・Air

 黒板上に設置された壁時計の針が七時四分を指した。


 教室前方の扉を横に滑らせて上智由美が入ってくる。上智由美が十歩ほど正面に進んだところで、薄っすらとした日の光が白い夏制服と紺のスカートを照らした。上智由美は黒板と教壇の前を横切り、手早く鞄を窓際の一番前の席に置いてから木製の椅子を引いて座りこむと、左腕で頬杖をつき、窓の方に顔を向けた。半秒後、上智由美は目蓋をぎゅっとつぶってからゆっくりと開き、切れ長の目を更に細める。口を薄く閉じ小さな鼻をわずかに引くつかせながら、体をかすかに揺らしたあと、上智由美はじっとしていた。


 室内には上智由美一人。上智由美の呼吸、窓際の木に止まる数羽の小鳥とアブラ蝉の鳴き声、教室の外から入りこんでくる運動部の掛け声、自動車のエンジン音。


 しばらくすると、上智由美の右頬から汗が浮きあがり大きくなり、肌上のくぼみを沿って首の右側の方を滑っていく。上智由美は頬杖をついていない右手で胸ポケットを探って水玉のハンカチを取りだし、右首の下の方に押しつけ、そのまま駆け上がらせていく。やがて、ハンカチが右頬まで到達したところで、上智由美は左掌の上から左頬を離した。そして、今度は顔、左頬と左首筋という順番にハンカチを沿わせてから、喉元から右首筋、右首筋から首の後ろまで滑らせていく。


 汗を吸いこんだハンカチを机に放り投げたあと、また左肘を机の上につけて立て、左掌の上に左頬を乗せた。やや大きな唇に右掌を添えると、口を大きく開き、両目を思いきり閉じる。口内から外気に温い二酸化炭素を発しながら、薄く空いた目蓋の端から涙をこぼしたあと、もう一度口内から教室内の空気に吐息を混ぜこんだ。


 それから十分ほどが経ち、教室に飛びこんでくる日の光が強くなり、上智由美の上半身もまた照らされる。上智由美は机に置いておいたハンカチを拾いあげ、眉、頬、左首筋、喉、右首筋、首の後ろといった順番に沿わせていったあと、教室前方の端にある緑色のカーテンを見つめた。十秒、二十秒、三十秒。上智由美は小さく溜め息を吐いてから、ゆったりと腰をあげる。その後、一歩二歩とカーテンの方へと近付いていき緑色の端っこをつかんだ。


 教室後方の扉が横に滑る。上智由美は教室後方の扉に体を向けた。上智由美が振り向くのとほぼ同時に、高橋一花が足早に入りこんできて、頬を弛ませ、右の平手を開きながらあげた。上智由美もまた左掌を開いて軽く高橋一花に振ってみせる。高橋一花は目を細め顔の皺をより浮きあがらせたあと、廊下側後ろから二番目の席上に背負っていた黒い筒状の鞄を置いてから、全部で六列ある席の並びのうち、廊下側の二列の間を通って教室前方に向かっていき、教室前方の扉横のところで左に曲がる。高橋一花の目線の先には、窓を開けてからカーテンの傍から窓際一番前の席に移動し座りこんだ上智由美の姿がある。上智由美は眉間に皺を寄せ、唇を固く閉じたまま、高橋一花の方に目を向けていた。高橋一花は足を止めずに上智由美の席前まで辿りつき、机の上の空いているところに両手を置く。


「おはよ。今日もあっついね」


 高橋一花の弛んだ唇の端からこぼれだした声。


「おはよう」


 小さく開かれた唇の間から口にされた上智由美のか細い声。高橋一花は目を細め、鼻息を荒くし、身を乗りだす。


「珍しいね、朝早くから。なんかやることでもあったの」


 高橋一花の口から唾が三滴ほどが上智由美の鼻の辺りに飛んだ。上智由美の眉に寄った皺が深くなる。


「別に」

「理由がなかったらこんな朝早くに来ないでしょ。うちだったら絶対来ないし」


 高橋一花はそう言って目を丸くし、鼻をわずかに大きくし、厚めの唇を尖らせる。その唇の先端に高橋一花自身の茶色く長い波打つ髪の左側がかかった。高橋一花の鼻の穴をかすかにひくつく。上智由美の寄っていた眉がわずかに弛んだものの、一秒もしないうちにまた深い皺を作りだした。上智由美は「あっ、そう」と言う。


「気になったりする」


 高橋一花の言葉。上智由美は「別に」と低い声。高橋一花は目を細めて白い歯をちらつかせる。


「またまた、気になってる癖に」


 より前に身を乗りだしながら言う高橋一花。上智由美は開いている窓の方へと体を向けて立ち上がると歩きだす。


「無視すか」


 高橋一花は目尻をわずかに吊り上げ唇を尖らしながらそう言ったあと、窓の方へと向かう。上智由美と高橋一花は窓際に並んで寄りかかった。


「暑苦しい」


 上智由美が目蓋を閉じて眉に深い皺を寄せて言う。


「いいじゃんいいじゃん」


 高橋一花は目を細めて口を大きく開けて上智由美に身を寄せた。高橋一花の口と顔から唾と汗が飛ぶ。その唾と汗は上智由美の頬に付着した。上智由美は低く息を吐きだす。高橋一花は頬を弛めて、窓の外へと目を向けた。


「朝から元気だねぇ」


 高橋一花の声。窓の外、グラウンドの上では白い体操着を着た男子生徒の群れが走りこみをしていて、あちこちから低い声や高い声が飛び交っている。鳥の鳴き声の交し合い、アブラ蝉の叫び、何台かの車の走行音。


 上智由美は目蓋を開く。校門の前に白いカッターシャツと黒いスラックスを履いた金谷陣太の姿。浅黒い肌に金色の長い毛髪。


「おやおや、金谷君じゃん。今日は雨でも降るのかな」


 高橋一花のかすかに高まった声。その両頬は上気している。上智由美は少しずつ顔を校門側から校舎側へと動かしていった。金谷陣太は黒い手提げ鞄を揺らしながら校舎側へと歩いてくる。中年男子教師の罵声、枝から飛び立つ鳥、風が吹く音。


「上智さん、なんか知ってる」


 高橋一花の声。首を横に振る上智由美。「そっかぁ」と言う高橋一花。自らの左二の腕を見つめて、「あつ」っと呟く上智由美。走るのを止めて肩で息をする男子生徒たち。大股で歩く金谷陣太。


「おおい、金谷君。今日は朝から早いねぇ」


 叫ぶ高橋一花。耳を押さえる上智由美。顔をあげる金谷陣太。顔をあげる数名の男子生徒とジャージを着た男子教師。「うるさい」と言って目を尖らせる上智由美。「ごめん」と頭を下げてからまた窓の外を見下ろす高橋一花。同じく窓の外を見下ろす上智由美。足を止めたまま見上げ続ける金谷陣太。


 /


 校庭の上に二本の足で立つ金谷陣太。金谷陣太の正面には四階建ての鉄筋コンクリート製の校舎。二階の右から三番目の教室。その教室前方にあたる一番端の開け放たれた窓。顔を出す二人の女子生徒。左に上智由美。右に高橋一花。その二人が顔を出す窓の両端に二本の老木が立っている。


 校舎の方を向いたまま大きく右手を振る金谷陣太。控え目に左手を振る上智由美。大きく右手を振り返す高橋一花。校舎の方へと体を向ける金谷陣太。校庭の方へと顔を向ける上智由美。校庭の方へと顔を向ける高橋一花。金谷陣太が手を止める。高橋一花が手を止めて窓枠に肘をつき直す。上智由美が手を止めてからゆっくりと引っこめてから窓枠に肘をつき直す。そのまま十秒、三名は体を軽く震わす程度で動かなかった。


 /


「そこ、邪魔なんだけど」


 後ろからやってきた葛西朱里が自らの二本結びの右側を撫でながら言った。


「悪い」


 金谷陣太は低い声で言ってからまた歩きだす。葛西朱里は表情を変えないまま後ろに続いた。


 上智由美は窓から踵を返す。高橋一花が窓から離れた。上智由美は席に腰かける。


「いけね」


 高橋一花はそう言ってから、小走りして教室前方の扉へと近付いていく。高橋一花は扉を横に滑らして開けてから、室外へと出てから扉を滑らし閉めた。上智由美は教室前方の扉を三秒ほど見てから顔を動かしていく。黒板の端には漢字で高橋一花、滝沢晴彦の二つの名が並べて書かれていた。教室後方の扉が横に滑って金谷陣太が入ってくる。


 黒板上の壁時計は七時三十二分を差した。

 

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みみみについてのいくつかの話 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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