1話 ファントム・ティアーズ

「時間です」

「ふぁはは! 盗まれていないではないか! なにがファントム・ティアーズだ! ワシの勝ちだ!」

 ある屋敷の2階にある大広間で、太った男が高笑いをした。彼の目の前の台にはアルミナのガラスで囲われた80カラットものダイヤモンドが鎮座していた。

 その周囲にはたくさんのひとと報道陣が柵を囲っている。



 一週間前、この男のもとに、最近巷を賑わせている怪盗ファントム・ティアーズから予告状が届いた。80カラットという重量をもつうえ、スターカットという珍しい形状をしている「北極星」をいただくと。


 100年以上前の技術でこれが作成されたことの価値は大きく、美術品認定を受けている宝石だ。ただでさえ高価なうえに美術的価値がついたこのダイヤは、戦乱に乗じて消えたという曰く付きのものである。


 それが今、ここにある。太った男は怪盗から送られたカードを懐から取り出し見直す。日付は本日で合っている。時間も22時と書かれており、時計を確認すると、現在22時を1分過ぎたところだ。

 怪盗行為を成功させ続けているファントム・ティアーズに土をつけた。太った男は満足そうな顔で誰へともなく頷く。


「た、大変です!」


 細身の宝石鑑定士が荒い声を上げ、皆が彼に注視する。ダイヤはここにあるし、周りを囲っている報道関係者に動きはない。なにが大変だというのか。


「このダイヤは偽物です!」

「なんだと!?」

 太った男は慌てふためいた。

 ダイヤモンドは他の宝石と決定的に異なる点がある。それは光の屈折具合だ。本物のダイヤであれば、ダイヤ越しに逆側が見えない。これほどの大きさがあれば少し離れたくらいでもそれが見分けられる。

 だが今そこにある石は、完全に逆側が透過している。恐らくはクリスタルかジルコンで出来ているだろう。


 一瞬明かりが消えるということはなかった。そして誰も近寄ってはいない。だというのに、まるで以前からあったかのように偽ダイヤはそこへ鎮座していた。



「信じられません! 私たちの目の前で、ダイヤが盗まれました!」

 興奮したように叫ぶテレビリポーター。彼女の他にも、各局のリポーターがそれぞれのカメラの前で状況を説明する。


 柵からダイヤまで凡そ5メートル。囲っている人物は、身元調査を入念に行っている、この太った男の会社でそこそこのポストに就いている社員だ。リポーターなどテレビ関係者は、その局でのキャリアが5年以上あるものに限られている。

 宝石鑑定士はこの男と20年の付き合いがある。今更なにかを盗むとは思えない。


 つまり、この中に犯人がいる可能性はとても低いのだ。ならば一体いつ、どうやって盗み、今どこにいるのだろうか。


「ちょっと来て下さい」

 ハイスピードカメラを持ち込んでいた局のカメラマンがリポーターを呼び、映像を確認すると、太った男が強引に画面へ顔を近付けてくる。


「設定はどうなってるの?」

 リポーターの女性が聞くと、カメラマンの男が答える。

「サブカメラで前後5分の垂れ流しだったんで、秒間1万に抑えてました」


 ───なにも起きてはいない。1ミリたりとも動いてはいない。

 ただ、ほんの一瞬。ハイスピードカメラを用いても、たった10コマ分だけの間に、石の輝きが変化したのだ。まるで物質を変化させたかのように。

 1000分の1秒。一体なにが起こっていたのか、誰も説明できない。



「いたぞ! ファントム・ティアーズだ!」


 誰かが叫んだところ、窓の外へ報道陣が一斉にカメラを向ける。すると目の下に桃色の雫の描かれたファントムマスクをかぶった黒いフォーマルスーツ姿の男が、真っ白なレーシングバイクに乗り走り去って行く姿が映された。


「け、警察! 広域手配を! 早くしろ!」


 完全な怪盗行為であるため、警察に捕まったとしてもそのまま開放されるだろう。それでも悪あがきとばかりに警察を呼ぶ。ひょっとしたらなにかしらの落ち度がありダイヤが戻ってくることがあるかもしれないからだ。


「もう出てもいいですか?」

 カメラマンのひとりが太った男に訊ねる。

 犯人は逃げたのだから、ここにいる必要はない。これで盗まれていなければきっとこの太った男は気分よく取材を受けていただろう。だが今の興奮している状態でまともな言葉が聞けるとは思えない。後日改めて盗まれたことについての取材をしたほうがいいのだ。


「まだだ! 共犯がいないとも限らん! 全員ボディチェックだ!」

 顔を真っ赤にさせた男が叫ぶと、報道陣は諦めたようなため息を一斉に吐いた。


 テレビ各局のレポーターたちは早く車両へ戻り、局へ録画データを送ろうとうずうずしている。状況からしてこの中に犯人はいないのだから、もう開放してくれと言わんばかりだ。

 生放送でないのは、もし怪盗が捕まり素顔が晒されたとき、それが未成年だった場合に問題となるからだ。そして怪盗がなにかしらの手段で通信を行う可能性があったため、この部屋は電波が遮断されている。少なくとも部屋から出なければニュースにもできない。




 バイクは細い路地を縦横無尽に走っていく。

 誰も見ていないのを確認したライダーは、一気に加速する。

 するとバイクの塗装などがめくれるように剥がれ、霧散した。着ている服や、マスクまでもがめくれ上がり、あっという間に消えていく。


 エアロパーツまで剥がれ終わると、そこに走っているのは、赤いライダースーツの人間を載せた青いタンクのネイキッドバイクだった。


 そしてバイクは誰もいない路地裏にある倉庫へと入っていった。

 エンジン音が止んでから少し経つと、短パンにトレーナーを着たひとりの少女が倉庫から出てくる。彼女はシャッターを閉め、長い髪を振り風にさらすと、暗い路地を足早に去っていった。

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