ちょっと真面目に書いてみた
いじめって?
現在の日本社会において、いじめは社会問題になっている。それは小中高校といった教育現場に限ったことではなく、会社を初めとした社会全体で起こっている。いつ、加害者になるか分からないのが現状だ。
しかし、なぜいじめは無くならないのだろうか。恐らく誰に尋ねても、いじめに否定的な意見は聞けても、賛同する意見は聞けないだろう。私はこの矛盾こそがいじめの問題に対する答えを見つけるキーポイントになると考える。これらのことを踏まえて、私は二つの観点からいじめについて述べてみる。
〈行方不明となった責任の所在〉
そもそも、いじめにおいて加害者の心理は生物である以上、必然的なものに起因すると考えることができる。それは自己又は周囲に力を認識させることで自己の優位性を主張しているのだ。つまり、どこぞの犬猫の縄張り争いと大差ないのだ。ならば、いじめの責任の所在はを全て加害者に求めるのかと問われると、それも違うように感じる。もちろん、加害者にも責任はあるが周囲で見ていた傍観者や関係者にも責任の一端はあるのではないのか。さらに言えば、本当に被害者には責任は全くなく、解決のための方法も全く存在しなかったと言えるのだろうか。
〈善意と悪意が裏返る時〉
いじめの発生においてその大きな要因になっているのが「違わない」ということである。よく『いじめとは、相手と異なるからこそ生まれる。差をなくせばいじめはなくなる』と述べる人が多いが、それは違う。
例えば、『同じスポーツクラブに所属するAさんにはライバルであるBさんがいた。ある大会でAさんとBさん共に優秀な成績を残したが、MVPに選ばれたのはBさんだった。次の日、AさんはニュースのスポーツコーナーでCプロが歴史的快挙を達成したという記事を見かけた』この時、Bさんに対してAさんは強い劣等感や敗北感を感じていることは想像に難くない。しかし、歴史的快挙を果たしたCプロに対しては劣等感や敗北感のようなものを感じることはないだろう。極端な例となったが、私はこのAさんがBさんへ抱いた感情こそがいじめへとつながる思う。
いじめは違いがある者の間では成立しない。だからこそ、差を無くすのではなく、差があることを意識した上で自分を肯定できるようにすることが大事なのだ。そして、周りの人間は善意が悪意へと裏返るのを見逃さず、フォローしてあげることが重要なのだ。
今 感じたこと、思ったこと 千文色夜 @0426_2000
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