二物語 夏の実像

  怪談

 この単語を耳にした時、まず何を思うだろう。幽霊や妖怪、夏の風物詩、オカルト話。僕はこの手の話はあまり信じないタイプの人間だ。何たって僕は霊感が全くと言っていいほどないのだから。むしろ、怖いと言ったら幽霊なんかよりも、新聞で取り上げられる殺人事件の方がよっぽど怖い。いや、殺人事件だって身近なところで起きでもしないと本当に怖いなんて思わないだろう。

 とにかく、幽霊なんかへっちゃらな僕だが、それは大人になり分別がつくようになったらからで、何も知らない無垢な子ども時代はそんな話を頭っから信じてしまい、その度にガクガクと震えていたものだ。

 さて、前置きが長くなってしまったが、これからお聞かせするのは僕が体験した不思議な話。怪談と呼ぶには恐ろしくなく、フィクションと呼ぶには作り物らしすぎる、思い出語りを聞いてほしい。そう、あれは僕が小学校五年生の夏休みも終わりが見え始めた頃の話だ。

 日本特有の茹だるような暑さは、確実に僕を苦しめる。外で遠慮なく鳴きわめいている蝉の声が余計に鬱陶しく感じる。手に持った、さっきまで冷えていたソーダの瓶が僕と同じように汗を流している。あまりの暑さに耐え切れずのっそりと上体を起こして扇風機を回す。蚊取り線香の匂いが扇風機の風と一緒に漂ってきたのを感じながら水色の瓶を傾ける。

 炭酸が抜けきり、温くなったそれを味わうこともなく喉の奥へ流し込む。とうとう意識さえ朦朧としてきた時、図書館で涼しそうに本棚を整理する職員の姿を思い出し「図書館にでも行けばこの暑さを乗り切れる」と閃めいた。今思えば、あそこで閃いたのも、何かの運命だったのかもしれない。

 その後の僕の行動は早かった。ポケットになけなしの小遣いをしまうと、自転車に跨り、走り出した。さっきまで鬱陶しかった蝉の合唱は既に風の音に変わっていた。

 それから十五分後、期待以上の冷気に出迎えられた。普段から本を読むわけでは無いため、図書館に足を運ぶ事など滅多に無い。そんな僕の目に、立ち並ぶ巨大な本棚はとても新鮮に映った。しかし、特に目を引いたのはそびえ立つ本棚でも、そこに陳列された本でも無く、真っ白な壁を背にして小さな椅子にひっそりと腰掛けた一人の少女だった。

 うねる黒髪が印象的なその少女に僕はただただ見惚れていた。そんな僕は、まるで何かに引き寄せられる様に少女のもとに歩み寄り「なあ」と声をかけた。しかし、その少女は見ず知らずの僕から突然声を掛けられたにも関わらず、大して驚いた風もなく僕のことを見上げた。

 今にも吸い込まれてしまいそうな程深い漆黒の少女の瞳はジッと僕のことを見つめる。

 暫くだった時、不意に「彼方の両親は」と消えそうな声で少女が呟いた。僕はそれを聞くなり大きく顔を顰める。最近、両親の仲は良くない。僕の前では普通に振舞っているが、何となく子どもの僕はそう感じていた。否、子どもだからこそ、二人の些細な態度の違いに気が付いたのかもしれない。そんな僕に構うことなく少女は口を開いた。

「二人は彼方のことを一番に考えている。だからこそ、このままだと彼方はこの先大きな傷を負う」

 思わず「あんたに何がわかるんだよ!」と怒鳴りかけ、声になる前にここが図書館であることを思い出し口を噤んだ。

「私は、彼方の全てを知っている。私は彼方だから  知っている」

 そう語った少女の眼は、僕の全てを見透かしてるように感じた。その後、僕は少女と何の話をしたのか覚えていない。ただ、気がついたときには、何か憑き物が落ちかのように身体も心も軽くなっていた。そっと少女が座っている方に視線をずらすとバッチリと目が合った。

 少女ではなく鏡に映った僕の実像と。

 少女が居るはずの場所には誰もおらず、真っ白だった壁には僕の背丈を越える大きな鏡が設置されていた。それを理解した瞬間、僕はあの少女が「私は彼方だから」と言ったのも、不意に両親の話を持ち出したのも、不思議と全て納得してしまった。

 なぜなら、僕は彼女(自分自身の実像)と会話をしていたのだから。

 その日以降、僕は一度たりとも彼女に会うことはなかった。今もオカルト話や幽霊は信じていない。でも、僕にとってあの時間は忘れることのできない時間なのだ。


                                                             Fin

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