第9話


 ここのデイニーズは、カスミシティの他ファミレスと同じように、電子メニュー表になっているタッチパネル式の決済端末にスマホを当てれば、注文時点で決済できる。なので、レジで会計をする必要は無い。金髪の男が倒れたことに慌てて対応している店員に申し訳なさを感じながらも、いそいそと店を出た。

 十時を過ぎているので、中学生である僕らは、警察官に補導されてもおかしくない時間だ。しかし僕らが今警戒すべきは、警察官ではなくモンスターの姿の〈CSW〉だ。それぐらいはもう、事態を把握している。

 カスミシティは夜でも灯りが消えることはないし、治安もいい。だからすっかり、本来夜が持つ不気味さを忘れていた。〈パノプティコン〉がARで明るさを塗り潰していることで、久々に夜は本来の魔力を取り戻している。不穏な廃墟の中を、当てもなく歩く。

「さあユング、話してくれ」

 歩きながらのカナタは尋ねる。

 マリーの肩に乗っているユングは、長い耳をパタパタさせて答えた。

「……えと、〈パノプティコン〉のアプリがインストールされてしまう理由は、二つあるのです。一つは、すでに〈パノプティコン〉をインストールされている人から感染するパターンです。該当者が初めてインストールされてから三十分間の間に、SNSやメールなどでやり取りした場合、その人も〈パノプティコン〉に感染してしまうのです」

 リリカはギターケースを担ぎ直しながら、口を開く。

「んーと、あたしたちって、ほぼ同時に〈パノプティコン〉がインストールされてたよね? 確か〈リアルスタジアム〉をやってた頃。……ねえ、二人とも、あのとき三十分以内に、あたしたち以外と連絡してた?」

「いや、していないな」

 カナタは即答する。僕も思い出して、首を振る。

「ふーん……じゃあ、三人のうちの誰かに、一歩先に〈パノプティコン〉がインストールされていて、そこから残り二人に感染したって感じになるわけ?」

「うん。その可能性が高いと思うのです」

「ふむ。そうなると三人のうちの一人は、もう一つの理由で、〈パノプティコン〉がインストールされたということかな? それで、もう一つの理由というのは?」

 カナタが促すと、ユングはまたビクビクし出す。それが、ユングが話しにくそうにしている原因なのだろう。

「……あの、もう一つは、〈パノプティコン〉に選ばれたパターンなのです。どういう基準で、どのようにして選んでいるのかは謎なのですが、『ある特徴』を持った人が〈パノプティコン〉に招待されるのです」

「〈パノプティコン〉にとっては、その人が本命で、残りはオマケみたいなものってことかな?」

「うーん。オマケというより、仲間がいた方がいいから、そういうシステムになっていると思うのです」

「ならオマケというより、ついで、なのかな? それで、その『ある特徴』というのは?」

「悪人です」

 ユングは器用にマリーの背中に隠れながら言う。

「……え? 悪人……?」

 その単語に、僕の心臓が跳ね上がっている。

「はい。時価総額を上げるためなら手段を選ばない。他人から金を奪うのに躊躇いがない。そういう悪人を招いているからこそ、〈パノプティコン〉は膠着状態にならないのです」

 リリカは目を丸くしている。

「ええと……じゃあ、マリーちゃんも悪人なの? そんなわけないよね?」

「マリーは――というより〈USW〉そのものが、実は〈パノプティコン〉にとって例外的存在なのです。実際〈USW〉は今、マリーしかいないのです。本来〈パノプティコン〉は、悪人同士がお金を奪い合う場所なのです。〈イド〉であるボクは、それを知っているのです。それを防ごうとする存在については、この仮想世界には必要ないはずなのです」

 ユングはマリーの頭の上に載る。

「〈カリスマ〉にとって、マリーは邪魔な存在なのです」

〈カリスマ〉。マリーがそんな単語を口にしていた気がする。

「その〈カリスマ〉っていうのは誰? 何者なのよ?」

「それはボクも分からない……いや、誰にも分かりようがないのです。〈パノプティコン〉は『サトシ・ナカヤマ』という、おそらく偽名を使った謎の人物による、文書データが元になって作られたものなのです。それはある日突然、〈RELEASEブロックチェーン〉上にアップされました。今もその文書は、見ようとすれば見られます。文書は〈RELEASE〉の脆弱性について書かれ、現在の仮想通貨に依存した文化を批判したものでした。その脆弱性を突けば、記録を残さずに他人の〈RELCトークン〉を奪えるとされていたのです。それは脅威ではありましたが、その文書は多くの人にとって、深刻には受け止められませんでした。なぜならあまりに難解であり、現実的にはその脆弱性を突くのは不可能とされたからです」

 仮想通貨〈RELC〉は、〈RELEASEブロックチェーン〉で運用されている。ブロックチェーンとは特定の個人や企業ではなく、複数の参加者が互いに共有し、監視し合う、不正に強いシステムだ。特に〈RELC〉の参加者は世界中に存在し、膨大で、不正は実質不可能とされている。例えば株式会社RELEASEのエンジニアがプログラムを改変しようしても、監視者が世界中にいるので分かってしまい、不可能というわけだ。特別な権限を持っている人がいないのが、ブロックチェーンの特徴だ。

〈RELC〉に関して言えば、〈RELEASE〉アカウントを管理している株式会社RELEASEでさえも、一参加者に過ぎないと言える。

「でも、実際にはその難解さを乗り越え、〈RELEASEブロックチェーン〉の参加者の一部によって、その脆弱性は突かれました。それを元に、〈RELC〉を奪える〈パノプティコン〉が作られたのです。その一味と、『サトシ・ナカヤマ』が誰かは分かっていません。〈パノプティコン〉は〈RELEASEブロックチェーン〉の根幹に食い込み、もう引き剥がすことはもうできません。今も〈RELEASE〉を支えるべき有志は裏切り続け、〈パノプティコン〉は改良を続けているのです」

「ええー、どうしてそんな悪いことをするんだろう?」

 リリカが首を傾げてそれから、「え?」と、目を見開かせた。

 カナタがその場で立ち止まり、目に見えて動揺し、唇を震わせていたからだ。先ほどオークを倒したときでさえも平然としていたというのに。

「……どうしたの、カナタ?」

「ふふ……こんな反応にもなるよ」

 苦笑いを浮かべてしまった自分の頬を叩き、カナタは冷静になろうと務める。

「……なぜ〈RELC〉を初めとした仮想通貨が、ここまで市民権を得たのか知っているよね? それは仮想通貨を支えるブロックチェーンというシステムに、それだけ信用があったからだ。誰もが監視できるが故に不正ができない、そのシステムによって生み出された通貨は、政情が安定していない国家が発行する通貨なんかよりも遙かに信用が高かった。価値が安定するまでは投機の材料としての使われ方がメインだったけれど、安定してからは貨幣として問題なく使えるようになった」

 僕も、カナタが言いたいことが分かり始め、思わず口を覆う。

「でも、〈パノプティコン〉というプログラムが生まれてしまった。他人から容易に金を奪える脆弱性が見つかり、現実に行われている。それが世間に知られてしまったら、〈RELC〉の信用はなくなる。根幹が揺らぐ。そうなると――」

 一度言葉を詰まらせて、言う。

「〈RELC〉の価値が、ほぼゼロになる」

 にわかには信じられない。

 日常生活のほとんどで、僕らは〈RELC〉を使っている。ジュースを買うのにも、バスの料金を払うのにも、寮の家賃を払うのにも、ATMなどで円や〈KCC〉に換金することはあっても、元は〈RELC〉を使っている。日本政府が発行した一万円札と、一万円分の〈RELC〉を交換するのに、躊躇いのある人はいない。生まれたときから仮想通貨は身近にあった――いや、この社会に生きる以上、切っても切り離せない存在だった。

 それが、無価値になる?

 あまりに、想像の外にある出来事だ。

「個人にそれぞれ割り当てられている〈RELCトークン〉を合計した〈RELC〉の時価総額は、現存する仮想通貨の中でダントツの世界一位だ。それが無価値になるなんて想像したくもないことだけれど、残念ながら事態はもっと深刻になる。仮想通貨そのものの存在意義すら問われるからだ。ビットコインを初めとする仮想通貨全体の価値も、下手すれば無価値になるほどに暴落する。そうなれば間違いなく、これまでで社会が経験していない、深刻な大恐慌が起こる。そうなれば、おそらく――」

 息を大きく吐き、言う。

「世界戦争が、起こる」

 僕もリリカも、息を呑んだ。

「お、大げさに考えすぎじゃないの?」

 僕もそう思ってしまう。けれど、カナタは深刻な顔を変えない。

「チューリップ・バブルって知っているかな? 十七世紀のオランダで起きた元祖のバブルなのだけど、そのときはチューリップに異常なほどの価値が付いたんだ。珍しい球根一つに家一軒の値段が付くほどだったと言われている。そうやって聞くと、なんておかしな出来事だと思うだろう? でも、チューリップを100ドルで買って、別のところに売ったら500ドルになるなら誰でも買うだろう? そういうことが実際に起こっていたんだ。けれど、やっぱり、所詮はチューリップなんだ。誰かが買わなくなると、あっという間にパニック状態の暴落が起こり、バブルが弾け、国中に破産者が続出した」

「……〈RELC〉と、チューリップは全然違うでしょ……」

「そうだね。セキュリティへの信頼がなくなった仮想通貨は、チューリップの球根以下の電子データだよ」

 まだ実感は湧かない。

 今持っているお金が、使えなくなるなんて想像できない。

 けれど、カナタの言うことは正しいのだと、理解できる。

 そう、〈パノプティコン〉は本当に、世界を崩壊させるに足るシステムなのだ。

 深刻にうつむく僕らに、ユングが言う。

「大体状況を理解してもらえたですか? だから〈カリスマ〉が誰とは言えないのです。〈カリスマ〉とは、『サトシ・ナカヤマ』のことを指すかもしれませんし、〈パノプティコン〉のプログラムを制作している人を指すかもしれません。でも、〈パノプティコン〉の制作者も運営も、中心人物は分かりません。場は開かれていて、技術さえあれば〈パノプティコン〉の改良、拡大に誰でも参加できます。黒幕はいくらでも増え続けるのです。だから、〈カリスマ〉は一個人とは言えないのです。一番的確に〈カリスマ〉を言い表そうとしたら――」

 カメラレンズの瞳で僕をしっかり見つめる。

「悪意。〈RELEASE〉を壊すことで、世界を混沌へと陥れようとする、悪意そのものです。それが〈カリスマ〉です」

 ユングは両手を挙げて、言う。

「そして〈カリスマ〉は、『世界の敵』なのです」

 沈黙。

 こんな身近に潜んでいた、世界崩壊の悪意に、僕らはただただショックを受けていた。

「意味分かんない……。そんなみんなが悲しむことをして、どうするっていうのよ?」

「……崩壊させるメリットならあるかもしれない」

 僕は額の汗を拭って言う。

「世界恐慌となったら、たぶん世界中の貨幣と株式、債権の価値が暴落するよね。けれど反対に実物資産――金、銀、プラチナの価値は急騰する。数十倍か、数百倍か、それ以上か――今のうちに確保しておけば、億万長者どころじゃない将来が約束されてる」

「ユウスケの言う通りだ。けれど、わざわざこんなことをするのだから、もっと志は高いかもしれないね。パラダイムシフトが起こった後の次の世界で、支配者にでもなるつもりかもしれない。いつの時代も、革命を望む人間はいる」

 革命。

 聞き心地のよい言葉だけれど、つまりそれは、今の世界に満足している人間の意志を蔑ろにし、それどころか血を流させる行為だ。

 きっと世界中のほとんどの人間が、望んでいない。

 だから、それをしようとする奴らは、どんなに志が高くとも、やはり『世界の敵』なのだ。

「あ!」

 リリカが声を上げる。

「でも、そこでマリーちゃんがいるんだよね!」

「そうです!」

 ユングは興奮し、大声で返事をする。

「マリーは〈USW〉として、〈カリスマ〉と、〈カリスマ〉の生み出した〈CSW〉の反逆者として、〈パノプティコン〉に現れたのです! 〈RELC〉はブロックチェーンを使用しているので、理論上記録を消すことはできず、必ず記録が台帳に残ります。だからマリーが〈CSW〉から〈RELC〉を取り返しても、信頼性が失われることには変わりないと、ボクは初め思っていました。でも、違ったのです! そもそも〈パノプティコン〉も、台帳に書き加えているのではなく、巧妙な偽装データを貼り付けることで、〈RELC〉を奪い取るということを可能にしたものでした。マリーの能力は、なんとその貼り付けた偽装データを消してしまうことだったのです! つまり、マリーが〈CSW〉を倒すと、〈RELC〉を奪い取ったという事実そのものが消えてしまうのです!」

 まくし立てた説明に、口を開けて聞いていたリリカは、頭を掻く。

「ええと、つまり……どういうこと?」

「つまり! 記録上、誰も〈RELC〉を奪われなかったことになるのです! だから、〈RELC〉のシステムの信頼性を維持できるのです! 通貨としての価値を守れるのです! 〈パノプティコン〉が〈RELC〉の脆弱性を突くウイルスプログラムなら、マリーは〈パノプティコン〉の脆弱性を突く、ワクチンプログラムなのです!」

 まだ興奮した様子でマリーの頭の上で、手をパタパタ振る。

「『サトシ・ナカヤマ』の理論を見る限り、そんなことは人智では不可能に思いました。人工知能であるボクが計算しても、その仕組みを理解できません。でも、マリーは現実にいます! 奇蹟のようにここにいます! だからボクにはこうとしか思えないのです」

 マリーの頭の上で、短い手を広げる。


「マリーは『世界の救世主』!」


 救世主。

 世界を救う『特別』な存在。

 ああ――

 やっぱりマリーに憧れていた、僕たちの目は、間違っていなかった。


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