・SEA GIRL

 あらあらあの娘ったら、あんなにはしゃいじゃって……いくら海が好きだからって羽目を外しすぎるのは、親として少し心配ですね。


 先生の娘さんだったら納得? ……それはどういう意味で言ってますか? 事と次第によっては話し合わなくてはならないかもしれないですね。なんて……冗談ですよ。あなたは私の大切な生徒ですしね。


 話を戻すと私からしたらあの娘は元気過ぎるように見えますし、どちらかと言えば夫似な気がします。私に似ているって言われるのは少し嬉しいですが。


 それはそうと……こういう気持ちのいい晴れの海を見ていると、あの日のことを思い出しますね。


 ときにあなたは、みみを見たことがありますか。ない? それは残念です。いや、残念ではないかもしれないですが、私的には残念です。


 そもそも、みみとは何かわからない? ああ、これは失敬。みみは漢字にすると、海に巳年の巳と書く生き物です。すごく大雑把にくくってしまえば海蛇の一種ですね。


 だったら、最初からそう言ってほしい? それはごもっとも。ですが、海巳と海蛇の間には大きな違いがあるので。


 どこが違うか……ですか。そうですね。少し、なりますがよろしいですか?


 *


 あれはまだ私が若かった頃。


 今でも充分若い、ですか。そう言っていただけてとても嬉しいですね。ごほん……それはともかくとして若かった頃、朝一番に一人で家を出て、よく知らない浜町の海岸を訪れたんです。どうしてかと尋ねられれば、まあ、そういう時期だったんですよ、きっと。ちゃんとした理由は覚えてないのでこんな風にしか言えないですが……。とにもかくにも、私はバスに乗って海へと向かいました。時期はそう、空気が次第に冷たくなりつつあった秋の終わり頃、あるいはもう冬だったかもしれません。さっきも少し触れましたが、まさに雲一つないという表現が似合うようなそんな青い空が広がっていた記憶があります。


 別段観光地というわけでもない寂れた冬の海岸でしたから、砂浜の上を歩いていてもなかなか人とは会えません。たまにすれ違うのも犬の散歩をしている主婦だとか、杖をついているお爺さんばかり。そのような人たちとすれ違ってほっとする反面、どことなく残念がっていた気もします。たぶん、あまり海と縁がない生活を送っていたので、海に行く、というだけで気分が盛り上がっていた一方で、なにかしらの出会いを期待していたのだと思います。


 そんな当時の私の心は巨大な水溜りの揺れや地平線、飛び回る海鳥なんかをずっと見つめているだけでは満たされなくて、二十分も歩くともう退屈を感じはじめていました。早くも帰ろうかななんていう気になりつつも、たった二十分だけために安くはないバス代を費やしたとなるとやっぱり勿体なく思えて、仕方なくぐだぐだと歩き続けることを選びました。冷たい空気が厚着を貫いてきましたが、失われたお札や小銭のことが頭に過ったのもあって肩を抱えて耐えました。


 それからどれくらい歩いたでしょう。急に私の体は大きな影に覆われました。天気が変わったのかしら? なんて疑問を膨らましつつ海から砂浜の方に視線を移すと、目の前には切り立った崖が聳えたっていました。その崖の大きな影が覆いかぶさるみたいにして私を包みこんでいたのです。おそらく、崖自体は砂浜に立った瞬間から遠目で捉えていたとは思います。ですが、その巨大さはいざ近付いてみるまで認識していなかったのでしょう。とにもかくにも私はこの海にやってきてはじめて圧倒され、立ち止まりました。そんな風にぼうっとしていた時のことです。


 いつの間にか目の前に少女が立っていました。このような言い方になってしまったのは、少女がこちらにやってくる瞬間を目で捉えることができなかったから。おそらく、何度かの瞬きしたあと、挨拶のようなことをしたはずです。少女は楽し気に微笑みながら会釈してきた記憶がありますから、おそらく、間違いありません。年はまだ若かった私と同じくらいに見え、長い髪と不自然なほど色白な肌、そして下半身を海藻で隠すのみであらわになっているほっそりとした体と少し膨らんだ胸元が印象的でした。少女は私の隣にやってくると、みみ、と声を出します。何のことかと思いましたが、おそらく名前なのだと判断しました。私も釣られて名乗ったあとに、胸を隠さないでいいのか、と尋ねましたが、少女は不思議そうな顔をするだけです。


 さて、あまり長ったらしく引っ張る必要性も見受けられませんので早々に種を明かしてしまえば、この少女こそ海巳だったのです。海蛇の話をしているんじゃなかったのか? そこはもう少し話せばわかることなのでお待ちください。とは言っても、海巳という名を持つ種族だとわかったのはそれよりも少し後のことで、会ったばかりの時は冷たい空気の中で下半身しか隠していないちょっと頭がおかしい少女以外の何者でもなかったのですが……。


 とにもかくにも、私と少女はその後、崖下の砂浜に転がっていた大きめな流木に座りこんで何をするでもなくぼーっとしていました。海巳の少女は、みみ、と口にしたきり何も言わなかったですし、私もまた聞くべきこと、というよりも聞きたいことは色々ありましたが、なんとなく口を開く気になれませんでした。かといってその場から去る気にもなれません。おそらくその場にとどまった最大の理由は、少女が美しかったからだと思っていますが、詳しいことはもう覚えてないです。


 日差しと寒風を浴びながら、波音を聞く。そんな時間が延々と続きました。あまりにも穏やかな時間だったからでしょうか。気付いた時には体がすっかり冷え切っていました。冷たい空気の中で一箇所に座っていたんですから当然ですよね。寒いしそろそろ温かいものでも食べに行こうか、と立ち上がろうとしたところで、急に少女が肩に頭を乗せてきました。驚いた私は反射的に離れようとしましたが、なぜだか体が望んだように動いてくれません。何かの間違いかなと思ってもう一度力を入れてみますがやはりぴくりともしませんでした。


 生温かい感触が衣服越しに伝わってたのはその時です。明らかにおかしいと感じた私が、急に動かなくなった体でもがこうとすると、何かのはずみかがくんと顎が下がりました。その際、緑色の荒縄のようなものが私の体の上にとぐろのように巻きついているのが目に飛び込んできたのです。見たかぎりだと、足の先から肩の辺りまで。感触的には首にも巻きついていたでしょう。いったい、なにが起こっているんだと思いながら唯一動きそうな首を上げると、少女の笑顔が目に入りました。その下には人の体の代わりに……もうお分かりですね。体に巻きついている縄のようなものが伸びていました。ここに来てようやく驚きが怖ろしさへと変化したのだと思います。人のような形をしていたものがおそらく人ではなかった。そのことに気付いてすぐ、食べられてしまうのではないのかと不安になりました。何せ私の知っている蛇は肉食っぽい印象がありましたしね……。顔こそ綺麗な女の子のままでしたが、それが余計に相手が人でないということを印象付けて身を凍えさせたのです。


 そして、とてもとても長い時間、楽しげに目を細めた少女と見つめあうことになりました。


 *


 ……とはいえお分かりのように、私はここにいます。つまりは食べられなかったわけです。誰かが助けてくれたから? いいえ。では私自身がなんとかした? それも違います。さっき言った通り私の体は動かなかったのですから。では、どうしてか? それは海巳の少女がしばらくして、私に巻きつけていた細長い体をほどいたからです。少女は体を人の形に戻したあと、欠伸をしてから私の肩に寄りかかりました。私は呆然とするばかりで、それからまたしばらくの間、少女の枕を演じることになったわけです。


 後になってわかったことですが、海巳の少女は寒くなると傍にいる生き物に巻きつくんです。後に何度か同じような体験をするのですが、私に巻きついてくるのは決まって寒い時でしたから。


 ……はい、あの後も私は何度も同じ海岸を訪れて、海巳の少女に会いに行っていますし、今もとても仲良くさせてもらっています。


 愚かだと思いますか? まあ、そう見えますよね。向こうがその気になれば私なんて絞め殺されてしまうでしょうし、もしかしたらそのあと一呑みされてしまうかもしれません。それなのになんで会いに行くのか? やっぱりさっき言ったみたいに少女が美しいからでしょうか。いえ、美しいという単純過ぎますね。私を引き付ける何かを持っていた……いいえ、いまだに持っているというべきでしょう。


 ふふふ……もっと漠然としてしまいましたね。でも、私はこうして生きています。それに……海巳の少女は新たな出会いももたらしてもくれました。ほら、そこで寝息を立てている私の娘。実はあの娘の父親は、海巳の少女なんです。


 どういうことか? 実は、海巳という種族は女でもあり男でもあるんです。だから、唯一身に付けていた海藻の下には……これ以上は言わないでおきますが、とにもかくにもいまだに仲良くお付き合いしていますね。私との付き合いではなんとなく同姓っぽい気がするので、便宜上少女という言い方をしています。いまだに外見はあんまり変わらないので少女のような夫ですね。


 冗談? いえいえ、って言っても信じてもらえませんか……。う~ん……困りましたね。


 そうです! 良ければこれから私と一緒に夫に会っていきませんか? 実はさっき話していた海岸と私たちのいる海岸は同じところで、今も夫はここに住んでいますから。


 えっ、本当だったら、なんか怖そうだから嫌だ? いえいえ、そんなことないですよ。たぶん、おそらく、きっと……うん、大丈夫ですよ。だから怖がらないで。ね?

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