンも配しており普通なら小石を投げ込むことすら許さない警備網、しかしありえないと断じるにはまだ早い。
ガルシアの無事を確認し、砕かれた壁を見る。小さな石壁に漆喰を塗られたそれなりに頑丈な壁は今や穴が開いて外が丸見え状態。ぽっかりと開いた穴から覗く外は少し涼しい風が感じられすっかり夜になっている。そして薄い噴煙が腰の高さまで部屋を覆っていた。
「だ、大丈夫だ……」
同時に何かが部屋にどさりと投げ込まれたのを発見する。
それは黒いなにか、だった。目を細めるも煙が邪魔をして確認出来ない。
得体の知れないものに対し、主人であるガルシアを背中で守りながら入り口のドアの方へと避難させようとする。飛び散った建材がいくらか当たり多少のダメージを負っていて元気はないが、死ぬほどの傷ではないのが唯一の安堵を感じさせるところだった。
書類や割れた壺などが足が当たり、転ばないよう主人を支えて開けられた穴から距離を取った。
「一体何が……」
訳の分からない焦燥感に煽られるこの状態にぼんやりとバータルは過去を思い出す。
まだ商会として大きくなる前はのような襲撃や窮地、今までいくらでもあった。その度に跳ね除けここまでやってきたという矜持が彼にはあり、むしろ懐かしさすら覚え、知らず心は高揚していた。
久し振りにガルシアを触った感触はぶよっとした肉。若い頃よりも太ったことに時間の流れを感じ、ここを抜けたらギラついた野心と引き締まった肉体が詰まっていたあの頃のガルシアに戻すため鍛え直そうと心に決める。
「こんばんは」
バータルはその言葉に、びく、っと肩を揺らした。
あまりにも気配が無かったからだ。だというのに目を向けると亡霊のようにいつの間にか開いた穴に音も無く誰かが立ち塞がっている。たった十数秒ほどの間にだ。
――ここは三階だぞ!
という言葉が喉から出掛かっているのをバータルは止めた。そんな質問は無意味だ。すでにそいつはそこにいるのだから。
今の衝撃で揺れて止まろうとしない、天井に吊られている一つで部屋全体を照らす質の良い魔道ランプが明滅しその顔を映す。貴族以外では大商人クラスでしか持ち得ない超高級品だが耐久性は通常のランプと大差が無く、この状況で完璧に壊れていないだけマシとバータルは判断した。
警戒の色を露に光に照らされる侵入者に焦点を合わすと、それは黒い装束を身に纏った少女だった。
その声音や顔色に、欠片も緊張や気負いというものがない。それがむしろ余計に不気味さを醸し出す。
ここはカッシーラの裏の顔であるガルシア商会だ。そこに敵対行為をしにやってきたにしては明らかに違和感があり過ぎた。まるで近所に買い物でもやってきたかのような気楽さがある。
気が狂っている。バータルの第一印象はそうとしか思えなかった。
闇に紛れる黒装束で殴り込みを掛けてくるなんて暗殺者以外にない。けれどそれにしては絶対におかしい点が一つある。
それは――顔が丸見えなことだ。
どこの世界に顔を見せる暗殺者がいるというのだろうか。もちろん絶対殺すという意気込みのプライドや決意を持った腕利きであればそういうこだわりをもつ者もいるかもしれない。
しかしここは天下のガルシア商会で、自分がいる。この十数年間、山のようにガルシアのライバルたちの喉笛を掻っ切ってきた【尖爪のバータル】を知らずここにやってきたにしてはお粗末が過ぎるだろうと思考した。
「しっ!」
バータルは上着をめくり、その二つ名の由来となった‘ナイフ’を一本指に挟んで投擲する。
その様が獣の爪に見え、獲物を執拗に追って逃がさないことから裏世界でのみその二つ名は付けられた。
それはグリップや柄など無く刃先と持ち手の部分があるだけの、無骨なまでにただ人を殺すことに特化した極限まで重さを削った‘投擲用’の武器だ。やや刃の部分が大きくして重心はそちらに偏っていた。
一度の動作で掴みそのままの動作で攻撃を仕掛ける。
通常投擲は、武器をしっかり握り、そこから狙いを付け、そして振りかぶって投げる、と三行程必要だったが、研鑽された動きはほぼ一行程に見えるほどの流麗さを持ち合わせていた。
ナイフと言っても侮ることなかれ。人体の急所に命中すれば服の上からでも間違いなく即死の威力がある。しかも弓などに比べて呼び動作が短く間違いなく室内戦向けだ。それを達人が操るとなると素人は攻撃されたと意識する前に絶命していることもあるだろう。
人を死に至らしめるにはオーバーキルは要らない。頚動脈を切り裂く、頭蓋を貫通し脳を突き刺す、または臓器を傷付けるだけで良い。要人警護を主な仕事とするバータルからするとナイフは最も適した仕事道具で、極めれば弓矢どころか相手を殺めるスピードはどんな武器をも凌駕すると自負している。必要最小限のエネルギーで必要な効果をもたらせばいいというのは彼の信条だった。
実際、数メートルほどしか彼我の距離が無いこの場では、これは雷を避けるのにも等しい困難さと言っても過言ではない――はずだった
「へぇ、投げナイフか」
事も無げに放たれた凶器を半身捻るだけで避け、そして指で掴む人外がそこにいた。小生意気そうだがまだ少女と言ってもおかしくない年齢の化物だ。
たった今、自分を殺傷しようとしたナイフをまるで雑貨屋で選ぶかのように興味深そうにまじまじと見つめる表情に、ぞくっとした悪寒と戦慄がバータルの背筋に走る。そして自分の自慢の魔弾があっさりと破られたことに愕然と――はしなかった。
得意技が知られて有名になるということは敵が減る一方で、対策を練られることはままあるものである。さすがに指で摘む者は初めてだったが、血なまぐさい世界に身をやつしてきたバータルはここで手を休めるほど
――それに今のが本気と思ってもらっては困る!
まだ切り札は隠し持っている。
ただし、この一合で自分が本気を出さないといけないほどの強敵だと知れた憂いは残っていた。高速で飛来し回転するナイフを掴むなんて人間技ではない。これはランク6に匹敵するレベルかもしれず、主人の身の安全が何よりも第一だった。
相手の推定される脅威度を数段上げながら、直ちに最大の技を繰り出す。
「はっ!」
両の手に四本ずつ、執事服の裏地に仕込んだ計八本のナイフを指で挟み時間差で放つ。
優れた戦士が経験と予感をフルで駆使すれば、バータルが懐に手を入れたときに危機を判断し、すぐさま回避を試みるか、運良く盾や障害物に隠れてやっと凌ぎきれるかというもの。見てからでは防げない必殺の一撃だった。
先に左手から、これは体の真ん中ではなく狙いはやや外側にズラしていた。こうするとことにより逃げ先を誘導する目的がある。硬直したタイミングで右手の本命をぶつける算段だった。
その予想は当たる。バータルから見て右側に少女が重心を移動しようとするのを集中しきった意識が捉えた。そこに必中の二撃目を叩き込――もうとした瞬間、右手に鈍痛が走り脳を揺るがす。
ちょうど離す寸前だったため、ナイフは散乱してあらぬ方向へ飛び、体勢を崩しながらスローモーションの世界で顔を傾けるとバータルの右肘に小さな子犬がいた。
驚愕に目を見開きながら、答えの出ないいくつもの疑問が頭の中を駆け巡る。
「豆太郎ナイス!」
少女の場違い感極まる嬉しそうな声音が飛ぶ。
これでバータルの疑念の一つは解消された。目の前の少女が使役しているのだと。
今まで気付かなかったのはこの小ささと、敵に気圧されていたせいだと決め付け無駄な思考は頭の隅に追いやる。
少女の異常さに飲まれているせいか、生き馬の目を抜くような修羅場からは久しく遠ざかっていたせいか、バータルはまだ自分が敵対者を侮っていたことを猛省する。
「まだ!」
まだ空中に投げ出されているナイフを一本指でキャッチし、隙を晒す少女に投げつけた。驚異的な反射能力だ。ただし体勢が崩れて狙いとスピードが少し甘い。
侵入者は平然とそれを避けながら、なんと‘壁’に足を付けた。
――ありえない!!
胸の内でバータルが絶叫する。
人が壁に立つなど常識ではない。そんなことが可能であればそれは魔術か魔道具か、なんらかのトリックがあるはずなのだが、そこまではさすがにすぐには察せられない。
けれどバータルはありのままを受け入れた。瞠目に値するその
奇しくも相手も似たような長さの剣だった。ただし刃が反り返っている曲刀。
脳にある知識が南方の人間が幅の広い曲刀を好んで使うということを過ぎらせる。
「はぁ!」
「せい!」
一刀と二剣が上段から噛み合い乾いた金属音が生まれる。
ただその姿は片や地面、片や壁に足をつけ、まるで奇術師の演目を見ているかのような滑稽さがあった。
斬撃の応酬にタイミングを計る。
重力の概念など勉強として教わらずとも、バータルには人が壁に足を付けて立っているという不自然さは分かっている。ただそれよりはこれをどう攻略するかということしか今は頭になかった。
大人と子供ほどの体格差があるのに力比べではむしろ負けそうになっているのに舌を巻き、バータルは左手の短剣を逆手に盛って次の手を打つ。
重く腰に来る攻撃を二本の短剣で一旦受け止め両方の短剣に付いている護拳と刀身の根元で相手の刀を挟み込み捻り上げた。
なまくらや疲労が溜まっているやわな剣であればこれで武器破壊も可能な一手だ。ただ今回はむしろ自分の剣の方が悲鳴を上げている。
愛用の武器の耐久力をガリガリと削られながらも向こうが無理やり引き抜いてくるのを待った。
――きたっ!
目や体の筋肉の僅かに発する信号を読み取りその瞬間に拘束していた短剣を刀から離す。
するとその反動ですっぽ抜けたように相手は一歩退いてしまう。それこそが求めていたチャンスだった。
左手で最短距離の刺突を放つ。位置的に心臓ではなかったが肋骨を抜け臓器に達すればそれでも致命傷だ。
相手の素性を確かめられなかったのは残念ではあるものの、手加減して勝てる相手ではないのはこの数瞬だけでバータルは理解していた。
だから一切の慈悲はない。
しかしながらそれは空を切る。
「なっ!」
この声は部屋の隅にいるガルシアだった。バータルはもはや声も出ない。
翻る少女はあろうことか、今度は‘天井’に足を付いていた。
壁走りができるのなら天井も歩けるのが道理なのかもしれないが、そこまで飛躍した予想ができるはずもない。一度は飲み込んだはずの常識がまた牙を剥いて襲い掛かってくる。
そしてここはガルシア商会の商会長の部屋だ。客に自分の力の一端を見せ付けるため応接用のソファもあり、高価な調度品が並び広さもかなりある。天井もそこそこ高い。
つまり何が言いたいかというと――逆さに張り付く少女とバータルはちょうど目線が同じ位置になっていたのだ。
その驚天動地の光景に息を呑むバータルが見たのは、どや、というニヤニヤ顔だった。
悪魔の嘲笑にしか感じられず背筋にぞっとしたものが走る。
刹那の間が開き、振りかぶられる白刃。
パニックで行動停止にならずそれに対応できたのは数々の死地を乗り越えてきた体が反応したからに他ならない。
だがあまりに咄嗟過ぎて踏ん張りが利かず押された。しかもそのせいで短剣に刃こぼれが起こるのをバータルの目は見てしまう。その間に少女はついにバータルらと同じ地面に立った。そして無慈悲にも詰め寄ってくる。
致命傷は必至。その代わり刺し違える思いでバータルは決死の覚悟を決めた。
時間がスローになる極限の集中の中、そこに四角いキューブのようなものが自分の側面に飛ぶのを彼は見た。
次の瞬間、眩い暴力的なまでの閃光が部屋を埋め尽くす。
「きゃっ!」
「ぬぅ!」
「これはっ!?」
三つの声が部屋に生まれた。
それは護身用としてガルシアが持っていた閃光を発する魔道具だった。四角いそれに欠片でも魔石をはめ込むと数秒後に強烈な光を発するというもの。
ランプのように簡単な構造の物なら模造品も高級ながら作られているが、まだまだ遺跡から発掘されてた魔道具は解明されていないものの方が多い。信じられないことに数百年、あるいは千年以上の時を経てもその効果は如何なく発揮される。
ガルシアとて単に隅で怯えて逃げるだけではなく、それを使うために部屋の隅で留まっていたのだった。中年太りを意識していても腐っても闇の帝王の面目躍如だろうか。
光はバータルの側面で爆発した。この中で最も被害が少ないのは彼である。そして次にそれを投げたがやや目を閉じるのに遅れてしまったガルシア、そしてモロに光を食らった少女だった。
目が見えず、数歩苦しそうに瞼を押さえながら後ろに下がる。
バータルはこの好機を見逃すほどお人好しではなかった。
すぐさま上着の裏からナイフを抜き取り、無防備な少女の頭部に投げかける。
しかし、それは一匹の子犬に再び阻まれた。
何をどうしたのか自分の身長の何倍もを跳び上がり高速で飛ぶナイフを爪で弾いてバータルを威嚇する。
三度目のバータルの空がひっくり返るかのような常識が崩れる出来事だった。
もはや目の前の生き物たちが自分の物差しで計れる存在ではないことを確信し、もう決して動揺しないこと、そして本気を出すことを決める。
さらにあまりにもかけ離れた存在を前にして、彼はここで己の信頼する武器を使うのを止め、この場に最も適したものを選ぶことにした。
「ふんっ!」
むんずと部屋の中央にある五人ぐらいが掛けて座れる高級ソファーを軽々と掴み持ち上げる。
「なに!?」
子犬がきゃんきゃんと鳴き喚く。まさか犬の言葉が分かるとは思わないものの、それに反応してようやく少女の青ざめるような驚く顔が見れてシリアス顔をしながら内心でバータルはほくそ笑んだ。
そして力任せに少女に向って振りかぶる。
普通は持ち上げるのも一苦労しそうなソファーもとんでもない膂力の持ち主に掛かれば凶悪な打撃武器に早変わりした。
部屋の高さの半分とまではいかないが、それなりの大きさの物体が室内で振り回されれば面攻撃となり、逃げる箇所はほとんどなくなる。
風を切るスウィングで目も効かない少女はまともに横殴りのソファーで打ち付けられた。
激震が商館自体を揺らす。それほどの衝撃だ。かっ飛ばされ壁とサンドイッチ状態になって潰れたかと誰もが思ったつかの間、壁の方が耐え切れずに壊れ、少女は外に放り出されてしまう。
普通なら死ぬ。殴打と落下ダメージで当たり所がどれだけ良くても骨は砕け臓器や肉は潰れ血管は破裂し、全身ぐちゃぐちゃで生きているのも不思議なほどの怪我になるだろう。しかしバータルはこれであの少女が無力化できるとは到底思わなかった。
少女の連れていた子犬が彼女を追ってその穴からダイブするのが瞳に映る。
飼い犬ですら事も無げにそんなことをするのなら飼い主はもっと強い。わけの分からない理屈だが、確信めいたものがあった。
拠点とも言える場所から異物を排除したがバータルは欠片も安心せず、すぐさま穴に近付き眼下を見下ろす。
その瞳は紅く怪しげに佇んでいた。
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