第5話


  瞬間。

 音が消え、目の前の風景が完全に書き換わった。

 ファーストフード店の壁は崩壊し、朽ち果て、赤錆の目立つ廃屋に変わった。コンクリートが剥がれ落ち、中の鉄筋が露出している。

 建物の中にいた人たちは、世界から拒絶されているように色を塗りつぶされている。グレー一色にされモザイクが掛かっている。喧噪は消え去り、世界は無音だ。モザイクが得体の知れないものを掴むと、口に運んだ瞬間にそれにもモザイクが掛かった。おそらくハンバーガーを食べているだけなのだが、何かとてもグロテスクな光景に見えてしまう。

 唐突に現れた光景に、顔の筋肉が硬直し、動かない。首だけ動かしカナタとリリカの姿を見ると、二人にはモザイクが掛かっておらず制服姿のままだった。二人の表情も、恐怖と不安で強ばっている。

「……なんだこれ」

 試しに〈NEW WORLD〉のARモードを切ってみると、そこには元通りのファーストフード店の風景があった。ノイズキャンセルで消えていたであろう、喧噪も蘇る。やはりこの光景は〈パノプティコン〉なるアプリのせいなのだ。

「……外に出て様子を見よう」

 神妙なカナタの声に頷き、僕ら三人は、ファーストフード店を出た。

「う……」

 そこは見知っている中心街ではなくなっていた。

 廃墟だ。モザイクまみれの廃墟の街だ。

 星が出ていた空は、禍々しい雲によって、灰色に変えられている。建物はファーストフード店と同じように朽ち果てている。植えられていた樹木は枯れ木になっているが、逆に建物の周りには、コケやツタのような木など、無造作な緑に覆われている。〈NEW WORLD〉は嗅覚には対応していないのだが、リアルな光景によって、錆の臭いと緑の匂いが錯覚によって生み出されている。この街が長年封鎖されることがあったとしたら、こんな光景になるのではないかと思わせる光景だ。

 人の声は消音されていて、元々の風の音と、割れたレンガ道を歩く自分たちの足音だけが騒がしい。

「……は、はあ」

 やけに息苦しいと思ったら、鼻で息をするのを忘れていた。心臓が暴れているのを、胸に手を押し当てることで宥める。

 なんなんだ、このアプリは?

 悪趣味だ。まともじゃない。

「視界の右下にメニュー画面らしきものがあるね」

 カナタがそんなことを言った。確かに右下にはホロウィンドウが表示されている。

「でも押しても反応しないよ。ってかヤバくない? さっきから試してるんだけど、ログアウトもできない。これ、このアプリを終えられないってことじゃない?」

 ギターケースを背負ったリリカが、不安そうにポニーテールの毛先を触っている。

「俺たちの頭の上にある、格闘ゲームに使われそうなゲージは、数値から見るに〈RELEASE〉の時価総額かな?」

 みんなの頭上に、黄色いゲージと数字が表示されていた。僕『2,213,000』、リリカ『16,540,000』、カナタ『58,167,000』。カナタが言うようにそれは時価総額の数字と同じだ。

「MMORPGなのか? しかし、ここまで細部まで3DCGを作り込むには、とんでもない労力と資金が必要なはずだ。これだけ最先端の技術は、大手ソフトウェア開発企業でもできるかどうか……。しかも、位置マーカーが正確じゃないと成立しないわけだから、カスミシティの一部でしかできないはず……つまり、収益も期待できないはずだ。大型ゲームのクローズβ? いや、β版といえど、こんな大型アプリが稼働していたら、世間に知られていないわけがない。ましてや〈パノプティコン〉と検索しても引っかからないなんてあり得ない。……まともじゃない」

 いつも微笑んでいるカナタがここまで深刻な表情を見せるのは、僕が知る限り初めてだった。

「まともじゃないって言っても、死ぬわけじゃないっしょ?」

 リリカの言葉に、カナタは口を閉ざす。

「……ちょ、ちょっとカナタ、黙り込まないでよ……」

 カナタは僕らを安心させるために無理矢理ニッと口角を上げて、僕とリリカを見る。

「とにかく重要なのは情報だね。ARモードを切らずに街を歩いてみよう。特定の地点にたどり着けば、チュートリアルか何かが始まるかもしれない」

 カナタの意見に反論などあるはずもなかった。


『エリア外に出た場合、強制ログアウトされます。アカウントが破壊されたときと同様の処理がされます。よろしいですか?』

〈パノプティコン〉によって生み出された廃墟は、どうやら精密に位置情報を定められるところまでのようだった。

 カナタの提案で、カメラが届かず、位置マーカーが正確でない場所に行ったらどうなるかと安らぎの森に行ってみた。すると廃墟の終わりこそ見えたが、先に進もうとすると、こんなメッセージボックスが警告音と共に表示されたのだ。

 このアプリのことはまだまだ分からないが、まともではないことだけは確実だ。アカウントが破壊されたときにどうなるか分かったのもではない。そうである以上、僕らは引き返すしかなかった。

「う、う……疲れた」

 リリカが弱音を吐く。僕も釣られて長い溜息を吐いた。おそらく距離にして二、三キロ程度しか歩いていないだろうが、何が起こるか分からない緊張感が、僕らを疲弊させていた。

 とはいえ、異様な光景自体には少しずつ慣れてくるものだ。周りの風景に圧倒されるだけでなく、観察できるようにはなっていた。

〈パノプティコン〉を起動していても、僕らの安全は最低限配慮されているらしく、折れ曲がった信号機は見た目に反して正常に機能している。中が剥き出しになっている錆びたバスやタクシーが、現実の速度と変わらず動き回っているが、近づいてくると、警告の表示がきちんと出る。

 現実世界で人間に関わらず生き物がいる位置には、グレーのモザイクが掛かっているようだ。人間にも、犬にも、猫にもモザイクが掛かっている。ペンキの剥がれ落ちたベンチに座っているモザイク。廃墟の中で割れたティーカップでコーヒーを飲むモザイク。モザイクが乗ったベビーカーを押すモザイク。

 そして、西洋の剣と丸い盾を持ったガイコツ。

「……って、え?」

 ガイコツ?

 それは三百メートルほど離れた交差点の先にいた。人間ほどの大きさのガイコツ――RPGならスケルトンという名前であろうそれは、西洋の兜をかぶり、千切れた赤いマントを羽織っている。あばら骨がうねうねと別の生き物のように動いていて、右目だけ不気味に赤く光っている。

 モンスター。

 そうとしか言いようのない物体。

 スケルトンには、僕らと同じように頭の上にゲージがあった。数値は『18,119,000』。僕とリリカより高く、カナタより低い。

「何よ、あいつ……」

 リリカの声が聞こえたわけではないだろうが、スケルトンがこちらに気付いた。赤い目が合う。まだ思考はフリーズしていて、恐怖心はやって来ない。ただ「ヤバイ」ということは、頭の先の方で分かっている。心臓の鼓動が加速度的に速まっている。

 スケルトンは僕を見てわずかに静止した後、明らかにこちらに向かって走ってきた。ガシャリガシャリ、キシキシキシキシ――と、日常とはかけ離れた大げさな音が、静かな廃墟に響き渡る。

「カ、カナタ、ヤバくない? よく分からないけど、あいつに攻撃されちゃわない?」

「……されるかもね」

「これがゲームだとしても、あたしたち戦い方なんて知らないし……。メニュー画面は相変わらず開かないし……。あ、あのさ、また聞くけど、あいつにやられても、まさか死にはしないよね? よね?」

「……とにかく、逃げよう!」

 そうするしかなかった。

 ヤバイ! よく分からないけれど、とにかくヤバイ!

 焦ってきびすを返したせいで、左足首を軽く挫く。しかし、その程度の痛みで止まれるはずもない。まだ走り始めたばかりなのに、準備不足の心臓は締め付けられ、やけに苦しい。感情がようやく追いついて、頭を恐怖心が覆い尽くす。急激な感情の変化に追いつけずに、目の前がチカチカして、地面を踏んでいる感じがしない。呼吸が浅くなり、うまくできない。脂汗が額に浮かんでいる。

 走り出した僕らを見て、スケルトンはスピードを上げた。意外にも、走る速さは僕らとさして変わらない。

 ーーそうだ、このモンスターは、現実だと何に当たるんだ?

 テンパりながらもそう思い当たった僕は、一瞬だけARモードを切って、スケルトンがいる場所を見る。

「……え?」

 そこにいたのは、なんの変哲も無い、二十代くらいの男だった。屈強でもない、むしろどちらかといえば貧弱な男だ。

「NPCのモブじゃない……。追いかけてきてるのは、人間だ」

「に、人間? じゃあもしかして、あたしたちと話をしようとして、近づいてきてることもあり得る?」

「いや……」

 もしそうだとしたら、僕らが〈パノプティコン〉初心者なのは明白なのだし、安心させるためにも友好的な態度をしてもいいはずだ。彼にはそんな様子がまったくない。

 あの目は、獲物を見つけた目だった。

「僕らを倒す気だ」

 そして、素顔を見たのは一瞬だけだが、僕には分かる。

 あれは、悪人の顔だ。

「うう……! 何なのよ! あたしたちを倒して、何のメリットがあるのよ!」

 カナタが「こっちだ!」と手で逃げる方向を指示する。中心街は、カスミシティになってから一から開発された場所だ。道路はきれいに網目状に整備されていて、裏道と言えるような道はないため、逃げるのには適していない。

 できることは限られている。何度も曲がることで、スケルトンから姿を見失わせ、店の中に逃げ込む、それくらいだ。カナタもそのつもりのようだった。

 しかし、〈パノプティコン〉によって、建物が崩壊しているせいで、結構な割合で外からも丸見えになってしまっている。カスミシティに配備されている膨大なカメラの数が、そんな演出を可能にしている。

「二人とも、こっちだ」

 バスケ部でレギュラーのカナタはさすがに体力があり、その足取りには余裕が感じられた。スケルトンの走る速度なら、カナタは余裕で、僕もギリギリ逃げ切れそうだ。

 けれどもう一人、リリカの足が、思った以上に遅い。

「……リリカ、ギターは置いていけない?」

 僕の言葉に、ゼーゼーと息をしながら、リリカは首を振る。

「……ぜえ……ぜえ……こ、ここって今は廃墟だけど、本当は街中なんでしょ! じゃあ無理! これってマニア受けする結構な高級品なの! もう手に入らないの! ああえっと、そんなことより何より、このギターはあたしの命なの!」

 と、僕が余計なことを喋らせてしまったせいもあるだろう。

「あ……!」

 ただでさえギターを背負って、バランスの悪いリリカは、つんのめって倒れてしまった。

「リリカ!」

「い、ったあ!」

 その間にも、スケルトンは迫ってくる。すぐに立ち上がろうとするが、リリカは慌ててしまって、突っかかってしまったように何度も転ぶ。

「う、ああ、ど、どうしようどうしようどうしよう!」

 ……ああ、ダメだ。もうこの距離では、リリカは逃げ切れない!

 そう思い当たったときだった。

 恐怖で支配されていた僕の心臓が、急速に平常に戻っていく。汗が引いていくのが分かる。

 目に映るのは廃墟のはずなのに、違う光景が映っている。

 そこはタワーマンションの屋上。地上からの高さ189.22メートルから見下ろした、カスミシティの光景。

 僕は小さく呟いた。

「いつでも死んでやる」

 そうだ。もし、スケルトンによる攻撃によって死んだとしても、自殺志願者の僕にはどうでもいいことだ。

 ああ、マジで、どうでもいい。

 僕は、リリカの前に立った。

「え? ユ、ユウスケ!」

「僕があいつを止める。その間に逃げて」

「え? そ、そんなわけにいかないっしょ! ユウスケが死んじゃうかもしれないんだよ! それが分かってて、置いてけるわけないじゃん!」

「別に死ぬとは限らないんだし、どうせ僕ももう間に合わない。僕があいつをなんとかして止めている間に、リリカはカナタと逃げて」

「た、頼んでないよそんな格好いいこと! ほんとやめてよ!」

 だが、こうなった以上、僕の言うとおりにするしかないと思ったのだろう。リリカは涙を拭きながら、急いで身体を起こす。

「ごめん! ユウスケ、ごめんね! そして、ありがとうね! 絶対、この埋め合わせはするし!」

 リリカは這い上がり、駆け出した。花束のような香水の匂いが離れていく。

「ふふ」

 まさか僕が女の子を守るだなんて、少年マンガの主人公みたいなことができる日が来るとは思わなかった。自殺志願者も案外悪くないじゃないか。

 足を強く踏みしめて、迫るスケルトンを睨み付ける。怖くない、わけはない。あの剣で貫かれたら、リアルな痛みがあるのかもしれない。滅茶苦茶血が出るのかもしれない。ああ、必死になっていたせいで忘れていた、くじいた足首の痛みが蘇る。結構痛い。捻挫くらいはしているかもしれない。スケルトンの足音は近づいてくる。ガシャリガシャリ、キシキシキシキシ――と、暴力的な音が鳴り響いている。拳を握りしめると、『指定の武器以外での暴力は禁じられており、強制ログアウトとなります』とダイアログが表示された。まったく……何の抵抗も許されないというのか。

 死を覚悟していてもそれでも、スケルトンが近づくと、勝手に脚は逃げようとする。もしかしたら本当に、〈パノプティコン〉初心者の僕らに、色々教えてくれようとしてくれているのじゃないかと、都合のいい妄想さえ浮かんでくる。僕は震える膝を押さえつけて、そこに踏みとどまる。

 ついに、目と鼻の先までスケルトンはやってきた。脚を緩め、ついに立ち止まったスケルトンは、顎の骨をカクカク動かして言った。

「ガキ、女の前でカッコつけて、本当にむかつくな。おかげで遠慮なくやれるぜ」

 ふふ、やっぱり僕は間違っていなかった。

 こいつは悪人で、クズだった。

 スケルトンが剣を振り上げた。僕は覚悟を決めて、目をつぶった。

 ――ああ、でも、これで。

 ――僕はこの地獄のような街から、解放される。

「…………」

 しかし、いつまで待ってもこの身に何も起こらなかった。

 恐る恐る目を開けると、スケルトンは剣を振り上げ、掲げたまま静止していた。右目の赤い光が消えている。

「え?」

 何が起こったのか?

 僕は気付く。スケルトンの身体を、四つの刃が貫いていた。

 四つの刃がずるりと抜かれると、スケルトンのCGに身体が飛び散るエフェクトが掛かり、スケルトンは消え――いや、ARモードを切ったときに見た、二十代くらいの人間の姿に変わった。白目を剥いている男は、そのまま前のめりに倒れる。

 事態が把握できず呆然としたまま、顔を上げる。

「――あ」

 そこには、モザイクの掛かっていない女の子がいた。


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