明日
それは、一瞬のことだった。
そして、永遠のことだった。
俺の額の奥に薄紫色の光が吸い込まれたと同時、俺の中に、俺のものではない記憶が溢れてきた。
それは、とても懐かしい匂いと、柔らかな温もりに満ちた記憶。
母の記憶だ。
俺はそう直感した。
俺の母――旧姓・旭
彼女は、どうやら自分にだけしか見えないらしい人の形をした光の塊との係わり方を、ずっと模索しながら生きていた。祈祷や占術を齧ったこともあったようだが、そのどれもが徒労に終わった(というより、効果があるのかないのかすら分からなかった)。
彼女は、誰にも言えず、誰にも聞けず、ただ一人で、彼女の世界を生きていた。
そんな母が、高校生の頃に出会ったのが、貞子であったのだ。
母は、俺が不二子にそうされたように世界の裏側の仕組みを知り、そして、折り合いのつけ方を学んだ。
彼女が幽霊を目撃した時には、その場所なり人なりに何かしらの目印をつけ、貞子に伝える。
貞子はそれを見て幽霊を見つけ、分解する。
自分の見ているモノがあくまで世界の理の一部であり、それをきちんと管理している者がいるのだという事実は、母の心の重圧を取り払っていた。
貞子は貞子で、駆け出し時代の仕事のサポートとして、母の存在はかなり重宝していたらしい。
そんなやりとりを続けているうちに、二人の女は、いつしか心を通わせるようになっていった。
『アケビ。こないだ言った歌番組録画しててくれた?』
『ばっちりだよ。今回は野球中継もなかったし。一緒に見よ?』
『私ももっと都内の勤務だったらなぁ。ライブなんか見放題なんだけど』
『駄目だよ~。ライブはちゃんとお金払わなきゃ』
『あれ?』
『どしたの、貞子?』
『ねえ、これ裏番組じゃない?』
『え゛』
『貞子~。聞いてよ~。こないだガッコの友達に誘われて行った飲み会が合コンでさ~』
『へぇ。そうなん……え、ご、合コン? アケビが? …………何よそれ詳しく聞かせなさいよ』
『もう最悪だったよ~』
『ええ? いい男の人いなかったの?』
『みんなお酒弱すぎ。私なんかまだほろ酔いだったのに男子全員潰れちゃってさ』
『いや。普通の人があんたのペースに合わせられるわけないでしょ……』
『今日は飲む! お兄ちゃんのお土産のボトル開けちゃうんだから!』
『はいはい付き合いますよ』
『アケビ。もうやだ。仕事辞めたい』
『どしたの、貞子』
『あのクソ上司ホント最悪。誰があんたのために経理の書類なんかやるかっての。あんたが仕事押し付けた部下の子のためにやったのよ! それを抜け抜けとあいつ! お礼したいから飲みに行こうって連れてった先で延々人の尻撫で回そうと手ぇ伸ばしてきやがって!』
『あぁ~。死んだ方がいいね~。よし、貞子。ストツーやろ?』
『あいつの顔、何となくバイソンに似てる気がするのよね』
『よ~し百裂張り手で顔パンッパンにしてやろうぜ~』
『ねえ、貞子』
『うん?』
『私ね、結婚することになったの』
『うん』
『いい人なの。すっごく』
『知ってるよ』
『あなたのこと、ホントは紹介したい。私の、一番の親友だって』
『無茶言うなよ……でも、アリガト』
『ねえ』
『うん?』
『あの人は無理でもさ。私に子供が生まれたら、あなたのこと、見えるようになるかな?』
『さあねぇ』
『そしたらさ、一緒に頭撫でてあげてさ。ピクニックとか行ってさ』
『じゃあそれまでに、この冷え性なんとかしとかないと。びっくりさせちゃう』
『あはは。確かに、その氷の手』
『楽しみだね、アケビ』
『うん』
その後すぐ、母は父と結婚し、俺を生んだ。
そして、死んだ。
母は搬送された病院で、一度だけ意識を取り戻したらしい。
そこで待ち構えていた彼女の兄――旭時彦の企みを知り、自分の命が助からないことを知った。それどころか、彼がまだ幼かった俺の魂までをも狙っていることを。
母は生まれて初めて、『力』を使った。
魂を操る力。
貞子たちが持つその力を。
己の魂に向けて使ったのだ。
やがて来るその時、俺の魂と再会するために。
先ほど、叔父の巨大な魂の中に取り込まれた俺の魂は、淡い山吹色の光――朝日の光によって包み込まれた。十年以上、歪な力の塊の中でその形を保ち続けていた、母の魂の力。
それが、不二子によって解き放たれ、貞子によって紡ぎ合わされたとき、母の記憶と最期に遺した言葉が、俺の魂に紛れて取り込まれたのだ。
それは、たった三言の言葉だった。
『ごめんね』
『愛してる』
『どうか、生きて』
とうに忘れていたはずのその声が、俺の全身を柔らかな風で撫ぜていった。
腹の底から染み出す熱が、脊髄を昇り、眼から滴となって溢れ出す。
肺が震え、嗚咽となって喉からこみ上げる。
「嘘でしょ。一度融合された魂が、その中で十数年間生前の形を保ってたっての?」
「ありえるわよ、あの子なら」
疑わし気な不二子に、貞子が呆れたような、それでいてどこか誇らしげな声で言う。
紫色のジャージが、ゆっくりと俺に近づいてきた。
その両手が、激しく揉み合わされている。
「ごめんね、私、冷え性でさ」
恥ずかし気に言う貞子は、先程そうしたように、俺の頭をゆっくりと撫で、髪を梳かした。
その指先は、やはり冷たい。
それでも、何故か今の俺には、それがとても暖かな掌に思えた。
『愛してる』
『どうか、生きて』
繰り返し心魂に染みわたるその声は、木霊のように徐々に小さくなっていった。
俺はいつまでも、いつまでもその声の残響を求めて、胎児のように身を抱え、蹲っていた。
『愛してる』
『どうか、生きて』
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