・I'm Nothing

 学校帰り、ビルとビルの間にある路地。愛華はその壁の片側に寄りかかり時間を潰している。理由もなさそうなつまらなさを感じつつ、味がしなくなったグレープガムを吐きだした。我ながら行儀が悪いなと振り返ってからアスファルトをちら見すると、その上に薄紫色のガムがへばりついている。自らの唾液と混じりあったそれに不潔さを覚えつつも、ところどころがへこんだり膨らんだりしている表面に粘土を連想した。


 小学校、あるいは幼稚園だったかもしれない。とにもかくにも白い紙粘土を前にして座っていたはずだ。試しにとんとんとんと三回指で突いてみると、柔らかくそれでいて沈みこむような感触が伝わってくる。また、とんとんとん。そのまた、とんとんとん、とやっても反応はおおむね同じだったが少しずつ固くなっていくのがわかる。その不思議さに首を捻ったあと、どんな味がするのだろうという疑問を抱き、食べてはダメですよ、と厳しげに言っていた先生だか保母さんだかの目を盗んで齧りつき、


 途端に嘔吐感が押しよせてきた。少しでも意識を逸らそうと空を見上げれば、一面グレイで気が滅入った。愛華自身はよく覚えてはいなかったが、紙粘土はすぐに吐きだしたはずである。とにもかくにもしばらくの間、粘土を見るのも嫌になった。おまけに何年か越しの余波でガムすら食べられなくなりそうだった。そう思いながら、流れる鼠色の雲を眺める。視界を覆いつくしそうなくらいの空は、そのうち自重により落ちてきそうなくらい鬱陶しかった。


 祭囃子。黒い水たまりの中に沈んだ白いふわふわ。呆然とする愛華。まだ一口も齧っていなかったそれはすっかり台無しになってしまった。目の前に立つ背の高い男は申し訳なさそうに頭を下げている。父も母も取り繕った笑みを浮かべてひらひらと手を振っていた。そんな三人や通り過ぎる人たちを見ながら、涙がこみあげてきそうになる。お父さんがぽんぽんぽんと頭を叩き、わた飴の屋台を指差した。お父さんとお母さんが件の男性に一礼してから愛華の手を引く。男性もまた何度も頭を下げてきた。わた飴の屋台へと引き返しながら、愛華の目は泥に浸ったままのわた飴から離れない。ずっとずっとずっと離れなかった。


 たかがわた飴一個を引きずっていることに苦笑いしそうになりながら、曇り空に対してのなんとも言えない思いは膨らんでいくばかりだった。違う待ち合わせ場所にするべきだったかもしれないという後悔が押し寄せてきたものの、今更しようがないことだと割り切り、小さく溜め息を吐く。口内にグレープガムの残り滓みたいな味が広がった。微かな甘さに物足りなさと気持ち悪さをおぼえつつも、ガムをもう一枚取りだそうと鞄の中を探ろうとしてから、吐いてしまったら元も子もないとやめる。


 テスト前日。近所の図書館で嫌々勉強中。なんとはなしに机の裏を触ると人差し指の先に硬い感触。まるで固まったあとの粘土みたいだと思いながら、爪で引っ掻いてみると削れた粉状のものになる。自然と掌の上に乗った粉状のものはかすかにべたべたしていて、何だろうと首を捻ったあと勉強もそっちのけでがりがりがりと引っ掻きだした。時間を無駄にすることにちょっとした罪悪感を覚えつつも、少なくとも頭を捻ってノートを埋めていったりする作業よりは幾分か楽しかったため、忙しく指先を動かしていく。不意に塊が消失するのと同時に、指先に伝わる感触が硬い木のものになった。何事かと思い無くなったものを探そうと床を見ると、そこには薄っすらと緑がかったガムが落ちていて嫌な気分になる。


 あの後、たしかすぐに手を洗いに行って、みんなで使う場所でこんなことをする人がいるのか、と呆れた。もっとも図書館の学習室に行く度に机の裏にへばりついたガムには頻繁に遭遇したため、不潔だなと思いつつも暇潰しと銘打った現実逃避に存分に使用することになるし、よくよく考えてみれば道路にガムを吐き捨ててる愛華自身もまた同じ穴の狢だろう。途端に小市民的な罪悪感にかられて、今更ガムを回収しようという気になりかけるものの、あらためてちら見した際の不潔さが耐え難くてやっぱりやめたあと、視線を逸らして道路を見つめた。ビルとビルの間から緩やかに流れていく人の波を横目で観察していると、スーツを着た男女、愛華と同じくらいの年齢の学生、親子連れ、老人、などといった雑多な人たちが過ぎ去っていく。そんな中で腹が少し膨らんだ女性を見つける。


 ここにいるの。とんとんとんとお腹に軽く触れながら尋ねる愛華にお母さんは笑いかけてくる。そうだよ。耳にすると思わず頬が弛んだ。どれくらいで出てくるの。再び聞きだそうとすれば、お母さんは少し困った顔をする。まだまだ、かかるかな。愛華は頬を膨らました。待てないよぉ。これからお姉ちゃんになるんだから、そんな風にしてるとこの子に笑われちゃうよ。お母さんは愛おしげにお腹を優しくぽんぽんぽんとする。お母さんの言葉に愛華は心の中でまだまだむっとしつつも、できるだけ感情を押さえつけようと努めた。お姉ちゃん、か。その一方で密やかな喜びで胸の中がとくんとくんとくんとしたりもする。お姉ちゃんになるんだから、という言葉を小声で反芻しながらお腹をなでなでなでとした。


 お姉ちゃんになるんだから、ねぇ。無表情をした女性の後ろに付いてくる小さな男の子の姿を見送りながら、愛華は吐き捨てるように呟く。妹は今頃、どこにいるだろうか。友だちと帰っている途中か、あるいは家に帰っておやつを食べている最中か。まあ、どっちでもいいか。顔だけは可愛らしい小生意気な妹とまあまあ優しい母にあまり喋らない父。仲は良くも悪くもない気がするけどそのうちの誰かから、お姉ちゃん、を求められる時だけはうざったい。そんな風に思い、腕時計を見下ろす。

 

 明るい空の光が差してくる文字盤を覆うガラスはピカピカピカとしていた。息を切らしてやってきた少年の姿を横目でとらえる。ごめん、遅れた。すぐさま口にされた謝罪に、いいよ、私も来たばっかりだし、と応じる。待つこともまた楽しみの一つなんだからなんて心の中で呟きつつ、頬から汗を垂らす少年に、じゃあ行こうかと手を差しだした。うん、と答えた少年は手を握り返してくる。今までも何度か繋いだ掌は、これまで触れてきた人たちの中でも際立って柔らかく、それでいて薄っすらとした逞しさを感じさせもした。そのことに心強さを覚え笑みがこぼれる。どうしたの。不思議そうな顔をする少年に、なんでもないよ、とやっぱりおかしく思いながら、引っ張っていこうとした。戸惑うような抵抗、沈む掌の肉の感触。なんだかんだで楽しい。


 薄汚れたガラス越しに映る文字盤は五時半過ぎを指していた。約束の時刻を三十分以上も過ぎている。あっちから五時って言ってきた癖に。不満を膨らましていく一方、そりゃそうだ、と腑に落ちもする。今の男はこれまで一度も待ち合わせ時間より前やちょうどにやってきたことなんてないし、たぶんこれからもない気がした。そもそも果たしてこれからなんてあるだろうかという疑問もなくはない。現に来てないし。唐突に愛華は首元に冷たさを感じる。掌をかざしてみるとぽつぽつぽつと冷たいものが落ちてきていた。空模様からして案の定か。とはいえ、降るなんて予報は見てなかったので傘は持っていない。ついてない。


 ぽつぽつぽつとしていた雨はざーざーざーに移り変わり、鞄を雨具代わりにする。このままだと程なくして濡れ鼠になるだろうと辺りを見回すものの、屋根や木陰など避難場所がみつからない。困ったなと思いながらきょろきょろとしていると、急に雨が当たらなくなる。振り向けばがっしりとした年上の彼氏が立っていた。大丈夫か。いつも通りの軽薄な言葉を耳にしてから、遅い、と詰る。ごめんごめん。やっぱり軽い声でイラついたものの、一定の安心感みたいなものがあった。いつもそれじゃん。文句を募る愛華の方を彼氏は面倒くさそうに見返したあと、名案を閃いたというように頬を弛め顔を近付けてくる。途端に愛華は思いきりはたきたくなったものの、元々こういうやつだ、という割り切りや疲れもあって素直に受けいれた。三回の軽いざらざらざらとした口付けのあと、傘が落ちる。やっぱり濡れ鼠なんだと思う。


 ざーざーざーと雨が降り続ける。濡れた文字盤を見つめた。既に約束の時間を一時間も過ぎている。いい加減、文字盤を見るのも飽きてきた。ふざけんな、という気持ちでいっぱいになりつつも、なにを期待していたんだ、という思いもある。門限も迫っているから帰らなきゃとわかっていたが、なぜだか帰りたくなかったし、だからといってここにはいたくなくてなんとなく立ち尽くしていた。雨はざーざーざーのまま降り止む気配がない。

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