・ミヌカレタセカイ
その日、世界に微細な変化がもたらされた。しかしそのことに気付くものは誰もいない。
*
朝。赤城絵里子は目覚めてすぐ、ベッドの横に置いた時計に視線をやる。薄っすらとした光に照らされた文字盤は六時半過ぎを指していた。ちょっと早かったかなと思いつつも、背筋を伸ばし分厚いカーテンの端から漏れる光に目を細める。直後に勢いよく布の端を引っ張って開けるとより真っ白な光が世界を包んだ。
いい朝だ、と思ったあと絵里子は体全体を思い切り伸ばし、ベッドから跳ね起きた。シャワー、着替え、朝食作り、食べる、お化粧、歯の掃除。これからの予定を並べたあと、その後にやってくる出発、列車、会社に到着、挨拶、と並べ直してちょっとだけうんざりする。
やめやめ。首を横に振ったあと、絵里子はさっそくシャワーを浴びようと早足になった。絨毯の硬いような柔らかいような感触が足の裏につたわってくるくすぐったさ、その次にやってきたフローリングの冷たさ気持ち良さ、そして置きっぱなしにしていた足拭き用タオルのちょっとした温かさ。寝間着を脱ぎ捨てながら、風呂場のすぐ傍にある鏡台を覗きこむ。二十代前半という年齢は絵里子本人にとってはまだまだ若いという認識であったものの、甘めな自己評価しても普通と言わざるを得ない平たく黒子が多く浮き出た顔の野暮ったさは隠し切れず、目線を切って全ての服を脱ぎ捨てた。
早く、頭をはっきりさせて顔を作り直そう。そう決意して浴室の扉を横に滑らせる。風呂場に一歩入りこんですぐ、頭がよりはっきりした時に目にしなければならない自分の顔に嫌悪感をぶり返しそうになったものの、忘れようと努めた。今日も一日がはじまる。
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予鈴が鳴り四時間目が終わった。起立、礼、着席を済ませた直後、蓮間栗彦はぐったりと机に倒れこむ。周りからは昼ということもあり騒がしくなっている中、栗彦は今日の授業があと二コマ残っていると思うとまだまだ先は長いなと思う。
食欲も湧かずそのまま寝てしまおうともくろんでから数十秒、なんとなくむずむずしてきた体を起こすと、黒板の端っこについた白いチョーク汚れが目に飛びこんでくる。普段の栗彦であれば気にも留めないであろう事柄ではあったものの、この日にかぎっては特別その粉煙を薄く引いたようなものが黒い板の上についているのが気になって仕方がなかった。誰も黒板の前で仕事をしてないことを考えれば、さっきまでいた英語教師が消していってそのままか、あるいは今日の日直が仕事をこなしはしたものの栗彦ほどは気にならないから放置してあるのか。
栗彦は自分の眉に皺が寄っていくのを感じながら、しばしの間、考えはじめる。
幸い授業が始まるまでの時間は長くある。たいした手間ではない、ちょっとくらい手伝っても罰は当たらない、いやでもなんで俺がやらなくてはならないのか、それもこれも日直の仕事であってさぼっている日直が悪い、怒り過ぎ、神経過敏、やっぱり消したい、立つのが面倒くさい、でも消したい、寝てたい、だから、
「どしたの、蓮間」
思考を遮る聞き覚えのある声に視線を向けると、色白の整った顔をした男が弁当を手にして立っている。相変わらず、ムカつくくらいいい男だと思いながら、友人の機械島誠相手に口を開いた。
「なんでもないって」
「なんでもないって顔はしてないような気がするけど」
「だから、なんでもないって」
こんなくだらないことを口にするのはなんとなく気が退けた。いやそもそもからして、なんでもないことだからこそ口にしても支障をきたすことはないはずなのだが、栗彦は意固地になってしまっている。機械島の方はなぜだか楽しくなってきたらしく、そこをなんとか、とふざけた調子で頼んできた。押し問答を繰り返している最中、黒板の前にクラスメートの入来よし子が立つのが目に入り、あっという間に汚れは消し去られた。
「なにやってんのよし子」
「いや、なんか汚いなって思って、ちょっとだけ」
「なにそれ、まっじめ」
「そんなんじゃないし」
入来と友人の女子生徒たちは楽しげに話しながらあっという間に教室から出て行く。その様子を眺めたあと、機械島の方に向き直るとなぜだか笑っていた。
「なんだよ」
「別に。蓮間も青春してるんだなって思って」
生温かな視線を心底から鬱陶しく思いつつも、すっかり綺麗になってしまった黒板の上に視線を注ぐ。すっきりしたはずなのになぜだか釈然としなかった。
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夜。照橋加奈子は家の中で母の帰りを一人待っている。目の前には空になった皿。温めたピラフは既に加奈子の腹の中におさまってしまって久しい。椅子の上で足をぶらぶらとさせながら、早くお母さんが帰ってこないかなと思う。
もう鍵っ子になってから随分と経つ。一人でいること自体には慣れていたものの、だからといって寂しくないというわけではない。むしろ、一人でいる時間が長いからこそ親が帰ってくるその時を今か今かと待ち受ける喜びというものが生まれている。
小学校の漢字のテストで満点だったこと、転んでしまいまた安田君にからかわれたこと、そんな安田君を留子ちゃんが叱ってくれたこと、などなど。言いたいことはまだまだあったものの、肝心な話し相手がここにはいない。
昔々お父さんは、楽しさというものは待てば待つほど膨らんでいく、と得意げに加奈子に語った。その発言を聞いてから時を重ねていくに連れて実感は深まっていったが、これに関しても肝心な伝える相手はいない。
お母さんが忙しくなる少し前、要は鍵っ子になる少し前、よくわからない儀式のあとにお父さんは星になったと伝えられ、それ以来会っていなかった。聞いた当初は素直に受けいれていたものの、小学校高学年になった今ともなれば星になったという言葉の細かいところも理解している。もっとも理解したところであまり思うところはない。よく目にするアニメやたまに視聴するドラマであれば、こういう状況に陥った際、泣いたりするらしいが、幸か不幸か加奈子の中にそう言った気持ちは溢れだしてはこなかった。むしろ、心が動かない、というのが正直なところである。そのため、加奈子の持ちうる言葉で事実を詳細に説明するのであれば、お父さんはいなくなった、だとか、お父さんは死んだ、となるのだろうが、実感としてはやはり言い聞かせられてきた、お父さんは星になった、という言い回しがしっくり来た。
お父さんが星になったということは、何年か後にはお母さんもまた星になるだろうし、そのうち加奈子自身もまた星になるのだろう。そのことを、特に最後を考えると震えが止まらなくなる。とりわけ、一人でいるとより震えは大きくなっていった。そういったいつかやってくるであろう、星になる、という事実を思うと、ますますお母さんには早く帰って来て欲しくなるし、もっともっといっぱいお話をしたいなと思ったりしながらテレビをつける。ちょっとだけさびしさが消えた気がしたが、やっぱりこれじゃないと思った。
*
その日、ある街の端。×島×つるは今日最後の占いを終え、伸びをする。さて、今日は帰るかと決めて歩きだそうとしたところで、夜や×の中、しまおうとしていた水晶玉がきらりと光った気がした。なんだろうと覗きこんで×せると、なにやら文字らしきものが映っているように×える。
「×××」
なにかの言葉だろうか。そんな疑問を頭に浮かべつつも、×覚えもないせいでどう発音していいかもわからない。そうこうしているうちに水晶玉の表面はいつも通りの静けさを取り戻した。気のせいだろうか。×つるは首を捻りつつも、水晶をはじめる仕事道具をそそくさと片付け、帰路についた。頭の中には先程の水晶に映ったなにかが引っかかっていたものの、数瞬後には文字らしきものの形すらわからなくなりやっぱり気のせいなのだと×つるは思う。
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