・SILENT YARITORI
(すーっと人差し指をそわせる。鎖骨、うなじ、波打つ黒い髪の毛。少しだけ体が震えるのが見えた。気付かないふりをして少しずつ上へ上へと動かしていく。今度は微動だにしない。悪戯心が湧いた)
(急に髪をぐしゃぐしゃされる。何事かと思って振り向くと、満面の笑みがあった。ちょっとだけ不愉快だったけれど文句を言っても無視してきそうだったからされるがままになりながら背を向ける。ますます調子に乗って、髪をいじくってきた。歯を噛みしめてまたまた振り向いた)
(手を止めた。目が怖い。両手を合わせて頭を下げる。頬は膨らんだまま。機嫌を損ねたらしい。困った。視線が合っているような合っていないような感じで、ちらちら窺ってみる。何も思い浮かばない。そうこうしているうちに背を向けられる。また髪を触りたくなったけど、さすがに触れない)
(さすがに触ってこない。それはそうか。なぜだか、少しだけ残念に思った。なんでだろう。わからない。けれど、たぶん今触られたらまたむっとする。どっちがいいのかわからなくて戸惑う。うつ伏せでベッドに転がった)
(髪の毛が浮きあがるようにして膨らんだあと、時間差で背中に落ちるのが見える。黒く細い網目のような隙間から肌色が窺えた。風呂から出て少し時間が経つせいかあまり赤みを帯びてない。寒そうかもと思い、亀みたいに重なろうとして、すぐに拒否られるんじゃないかって不安になって、右隣にうつ伏せになった。ちらりと窺えば、横長の蝸牛みたいなものの上に薄っすらと髪がかかっている。月並みな形だけどその隠れるようにしている蝸牛を美しいと思った)
(視線を感じる。けれど、振り向かないで正面にある黄土色の壁を見つめた。細かい砂粒状のそれを一つ一つ数えてみようと思ってから、すぐに億劫になり目を閉じる。無音ともいえる空間に響くのは耳鳴りじみた音と微かな呼吸。一人じゃないってわかってほっとしたあと、一人でいたいと思った)
(美しいかたちをした耳をじーっと見つめる。これといって特別なところはない、と思う。けど、なんでか惹きつけられた。あばたにえくぼ。意味を理解しているのかもわからない言葉が頭に浮かぶ。たぶん、違う意味だ。とにもかくにもじっと耳にだけ視線を注いだ。沈黙と微かな呼吸。どうやら生きているらしいってわかって胸を撫で下ろしたあとも目を逸らせない)
(眠ってしまおうと思ってぎゅっと目を閉じた。体は程好く疲れているのに一向に眠気はやってこず、却って意識がはっきりしはじめる。たぶん、隣からする音のせいだ。出て行って欲しいけれど、そこまで訴える気もないし、言ってもたぶん出て行ってもくれないし。眠れなくて困り寝返りを打つ。ベッドのスプリングが軋む音がした)
(背を向けられて耳の向きが変わる。こうして見ると肌色の餃子っぽい。そう言えば、この間、一緒に作ったな。白い薄べったいものの粉っぽさ、それの中に赤と濃い緑と薄緑を銀色のナイフ越しに移していく。それを包んでいくと白い耳ができあがる。一個、二個、三個。腹減った)
(たとえ、眠れたとしても起きたら隣に寝ているだろう。仮にいなくてもいい匂いがした先に立っているかもしれない。仮に家の中にいなくてもたぶん外では会って挨拶をかわす。面倒くさい。別に嫌いってわけじゃないけれど、ただただ面倒くさい。だから眠りたい。やっぱり眠れない)
(そう言えば、運動の後だった。さっきまでもう一度運動をする予定だったけど、肌色の餃子と向けられた背中と広がった髪を見るにたぶん難しいだろう。どっちにしろ、今は腹が減ってて戦はできぬ。なんか食べたい。というよりも餃子食べたい。でも、立ち上がるのもだるかった。仕方ないから目の前にある白い餃子をかじろうかな。だめだ、余計に機嫌を損ねる。でも美味そう)
(荒い息が耳に入る。ぎゅっとくっついてくるかもしれない。身を強張らせる。十秒くらい。一分くらい。三分くらい。気のせいだったのかな。けれど、視線は強くなっているように思える。それも気のせいなのかな。振り向けばすぐに解決するけれど、もしもまだ起きてたらなんかやりとりをしなくちゃいけない。嫌だ、ってほどじゃなかった。でも、あまりしたくはない)
(涎が垂れそうになる。ぐっと堪えた。だけど、ますます目が離せなくなる。こころなしか、白い餃子は徐々に赤みを帯びていっている。フライパンの上にあるわけでもないのに、できあがりが近付いているらしい。やっぱり、噛みつきたかった。だけど、今は嫌がりそう。どうしようか)
(後ろにいる。いや、いなくなっているかもしれないけれど、たぶんいる。まだ、呼吸音がしている。やっぱりいる。ほっとしてから何秒か後、溜め息が漏れた。今は目を合わせたくない。今は。その今はいつまで続くのだろう。五分、三十分、一時間。あるいは一日、一週間、一ヶ月。一年、五年、十年。もしかしたら一生。わからない。でも、とにかく、今は嫌だ)
(散々、迷ってから寝返りを打つ。餃子は見えなくなる。けど、頭の中にはおいしそうな餃子が浮かんでいた。この餃子はいつ頭の中から消えるのだろう。決まってる。腹が満たされるか寝てしまうかしてからだ。眠気はないし、腹は満たされていない。腹が満たされてないから眠気は来ないし運動をする気にもならない。かといって立ち上がる気にもならない。これってもしかして八方塞がりじゃないのか)
(呼吸が遠くなった気がする。視線も感じなくなった。眠ったのかな。その割には寝息が聞こえてこない。どうしたんだろう。頭に浮かんだ疑問は膨らんでいく。気配は薄くなった。けれど、逆に気になりだす。いることでほっとするなら、いなくなれば不安になる。とりわけ、いるのが当たり前なら尚のこと。たしかめるのは簡単。目を開いて、後ろを見ればいい。たったそれだけのこと。できれば今すぐにでも確かめたい。けれど、目を合わせたくもない。どっちがいいんだろう。決められない)
(布と肉がこすれる微かな音。ちょっと前から落ち着きがなさそうだ。起きているのかそれとも寝相か。根拠はないけど、たぶん前者。なんなら確認してみればいい。たぶん、三秒もかからない。とはいえ、別に起こさなくてもいい気もしている。今は腹を満たしたいという欲望が膨らんでいくだけ。けど、いちいち飯を取りに行く気が起こらない。だからといって後ろの気配の元に押し付けるのも気が退けた。どうにもこうにもいかなくて冷蔵庫の中を頭に浮かべる。ビール、チューハイ、ハム、もやし、ピーマン、生卵、ケチャップ、鶏肉。えーっと、えーっと)
(唸り声が聞こえる。やっぱり生きているんだなと察する。とりあえず、確かめる必要はなくなって少し気が楽になる。けれども事態はそれほど変わらなくて、面倒くささと出会うのが先延ばしになっただけに過ぎない。だからもっともっと先延ばしにするために意識を途切れさせようとぎゅっと目蓋を閉じる。やっぱり意識は冴えた。ああ、もぉ)
(冷蔵庫の中にあるものでは餃子を作れないのがわかって落胆する。やってくる空腹。食事のことしか考えていないんだから当たり前だ。さっきまでは餃子しかなかったのに、冷蔵庫の中にしかなかった食材が頭に浮かんだ。これも腹が満たされるまで消えないんだろうなって思うとうんざりする。とにかく、食べたい)
(動物の鳴き声。いや、違う。腹の音。背中の方からだ。そう言えば、お腹が減っている気がする。毒気を抜かれ目蓋を開く。眩しさに目を細めたあと、寝返りを打つ。肌色の高原が広がっている。威圧感と逞しさ。反射的に指を這わせる。指の先越しに小さな地震が起こったのを察する。体を転がして向けられる恨めしげな目。あまり怖くない視線がなんだかおかしい)
(笑っている。なにがそんなにおかしいのだろう。腑に落ちない。どうやら、機嫌は直ったらしかった。小さく息を吐きだしてから、寝返りを打って部屋の端にある冷蔵庫を指差す。きょとんとした顔があった。数秒後、ぽんと手を打ってからこくりと頷くのが見えた。どうやら異存はないらしいと理解して腰をあげる)
(背中、やっぱり大きいな。何度も見てるはずなのにあらためて思う。下着を履いてから冷蔵庫に一歩一歩近付いていくのを見守ってから、上下の下着を手早く身につけた。スプリングを利用して跳ね起きてから後を追っていく。冷蔵庫の扉手前部分に六個分の卵と、その下の段から包みごと輪ゴムで縛られたハムがちょこんと見える)
((これだったらとりあえずハムエッグかな))
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます