2章 9話 アレンの受難

 時間は葵たちが入浴を始める時間まで少し遡る。

 宿屋の裏側に隣接するように設けられた馬房にアレンはいた。

 独特の獣臭さと糞などの匂いが充満していてあまり居心地の良い場所ではないが、彼にとっては懐かしくてそこそこ馴染みのある空間だった。



「どうどう、ほら気持ち良いだろう?」



 声を投げかけながらアレンはここまで旅してきた馬に丹念にブラッシングしてやっていた。

 獣毛の固い毛でできたブラシで強過ぎないように毛並みに沿って何度も梳いていく。

 よほど気持ち良いのか、馬は快適そうに目を細め微動だにせず為されるがままだ。

 人間と違って手足でかゆいところが掻けない体型だから、馬はこうして定期的に世話をしてやらないと木や建物に無理やり体を擦り付けて勝手に怪我したりするので必要な作業である。借り物の馬とはいえ、誰かがやってやらないといけなく、アレンは自分からその役を買って出ていた。

 脇や頭を撫でてやると目を細め、心地良さが言葉にされなくても伝わってくる。



「よし、次は腹と足をやるぞ」



 人の言葉が通じないのにいちいち話しているのは、声を掛けずに接近するとびっくりして蹴られることもあるからで、それをアレンは幼少期からの経験で心得ていた。

 元々、実家が宿屋で、冒険者として家を出るまではずっとベッドメイクや料理、それにこうした馬の世話なんかもさせられていた彼は、馬の相手もお手の物。

 腕の袖をまくり一気に毛並みを揃えるようにブラシでこびり付いた砂埃を払いのけていく。

 一梳きごとにくすんだ色が鮮やかになっていった。

 

 ひとしきり全身を手入れしてやると鼻先をぴとっと軽く腕にこすり付けてきて、尻尾がぶんぶんと揺れているのを見つけ苦笑する。これは感謝と甘えている表現だ。

 アレンとしてはここまで働いてきた馬にご褒美をあげることは当然のことだと考えていたが、こうして分かりやすいリアクションで返してくれるというのは彼にとっても心が休まるものらしい。自然と口の端が緩んでいる。

 

 カッシーラのギルド長の臆面も無い賄賂要求に腹を立てた憤慨はもう落ち着いていた。

 アレンの常識や美学ではありえないことだが、詰まるところ自分はよそ者で上級冒険者でもない若輩者。そんな自分が何かできるはずもなく、この問題はカッシーラの人々が解決しなければならない類のものだと思い至ったからだ。

 それよりは今は、パーティーの女性陣たちについてお悩み中であった。

 


「お前は人間の、それも気分でコロコロと考えていることが変わる女連中とは違うな」


 

 投げかけた皮肉の指す対象は、先ほど宿に着いたなり、お風呂に入るとガンとして譲らなかった女性陣のことだった。

 野営しているなら数日ぐらい水浴びもできないなんてよくあること。それが贅沢を覚えてきて気が緩んでいるように映ってしまっていた。


 お手入れ用具を片付け、馬房の壁に体を預け腕を組む。 



「まだ日は高い。やれることはあるのに、もう一日終わった気になってる。あいつのせいで他の二人までわがまま言うようになって頭が痛いぜ」



 三人だけのときなら多少振り回されることはあっても、パーティーの真ん中にいつも自分がいた。

 それが今は‘アオイ’がいることによっていつの間にか端っこにいるような疎外感をアレンは感じていた。

 特にミーシャは十年以上付き合いがあるのに、アレンにとっては最近考えてることが分からなくなることがたまにあった。出会いがそれほど良いものではなかったのは確かだが、気安くなってからは男友達のように仲良くなっていたはずなのに、よく分からない反応をすることがままあってアレンにとってはそれは違和感となってくすぶっていた。

 もちろんそれは未だにミーシャを仲間としてしか見ていないアレンと、アレンに恋心を抱いているミーシャのすれ違いなのだが、アレンがそれに気付くにはまだ時間とキッカケが必要になる。


 そしてそのミーシャ以上のじゃじゃ馬である‘アオイ’が加わってからアレンの心労は輪を掛けて溜まっていっていた。



「最近抜け毛が多いんだよなぁ」



 クシにびっくりするぐらい毛が挟まっていた記憶が過ぎり、髪の毛を触り頭を振る。

 それから思考は徐々に葵へのことにシフトしていく。



「……なんなのかねぇあいつは」



 言ってること無茶苦茶で常識がない。なのに人間離れした実力やありえないアイテムで大の大人が逃げ出すような無理難題も力ずくで解決する。そして孤児たちの面倒を見る甘ちゃん。突拍子が無さ過ぎて、それにみんなが惹かれる。規格外のモンスターみたいなもの。

 それがアレンの見てきた葵の評価だった。

 あるいは、



「――英雄か」



 人の手には余るドラゴンのような脅威を下し、万の軍勢と相対しても怯まず、誰もが成しえない奇跡を起こす者。

 おとぎ話しや寓話、吟遊詩人の詠う物語の中でしか邂逅しえない存在。

 それはアレンが子供の頃に夢見た理想だ。しかし村を出て冒険者になり現実を知ると理想に届かない自分に半ば見切りをつけていた。こうしてギルドの言うことを聞いて葵の監視を続けるのは、是が非でもランク4になりたかったのは必死でもがこうとした現れでもあったのだ。


 ふと、古くなっている天井を眺めながら自分自身を省みる。

 休みを最小限にし、ランク4手前まで駆け抜けた一年に比べ、このカッシーラへの道のりはアレンにとって不必要なものだ。もちろん受けなければ蜘蛛騒動で壊滅した村の復興を手伝わされていたのもあるが、遠回りをしているこの旅に同行しているのになぜか不満や焦りは生まれなかった。

 あれほど欲したランク4への昇格はなぜか今は執着が薄いことに気付いた。

 


「俺はなぜ? ……そうか」



 奇天烈な葵に諦め切れなかった‘英雄’の姿を重ねて期待してしまっている自分に思い至る。

 オリビアやミーシャたちも葵が普通の人と何か違うというのを感じ取っていたのはアレンも知っていたし、クロリアのギルド長すらも似たようなことを言っていたのを思い出した。

 


『――ただし、あれは竜巻みたいな自然災害と同じような存在だ。独自の価値基準で動き、気ままで何者にも縛られない。行く先が魔物だけに向かうならいい。しかしその力が強すぎて俺たちまで巻き込まれることになるかもしれない。そう断言できるほどの逸材であることは確かで、英雄かどうかは大多数の他人からの評価で決まるもんだが、あいつはおくびにも他人の評判など気にしないだろう。俺はいつかあいつがとんでもないことをやらかす気がしてならないのが不安で仕方がない』 



 ギルド長は村の復興やアオイをランク4に無理やりさせたことへのクレームなどで顔が土気色になるほど多忙を極めていて、それが余計に内容の真剣味を増し、呼び出されたアレンたちは固唾を呑んで出発前にそんな話を聞かされていた。


 何となく、葵のことは異質だとアレンも感じている。強さだけの話じゃない。同じ人間で会話が成立できるにも関わらず、能力も価値感も思想も着ている服さえも文字通り一線を画している存在だった。

 葵よりもまともに見えた景保ですらもあっち側の人間だと理解させられていた。

 


「いつか俺だって……」



 直近でむざむざと思い知らされたのはもちろん土蜘蛛姫戦だ。

 目を向けられるだけで死を覚悟するほどの存在。ただの冒険者がどうこうするべきものではなく、まさしく人類全体で挑むべき敵だと直感した。

 今でも悪夢だったんじゃないかと錯覚するほどの最悪の遭遇エンカウント


 それでも抗った。土蜘蛛姫に一撃でも与えられたのは、仲間に背中を押されたアレンの意地だった。

 結果は指先ほどの傷のみ。自嘲じちょうの笑いすら出なかった。

 すぐに意識が飛び、回復したあとにはなぜだか理由は不明だが強くなっていた。

 されども葵たちに追いつけたとは思っていない。でも一歩近づけたという確信はあった。

 ただ強くなったはずなのに戦えば戦うほど力量の差をまざまざと実感させられていた。

 ここ数日の葵との訓練で多少は天恵も制御できるようになってきたが、おそらく使いこなせてもまだ届かないだろうということはアレンも自覚している。



「あいつは大昔にいたらしい、精巧な人造人形レプリカンドールと言われても納得しそうだ」



 数百年、下手をすれば千年以上前にいたと今やおとぎ話でしか出て来ない存在。いたかどうかも定かではない。想像がつかない葵の正体にアレンは適当にあたりを付けた。 


 あの土蜘蛛姫との壮絶な戦い、その終盤しか見ていなかったが天変地異のような闘争が繰り広げられていたのはまだアレンの瞼の裏にこびりついている。

 空は血のような紅い壁で覆われ、そこに氷でできた龍が舞い踊り、戦場は大地震がやってきたかのように亀裂と穴だらけの荒野。家屋はそんな戦いに耐えられるはずもなく当たり前のように倒壊していた。

 視界に収めただけで震えが来るような異形の化物との死闘は、予想も常識も遥かに逸脱していた。

 

 アレンの最初の感想は言っちゃ悪いが化物対化物だった。それでも葵から土蜘蛛姫みたいに恐怖を感じないのは、理不尽に人を傷付けるやつではないと信頼があるからに他ならない。

 何よりボロボロになってまで自分たちを逃がすために戦ってくれたのだ。



「なのに言い返さないだもんな、あいつ……」



 アレンの頭には、さきほどカッシーラのギルド長になじられたのに反論すらしない葵への無念さがあった。

 結果的に村人は助からなかったが、オリビアや他の冒険者メンバーが助かったのは間違いなく葵のおかげで、それに対する恩がどうしても疑うギルド長を前にして横で静観することを許せなかった。

 『交渉事は熱くなった方の負けだ』と冒険者のいろはを教えてくれたジ・ジャジの苦い言葉が胸に過ぎる。

 


「あいつが何かをやらかすのかを見てみたい。そういう気持ちがあって、いつの間にか目が離せなくなっていっているのは事実だ」



 ギルド長からはあの葵という狂犬の鈴に、必要なら首輪にもなることが期待されている。

 それは知らせるだけじゃなく、ストッパーという意味だ。

 正直、良い気はしないが、葵に魅せられていることは嘘じゃなかったし、近くで見たいという思いがあって引き受けた。

 だから本当は止めるどころか、どんなことを葵がやるのかを見てみたいというのがアレンの本音だ。



「こんな話、絶対に本人にはできないな」



 言えば調子に乗る。

 ふーん、とかそっけなさそうな態度を取りながら、口元は間抜けなにやけ面を隠せなくなるのが目に浮かぶようだった。

 


「や~、今日も楽勝だったね~」


「ホント、温泉に浮かれてる間抜けな旅行者って良いカモよね~キャハハ」



 馬房で一人考え込んでいると、突如外から軽薄そうな若い女たちの笑い声が差し込んできてアレンがはっと我に返る。

 馬の微かな息遣い以外は聞こえない静かな空間を侵すよう無遠慮に入ってくるその声音に好感触は抱けなかった。



「トイレに服を隠しといて、お風呂でカモの番号札をすり替えて、あとは財布と貴重品を奪って逃げるだけ。店員もいちいち客の顔なんて覚えてないし、悪い噂が立つから店が勝手に隠蔽してくれるからやりたい放題よねぇ」



 詳細は分からないが、どうやら悪事の話らしい。

 どこにでもこういう輩はいるし、いちいち正義感を出して相手していたら身が持たないことはアレンも承知していた。

 その間抜けな旅行者には気の毒だが、と思考し放っておくことに決める。



「それにしてもあの金髪のお姉さんの体はマジやばかったねぇ。私が男なら襲ってたわ」


「それに比べて赤髪の子は同情してあげたくなるぐらいつるぺただったわね。ひがんでるのかずっと冷めた目でこっち睨んでたのは怖かったけど。あ、でも黒髪の子はバランスは良かったわ」



 ――あん? 金髪と赤髪と黒髪? まさか……な。あいつらもそんなバカじゃないだろ。


 盛大に嫌な予感がしてキリキリと胃が痛くなってくるのを感じて、手で腹を抑える。

 


「聖女に会いたいなんてクロリアから長旅ご苦労さんでやってきたのはいいけど、ちゃんと現実も見てもらわないとね~」


「キャハハ、ウケる~」


「おい、絶対あいつらじゃねーか!」



 慌ててアレンが馬房から飛び出した。

 いきなり血相を変えて現れた男に当然のように少女たちはうろたえ目を瞬かせる。



「な、なにアンタ……」


「お前らの盗んだもの返してもらおうか」


「ハァ!? 何言ってんのよ。アンタ誰?」


「俺は……その間抜けなやつらの仲間だ。抵抗するなら力づ……って、ちょっと待て。せめて全部しゃべらせろ!」



 アレンが前口上を全部言い終わる前に少女たちが選んだのはいきなりの逃げの一手だった。

 迷いが無く、常習犯を窺わせるほど鮮やかな動きだ。

 しかし追走するアレンの足は速い。今はラフな格好と剣一本のみで、鍛えてもいない少女たちなどすぐにも追いつけそうだった。



「こっちは鍛えてんだ。ただの女に負けるわけねぇんだよ」


「ちょっと変態、付いてこないで!」


「誰が変態だ! 盗んだもん返せって言ってんだろーが!」



 見た目的には怪しい人間に見えないこともないが、大義名分があるアレンとしては騒ぎになっても最終的に勝つ自信があるのでアグレッシブにならざるを得ない。自然と口や態度が荒くなる。

 ぐっと地を蹴る足に力を込め距離を詰める。


 もう少し。手が届きそうな距離まで縮まった。



「うわっ!?」



 突然、横合いの道から木材を肩に担いだ厳つい男たちと鉢合わせしてたたらを踏んでしまう。

 ぱっと見、どこかの土建屋の下働きといった人相だ。

 ちょうど分断された形になる。

 


「おい兄ぃーちゃん、危ねぇだろうが!」


「助けてー、そいつ痴漢よ!」


「何!? おい今の話、本当か? あんな若い子ら相手に何しようとしたんだ? あぁん?」



 ――うわ、すっげぇ嫌な予感しかしねぇ。


 分かりやすい展開に頬が引き攣ってるのが分かる。



「ま、待て、あいつらは、えーと窃盗犯だ。俺の仲間の財布を盗んでそれを追い掛けてるところなんだ」


「あぁん? なーんか怪しいなぁ」 



 急に説明できなくて言葉に詰まってしまったのがいけなかったのか、信じてもらえなかったらしい。

 


「いいからそこをどいてくれ、逃げられちまうだろうが!」


「お前の方こそ逃げようとしてんじゃねぇのか? ほら、ちょっと来い」


「うるせぇ、邪魔すんな!」



 右腕を掴んできたので、アレンは左手でそいつの小指を逆さにねじってやる。



「いでででで」



 ここ数日の模擬戦で葵がしてくる体術を真似てみたのが思いのほか上手くいった。

 滑稽なほどに屈強な男が急に悲鳴を上げる。

 そのまま小指を外側へ振って足を引っ掛けると無様に転がった。



「あいつ護身術だとか抜かしてたが、こんなの平気でやる女を一体誰が狙うんだよ……」



 自分のしたこととは言え、鮮やかに決まって相手が哀れに見えてしまい愚痴を一つこぼす。

 そんな余裕すらアレンにはあったが、ここで足を止める猶予はない。



「てめぇ、何しやがる!」


「悪いな。こっちも急いでるんだ」


「あ、待ちやがれ!」



 急いで駆け出すと背中から男の仲間たちの制止する声が聞こえる。

 


「待てと言われて待つやつがいるか! ってこれ完全に俺が悪者じゃねぇか?」



 一人突っ込みをしながら少女たちを追うと、路地にはいない。すでに大通りへと出ていた。



「くそ、人が多い。どっちだ?」



 すぐに通りに身を出すが、さすがに観光地として名高い町だけあって、往来の人の数は多い。ぎゅうぎゅう詰め、とまではいかないまでも歩く人の間隔は狭かった。

 右か左か、どっちに行ったかもすら分からない。ただ逃げる人間というのは目立つものだ。


 目だけじゃなく、耳も総動員して観察するアレン。

 すぐに左の人垣の群れにぶつかって誰かが文句を言う悪態が聞こえた。

 その奥に視線を注目すると、いた。あの二人だ。


 即座に追い掛ける。しかし一向に人の波で進めなかった。

 牛歩のようにしか進まず距離は遠ざかってはいないようだが近付いてもいない。気だけが逸る時間だった。



「すまん」「悪いな」「急いでるんだ」「ごめんってば」「通してくれぇ!」



 人をかき分け、多少の罵声を浴びせられながらそのたびに謝り徐々に詰める。

 もし見失ったら今日初めて来たばかりの土地勘の無いアレンには追う手段は残されていない。多少のマナー違反もやむを得ない状況だった。

 二人がさらに横道へ入ったのを捉えた。その方がアレンとしてもありがたい。


 遅れて再び路地に入ると左右の壁となる建物が高く、真昼間だというのに薄暗い場所だった。

 どこの町にだってある一角で、いわゆる‘掃き溜め’の場所だ。特にこの町は闇が濃いという噂もあったのをアレンは思い出した。

 少女たちがそこでフラフラとしている男たちに何やらアレンに指を向けながら話しているのを見つける。

 


「そこの女は俺の仲間の財布を盗んだやつだ。捕まえてくれ!」



 大きな声でけん制するように叫んだが、男たちに反応はない。

 ざっと五人。薄ら笑いを向けながらアレンに近付いてくる。

 身なりは薄汚れていて顔付きからしてもとてもカタギには見えない。ゴロツキがピッタリ当てはまる風貌だ。

 厄介そうなのは全員が剣を持っていることか。その間に少女二人はさらに逃走を開始した。

 

 ――くそ、何回同じことさせんだ。


 胸の内で毒づく。



「俺はあいつらを追っているだけだ。邪魔しないで欲しい」



 警告は一応した。

 けれどアレンの懸念通り言い分を訊く気はないようで背後の女らに見向きもしない。

 おそらく、少女たちの仲間とかそんなところだろうと適当に見当をつける。



「それ以上近付くなら怪我をさせることになるぞ」


「やってみろ!」



 ようやくリアクションがあった。ただ残念なことはそれが口火となって一斉にアレンに向って剣を向けてきたことだ。

 どうにもあっちは落ち着いていてそれなりに‘やりそう’な雰囲気を感じさせてくる。

 それでも狭い路地で同時に相手をするのはせいぜいが二人まででやれなくはないな、とアレンは瞬時に算段をした。

 五人に囲まれた状態なら難しいが、この場所なら実際のところ分があるとすら感じて、剣を抜いて身構える。



「そりゃ!」


 

 弾かれたように上段から攻撃してくる目の前の男を正面から迎え撃ち、剣撃を弾く。

 なんだこりゃ、とその感触に眉根をひそめた。



「くそっ!」



 合い間を縫って横から別の男が剣先をアレンの脇腹に突き入れてくるが、易々と避けて反撃にブーツで蹴ると口から泡を吐きもんどりうって男が倒れた。

 あん? どういうことだ、とまた違和感。



「この野郎! くたばりやがれ!」



 さらに突撃してきた男の剣の軌道を軽く反らし、握っていた手を蹴り上げる。それだけで武器は壁にぶつかり甲高い音を出して地面に転がった。

 完全に捌いて優勢なはずのアレンの眉毛に深く皺が刻まれ口はへの字に曲がり顔は曇るばかり。

 訳の分からなさに、くしゃみが出なかったときのような気持ちの悪い感覚に襲われる。

 


「お前ら舐めてんのか?」



 どうしても物申したくなってつい無駄口を叩いてしまった。

 まるでお遊戯だ。もしくは剣を持ったことがない新米と戦っているような気分。そうアレンは感じた。

 相手の動く速度も遅いし、力も大して入っていない。

 剣を持ったばかりの素人を相手しているようなぐらい差があった、



「こ、こいつバカ強ぇ……」



 けれど相手の反応は真剣そのもの。これが芝居だったら彼らの演じる演劇を見に行ってみたい気分になる。

 ということは、



「お前らが弱い……んじゃなくて俺が強くなったのか?」



 アレンは起きてから大して魔物狩りもしていない。対人戦は葵とばっかりだったせいで、自分の実力がイマイチ把握できていなかったのだ。

 以前ならこの五人相手にして天恵無しでやるなら無傷の勝利は難しかったかもしれない。それが今ならあしらうレベルにまで上がっていたのを実感する。



「ちっ、あいつらこんなやつ押し付けて自分だけさっさと逃げやがって」



 どういう取引があったのかは知らないが、勝手なことをのたまう男。

 


「ふへ。ふへへへへ。そうか俺は強いか」


「な、なんだこいつラリってやがるのか? そうか薬のせいで強ぇんじゃねのか?」


「あぁ、じゃねぇとこんな愉快な顔できやしねぇ」


「ありえるな。俺の地元の友達でキメてるやつはちょうどこんな顔してたぜ」



 強面のくせに男たちは戦々恐々となっていた。



「薬なんかやってねぇよ! あと友達が薬キメてたらちゃんと止めてやれよ! つか、なんで俺が突っ込まないといけないんだ」


 

 葵と出会ってから自分の強さに自信が持てなくなっていたアレンだったが、現状の自分を再確認し、自信が確信へと変わる。

 ならよし、と拳を握り心の中のコンプレックスみたいにモヤモヤしたものが晴れた気分だった。

 そのまま剣を突きつけ宣言する。



「お前ら、俺の練習台になってもらうぜ!」



 さっきの蹴りですでに一人ノックダウンしていたので、残り四人だ。


 返答を訊く気はなく、アレンは正面の男に詰め寄り構えている剣を下から弾く。素早い動作で対応が遅れ、完全に隙だらけのどてっ腹が空く。そこに小さく回転して勢いをつけながら手に持つ鞘でボディブローを一発。それだけでそいつは沈んでいった。

 さすがに街中で刀傷沙汰はまずいので、こうして打撃で気絶させるしかない。


 そのまま次のやつに踊り掛かり焦燥感に滲んだ顔に側面からハイキック。頭蓋の固く鈍い感触がしてそいつは壁にキスして昏倒した。



「ば、馬鹿な!?」


「分かるぜその気持ち。俺もここしばらく毎日そんなこと思ってるからな!」



 実感のこもった言葉が終わると同時に剣と剣がかち合い金属音が生まれる。ただし剣戟なんて始まらない。

 アレンはそのまま無理やり押し切った。



「うおっおまっ!」


「うおおおおおおおおおお!!」



 体格的には不利なはずのアレンの膂力はゴロツキの予想を遥かに越えていたようだ。強引に鍔競りの体勢から後退させ、残る一人にぶつかるように仕向ける。

 


「後ろ! 後ろ!」



 後ろにいた男を巻き込んで二人掛りになっても力比べはまだアレンに分があった。

 急に押すのをやめバランスが崩れたところで本気の前蹴りで二人一緒に壁にぶち当てる。

 痛そうな音がしてずるずると重力に従い男たちは地面に横たわった。軽くアレンが見回しても敵となった男たちのほとんどが気絶か動けない状態だった。



「相手が悪かったな」



 剣を鞘に戻し、人生で言ってみたい言葉ナンバー八位ぐらいに入るキメ台詞で締める。



「って暢気にしてる場合じゃねぇな」



 慌てて少女たちが去った方に視線をやるが、すでに姿は影も形もない。

 必要なこととはいえ、倒すことに意識を割き過ぎたのを今更後悔しつつも、とにかく消えていった方向に適当に追うしかなかった。

 

 ぐるぐると知らない場所を進むと、急に日差しが入ってきて眩しくて目をつむる。

 手をかざしながらゆっくりとまぶたを開くとまた通りに出たらしい。

 そこから見えるのはそこそこの幅の川と土手に集まる人々だ。



「なんだこりゃ」



 そこにいる人物たちは全員がなぜか川上を興奮した様子で見つめている。

 人の隙間から川を覗いて観察してみたらどうも川に水が流れていなかった。

 というか川底がまる見えで干上がっているような状態。そのぬかるんでいる川を動く影がいた。

 

 ――げ、あいつらあんなところにいやがった!


 追い掛けていた目標の少女たちは、アレンがいる場所よりもやや川下で泥の地面を大変そうに横断していた。



「すまん、どいてくれ!」



 人を無理やり押し退けて前に出る。この距離ならまだ追いつく範囲内だろう。

 しかし急にアレンの腕が掴まれた。振り向くとそこにいたのは険しい表情をした警備兵だ。



「おいお前、ちゃんとマナーを守れ。それに危ないぞ。もう時間だ」


「は? 時間? そんなことより財布泥棒を追ってるんだ放してくれ」



 少女たちはまごまごしている内に向こう岸に渡っていた。

 邪魔ばっかり入る今日は厄日に違いないと、帰ったらお祓いでもしたい気持ちを押さえつけながらアレンはぐっと堪える。



「ダメだ。お前、そんなことしたら死ぬぞ?」


「意味が分からん!」


「あれを見ろ」



 親指を立てて後ろを差す警備兵の奥を見た。

 なんと川上から蒸気を上げて水が、いや温泉が勢い良く流れ出てくるところだった。

 そして周りの大勢の人たちは熱狂的な歓声を上げていく。

 こんな光景は見たことがなくアレンは凝視して呆然となり、そんな彼に警備兵は説明を続ける。



「ここの川は上流の温泉をせき止めて数日ごとに昼間にイベントとして放流するんだ。一応有名な観光スポットなんだが知らないのか?」


 

 「知らねぇよ」と言ってやりたかったが、言ってもどうなるものでもない。

 とかく冒険者はトラブルを生みやすい。血の気の多い仕事が多くどうしても増長してしまう傾向にあり、しかも武器を携帯しているからだ。要はギルドに武装を許されただけの荒くれと違いはない。

 軋轢を避けるために各地域で色んな風習や慣習を調べるのは、優秀な高ランク冒険者なら当たり前で常識でありルールだ。

 逆にそれが面倒であまり新しい土地に行きたがらないなんていうケースもあった。

 今回は半分観光のつもりだったアレンは、情報収集を後回しにしていたツケが回ってきたらしいことを知る。


 そのせいでアレンの腰ほどもある水位に湯気が昇り、熱そうな水流がただ流れていくのを苦々しく見ているしかなかった。

 小さく息を吐いてから素早く気持ちを切り替える。

 


「あっちに渡るにはどうすればいい?」


「川上と川下に橋があるからどっちでも好きに使えばいい」



 言われて見渡すがそのシルエットはかなり小さい。近い方に今から全力でダッシュしても十分は掛かりそうだった。

 それだけあればもう追いつくのは難しくさすがに逃げ切られる。そもそもここで見つけたこと自体奇跡みたいなものだ。

 アレンは肩を落とす。

 


「さすがに諦めるしかない……か?」



 風呂場で盗まれた財布ならおそらく金貨が数枚程度のもの。それなりに稼いでいるアレンからすれば痛いが無視できないほどではない。銀行のようなネットワークシステムが構築されていないので面倒はあるが、最悪、数日の間にこの町のギルドで稼げば問題はなかった。なので財布自体に執着心はそこまで湧かない。

 ただ、ここ最近落ちに落ちている地位向上を果たし、女性陣の鼻を明かすチャンスはここにしかなかった。


 ――じゃあどうする? 


 と自問自答する。

 他の客がいなければ天恵で剣を飛ばして届かなくもないが、脅しだけに使うような細かい動作は今はできない。かと言って愚直に橋まで走る選択肢もなかった。



「あいつならこの状況をどう乗り切る?」



 脳裏にはアオイが、温泉の川の水面を沈まずに爆走して渡る無茶苦茶な場面が映し出された。

 ありそうだと思わず噴出してしまう。問い詰めても、『体が軽いから』とか『沈む前に次の足を出せばいいんだよ』とか頭のおかしい言い訳をするのがありありと浮かんだ。

 しかしながらアレンにそんなことは不可能である。せっかく強くなってもそれはしょせん人に身に納まる程度でしかないのだから。


 

「俺ができるのはこいつを操作するぐらいだ」



 紐で肩掛けしている鞘を前に持ってきて見つめる。



「アオイはもっと頭を柔らかくして信じてみろと言ったが……」



 葵がもしこの天恵が使えたとしたらあいつはどう使う、と想像してみる。

 いくらもしない内に一つだけ事態を打開する方法を思いつきアレンの顔色が変わった。

 けれど、それはあまりにも無茶苦茶な方法で、しかもぶっつけ本番。とても成功するとは思えなかった。


 ――いやあいつはいつだって俺らの常識を超えてきたか。追いつくにはやるしかねぇ。

 

 鞘を外し、眩しい太陽の光が降り注ぎ剣に光が反射する。

 いきなり抜刀したことに周囲がざわめきアレンの周りには誰もいない空白地帯が出来上がった。



「お、おいお前。こんなところで抜刀しやがって捕まりたいのか!」


「安心してくれ。暴れるつもりはねぇ」



 警告してくる警備兵に手を前に出して伝える。

 そして地面に剣を置き、その刀身の上に乗った。



ガルトムント英雄の剣よ、――飛べ!」



 アレンの命令に従い、剣はカタカタと揺れながら持ち上がる。

 それと同時にふわっと慣れない浮遊感が全身に走った。


 足が乗り切らないほどの細い剣幅に中腰で必死でバランスを取りながら‘自分自身を浮かす’。

 目論見は成功だった。けれどめっちゃくちゃ操作が難しく、とてもこのまま剣に乗って飛ぶことができそうに思えなかった。それにここに集まった数百人規模の集団の視線が一斉に集まってきて羞恥心を駆り立てる。どよめきも波のように伝播していく。

 さっきまで流れる温泉の川に感動して騒いでいた民衆は、今はアレンただ一人を見て誰もが固唾を呑んでいた。



「こ、ここ、怖ぇ……」



 二メートルほど浮いてみたが足元が頼りなすぎて心臓ばっくばくの状態だった。想像の中では格好良い感じだったはずなのに、ぷるぷると膝が震えながらの中腰の体勢から変えられない。

 勢いでやっちまった、とすでに反省の念が山のように積まれていく。

 しかも最悪、川の途中で落ちたら死ぬかもしれないと今更ながらに思い当たり脇汗が大量に発生していた。まさに後悔後に立たず。温泉で溺死という最低の死に方が過ぎる。

 ただここでまごついているわけにもいかないことも理解していた。こうしている間にも少女らとの距離はどんどん離れていっている。



「よ、よし行けっ!」



 あくまでゆっくりと少しずつスピードを出すイメージを加える。

 だというのに、



「うぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」



 まだ精密な操作ができないアレンは予想以上の速度が出たせいですっ転んだ。

 頭からあわや落下というところで咄嗟に手を振り回し掴んだのは剣の柄だった。



「あっぶねー」



 周囲からも悲鳴が上がる。だがギリギリぶら下がることは叶っていた。


 ――あれ、これもうこのままでいいんじゃね?


 ずっとぶら下がりだけで自分の体重を支えるのは辛いが、不安定な足場のまま渡るよりマシなことに気付く。

 もうすでに手が川の熱気と恥ずかしさによる緊張で汗塗れのアレンは、数十秒ぐらいなら何とでもなると覚悟を決める。 



「進めっ!」



 剣に発進するよう意思を伝えると、ぎゅんと飛んだ。

 人一人分の体重が載っているせいかいつもの速度は発揮されない。それでも人が全力疾走するぐらいの速さは出ている。

 途中、下から蒸されるような暑さで落ちそうになったが、川幅は十メートルも無く、その前にすぐに向こう岸に付けた。


 人垣が割れ恋しい大地に足を着ける。固い地面を何度も踏みしめながらあまりの自分の無謀っぷりに一息入れる。

 そうしたらなぜかこの行動を見ていた人たちから拍手が沸き起こった。



「ねぇ、あなたどうやって飛んだの!?」


「すごいよお兄ちゃん、これが魔術なの? お兄ちゃん魔術師なの?」


「これはイベントなのか? だとしたら人を飛ばす仕掛けはどうやって……」


「お兄さんその魔剣おいくら? 言い値で買うわ!」



 急に大勢に囲まれる。どうやら今のアレンの行動は出し物の一つとでも思われたらしい。瞳を輝かせて喜びを露にしてくる。



「え、いや、その」



 何人もの人間に熱狂的で矢継ぎ早に話し掛けられて今度はアレンがパニックだ。



「ごめん。これ売れないんだ。って、おい、今誰か尻触っただろ!」



 群集に好き勝手され突破できないでいると、「すまない通してくれ」と人垣を割って登場したのは警備兵たちだった。

 幸か不幸か彼らやってきてくれたおかげで騒ぎがやや沈静化する。

 


「理由も理屈も知らないが、あんな大勢の人のいる場所で剣を抜いたことについて問い質させてもらう。ちょっと詰め所まで来てもらおうか」


「いや、その、そんな時間ないんです!」


「言い訳は全部詰め所で訊かせてもらう!」



 ここで捕まったら窃盗犯を逃がすだけでなく、色んな意味で終わりだった。

 頬が引き攣るのを自覚する。



「ガルトムントっ!」



 考える間も無く、すぐさま握る剣を浮遊させ上空に逃げ出す。

 突然のことに警備兵たちは顔を上げながら呆気に取られていた。

 そこからすぐ近くの建物の屋根に降り立つ。



「ごめん、急いでるんだ! 許してくれ!」



 そして捨て台詞を吐いて身を翻した。

 

 この町は集合住宅も多く、一つの建物がやけに大きい家があるのも特徴的で、全体的に屋根が高い。

 剣をコントロールして先導させながら、赤や黒のコントラストが綺麗な瓦屋根を踏みつけていった。

 乾いた音が小気味良く、時には剣に掴って飛び次の屋根へと足場を変える。引っ張られる形になって走る速度もアップしていた。

 さすがに縦横無尽に加速して空を駆け巡るアレンに追いつくことができず、警備兵たちはすぐに見失う。



「こりゃいい!」   



 ご機嫌だ。自分の能力はただ剣やナイフを飛ばすだけのもんだとばかり思っていたアレンは、まさか移動にまで使えるとは思いもせず自分の前に道が開けたような高揚感があった。

 今ならアオイが色々できるって言った意味が体で理解できる。限界を勝手に決めていたのは自分自身だったんだと歓喜に震えた。

 遮るものがない空の下でいつもより爽快な風を感じアレンは屋根の上を疾走する。



「ただ肝心のあいつらが見つからねぇ」



 勢いづいたのもつかの間、あの少女たちの姿はどこにもない。

 上から探せばひょっとしたらと思っていたのは甘かったらしい。

 

 ふいに颯爽と駆ける足を止める。諦めたからではない。何かが聞こえた気がしたからだ。

 手で耳を澄まし音を拾う動作をする。

 普通の路地よりも1段も2段も高いこの場所は、おそらくそういうのに最も適した場所だった。

 

 賑やかな喧騒は意識の外へ追い出して鼓膜に集中しさっきのが届くのを待つ。

 再び微かな音を拾う。左手の方角、そこまで距離はない。即座に行動を開始する。


 屋根を縦横無尽に蹴り上げ風に乗った。すぐに距離は詰められ、幾分かだけ慣れた浮遊感に身を任せ剣の柄を握りながら声が聞こえた地点へと落下する。途中で何度も軽く剣を上方向へと押し上げ落ちる勢いを分散させた。

 かなり即興だったが上手くいく。軽い足の痺れだけで三階ぐらいの高さの屋根から無事降りられたのだから。



「おい、お前何してやがる!?」



 顔を上げると布を顔に巻いた人物が少女の首筋に噛み付いていて、アレンが素っ頓狂な声を上げる。

 

 瞳孔を開き痙攣を繰り返すその少女は、アレンの追っていた少女だった。恐怖に可哀想なぐらい顔がひび割れている。

 すぐ傍にはもう一人の少女が力無く横たわっている。反応はない。胸が上下せず気絶しているのか死んでいるのかも判別不能。


 凶行に及んでいる人物は、全身のほとんどがまるで演劇の衣装にでもありそうな真っ黒い外套を羽織っていて、人相は不明だが体格の輪郭からしておそらく男。

 そしてアレンを驚かしたのはさらに特徴的なのはその髪色。葵や景保と同じカラスの濡れ羽のような黒髪だった。

 そいつはアレンを一瞥だけしてまるでいなかったように視線を少女の首筋に戻す。


 鼓動が早鐘を打つ。

 格好も変で同じ黒髪。否が応でも、目の前の男が葵や景保とを探ってしまう。

 もしそうであればこの相手は間違いなく化物級でおそらく自分では時間稼ぎすらできない。

 そう考えるだけでびびって体が硬直してしまっていた。

 せっかく自分の限界を突破したと浮かれていた矢先がこれだった。  



「あ……あぁ……たす……け……ごめ……」



 少女は弛緩しているのかほとんど声にならない声で助けを求めてくる。

 抵抗できないのだろうか、手は力なく垂れて虚空を泳ぎ、悲痛な表情の目からは溢れた涙がこぼれ頬を伝って落ちた。

 

 少女のバックボーンをアレンは知らない。

 ひどい悪党なのかもしれないし、思わず同情してしまうようなお涙頂戴のストーリーがあるのかもしれない。ただアレンに分かっているのは盗人でムカつくガキということだけだ。どうせ窃盗以外にも叩けば埃が出る体だろう。捕まえたら尻でも蹴ってやろうと思ってた。


 ――だが、ここまでされなければいけないことをしたのか?


 じわりじわりと臆病な心に活を入れる。ヘタをしたらこれは生と死の境目だ。この選択肢で自分の運命すらも決まることは察している。

 しかしアレンの決断が終わるよりも先に向こうの方が早かったらしい。

 

 首から鋭利な歯が外され、どさりともはや興味を失くしたかのように少女がぞんざいに地面に放り投げられた。

 意識はなく糸の切れた人形みたいに転がる。その目には光は宿っていなかった。

 それがアレンの琴線に触れる。



「くそがああああああああぁぁぁぁぁ!!! ――ガルトムント!!」



 あらん限り吠えた。ささくれ立った感情を爆発させ全力全開で天恵を使う。

 適当な力で石壁を粉砕するほどにまで強くなった天恵だ。それをフルパワーとなると人を数度殺してもお釣りが出るほどのもはや殺戮兵器と言ってもいい。アレンの意思に従い剣が超速で憎き敵を撃滅せんと男に向かった。

 

 瞬きする間に剣は男の胸元へ――届かなかった。


 矢よりも速い一撃だったはずだ。なのに一歩動かれただけで全身全霊を込めた強襲は空振りを余儀なくされる。

 

 刹那、男を見失った剣は急制動が効かず建物の岩壁を粉々に粉砕した。大きな音と共に穴が空いた空間を支えきれず上からパラパラと細かいレンガや木組みの破片が落ち、かなり大きな音が響き噴煙が上がる。

 少しの間だけそれに意識が取られた。


 本当に一秒にも満たない時間に注意がいっただけだ。なのに敵は影も形もいなくなっていた。きょろきょろと辺りを見回しても立っているのは己のみ。

 突然、気配が背後からする。戦士としてのセンサーが濃密な血も凍るような悪寒をもたらした。わずかに顔だけ後ろに傾けると黒い怪物がそこにいたのだ。

 静かに息を呑む。うっと呻くのすら躊躇われる間合い。



『まだまだ女神の呪いを受けし者が蔓延はびこっているかと思いきや、その最たる使徒アポストルまで生き残っていたのか』



 声は若い。二十代かそこらだろう。けれど底冷えするような淡々とした口調だった。

 たった今しがた殺意を向けたはずの相手とは思えないほどに。

 

 そこで己の不始末を知る。

 武器を手放してしまったのだ。痛恨どころの話ではない。ただでさえ実力差がある相手に怒りに任せて丸腰なんてありえない。剣を呼び寄せてもこの相手ならそんな暇すら与えてくれないだろう。大きく鼓動する自分の心音を聞きながらアレンには自分が死ぬ幻視が見えた。

 死を覚悟したとき、



「おい、あっちで音がしたぞ!!」



 ガチャガチャと鎧や剣の金属が擦れる大勢の気配が聞こえてきた。

 おそらく警備兵だろう。



『今日は良き日だ。‘ペランカラン’の一族と使徒アポストルにまで出会えるとはな。しかし今は面倒だ。また会おう』



 それだけ言い残して男は陽炎のように忽然と消える。

 残ったのは圧倒的な敗北感。

 男の感情の無い冷淡な言葉が耳の奥に残り、死の危険を回避したことと不甲斐なさにアレンはただ膝を突くしかなかった。

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