四物語 麻薬のひと時

『目を閉じましょう』

 私に囁きかけるそれは天使の戯言か、悪魔の誘いか。

 既に煩い邪魔者は黙らせてある。そんな中、甘く響くような声は、ゆっくりと脳髄を溶かし、冷静な感覚を麻痺させていく。

「起きなきゃ」

 ぼんやりと映る視界は、いつもの天井、いつものカレンダー、いつもの制服を捉える。

『気持ち良いわよ』

 体全体を包む温もりが私を縛り付ける。

「出たくない」

 その居心地の良さは母親の胎盤にいるようだった。

 それは私の視界だけに留まらず腕を、脚を、胸を、背中を支配する。

 そこで悟った。ああ、これは悪魔の誘いだと。しかし、もう遅い。

 身体も感情も全てが溶けてしまう感覚。

 視覚も聴覚も触覚も曖昧になる感触。

 全てが甘美。それでいて依存してしまう。

 最早これは麻薬だ。


『さあ、その目を閉じて』


 三度、その声がひびき渡る。

 そうして私は、目を閉じた。

 そうして、私が私でなくなった。






 ドタドタと何かが駆け廻る音がする。うっすらと重い瞼を上げる。

 それと同時に私を包んでいた繭が破られ、私は冷気にその身震わせた。

 繭を破った者へ虚ろな視線を向ければ、鬼の形相で佇む母親と八時を過ぎていることを知らせる壁掛け時計が目に入った。

「いい加減に起きなさい! 遅刻するよ!」

 正真正銘、魔王の怒号が響き破った。

 あゝ、冬場の早朝、ぬくぬく布団はまさに麻薬の一時だった。

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