友人

 その変化は、静かに始まった。


「さあ、これで完結だ…………ん?」


 薄紫の光が叔父の右手に吸い込まれていき、水に絵の具を一滴垂らしたように、漣となって全身に行き渡る。

 満足そうにその感触を味わった叔父の顔に、今日初めて表情の変化が起こった。

 

「これ、は……なんだ」

 一瞬の無表情。ややあって、放心。困惑。

 そして、恐怖。


「なぜだ、……これは、この魂は、違う。これじゃない。僕が欲しいのはこれではない」

 その言葉からは、先程まで常に発されていた不可視の圧力パワーが感じられない。

 翳っている。

 俺にはそう見えた。


 円は、歪に。

 白は、濁に。


 叔父の魂が、崩れていく。


「なんだ、なんだ、これは! これはぁ!」

 狼狽する叔父の額に血管が浮く。

 顔が赤くなったと思いきや、すぐにそれを通り越して鬱血した紫に変わっていく。

 目には稲妻のような血走りの線。

 呼吸が荒くなっていく。


「ねえ、佳祐くん。タロットカードって知ってる?」


 感情を失くし、そんな叔父の様子になんの感慨も抱けずにいる俺に、いつしか隣に近寄っていた貞子が薄っすらとした笑みを浮かべて言った。

「あれよ、ジョジョのスタンドのやつ。『世界』ってさ、あるでしょ。時よ止まれ、って」

 そのヘーゼルカラーの瞳には、堪え切れない喜悦が見て取れた。


「タロット占いってね、聞きたいことを決めたら、何枚かカードを伏せて並べて、順番に捲っていくの。過去、現在、未来、身近な人、自分の気持ち、手助けするもの、ってね。それで、最後に最終予想のカードを捲るのね」

 まるでクラスメイトの女子のように、浮ついた声でそんなことを話す。


「『世界』のカード意味は、『完成』、『満足』、『大いなる循環』。けど、タロットには全て逆位置がある。捲った時の天地の違いで、意味が真逆になるのよ」

 

 意味が、真逆?


「『世界』の逆位置は、『未完成』、『行き詰まり』、『喪失と挫折』」


 叔父が、その言葉を聞きつけた。

「馬鹿な! 何故だ。圭佑は『達成』したはずだ。己の人生を、生きがいを、使命を! そうだろう、貞子! なあ!」


 その言葉は、もはや畳と変わらない位置から発されていた。

 叔父は芋虫のように這いつくばっていた。

 荒い呼吸を繰り返し、だらだらと脂汗を流している。


 俺はそれを、やはり無感情に眺めていた。

 なぜ?

 なぜ貞子は


 痩せぎすの体。

 剃り込まれた眉毛。

 整髪料のつけすぎで針金のようになった髪の毛の男。



 



「あ」


 叔父の呼吸が、つかえた。


「あ。……いやだ、崩れる。あ……あ。いや、いやだ」


 その胸が掻き毟られる。

 ワイシャツのボタンが弾け、Vネックの下着が顕わになる。

 死にかけた虫のようにもぞもぞと両足がのたうち、無意味に畳を擦る。


「しにたくない」


 その動きに追従するように、叔父の体から光が漏れ出でた。

 赤く、青く、白く、黄色く。

 それは虹色というよりは、穢れた油膜のような色に見えた。

 奇々怪々な魂のモザイク。

 それが、ゆっくりと滲み出していく。


「いやだ、あ。……しにたくない。……しにたくないぃぃ」


 そこに。


 しずしずと、近づく影。


 それは、女だった。

 小さく、細い女だ。

 触れれば折れそうなほど細い手足を、フリルがたっぷりとあしらわれた真白いワンピースから覗かせている。

 その手に握る、大振りのナイフ。

 髪は黒。

 前は目の上にかかる程。後ろは腰に届く程。

 ぎょろりとした大きな目の下に、濃い隈。

 薄い唇は青紫で。

 ひと目見ただけで暗黒に引きずりこまれそうな、女の姿だった。


 まるで、暗闇が自然とこごったかのように、音もなく現れた女――不二子は、その手に握った凶器を静かに掲げた。


 両手で、そっと。

 のたうち回る歪な光の塊に、まるで大切な贈り物を差し出すように。


 刃が突き立てられる。


「ぁ……」


 最後は、蚊の鳴くような声。

 叔父の顔が、自らの頭上で行われたその死刑執行を、血走った眼で捕らえていた。


 解ける。

 巨大な力が、解けていく。

 しゅわしゅわと、炭酸が弾けるように空気に吸い込まれていく光の粒子。

 色とりどりの光の欠片が消えていくごとに、段々と叔父の魂の塊が小さくなっていった。

 ゆっくり、数秒をかけて、徐々にやせ細っていく光。

 最後に残ったのは、もはや持てる輝きを全て失った、消し炭のような何かだった。


 しゅん。


 やがてはそれさえも虚空へと消え失せ、後にはただ、耳に痛む程の静寂だけがあった。 

 しばし、無音の時。


「く」


 そこに、女の声が掠れるように漏れた。


「ぷ」

「くふっ」

「……っくく、く」

「く……ふ、くくく」


 ふつふつと粟立つ二人の女の声が、徐々に大きくなっていく。


「くはっ」

「あはっ。あっははは。あっははははははははははは」

「あっはっはっはっはっはっはっはっははっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」


「ばっっっっかじゃないの!!!!」


「あっはは。あっはははは。わた、私たちが、私たちが人間の手下になんてなるわけないじゃない!」

「かっははははは。最高。最っ高だったわ! 『僕は、人間になりたかったんだ』」

「ぶっひゃひゃひゃひゃひゃひひゃひゃ。無理だっての! あんたじゃ一生無理だっての!」

「あっはははははははははははは」

「ひぃぃっひひひひひひひひひ。苦しぃぃ!」


 腹を抱えて、二人の女――不二子と貞子が大爆笑している。

 蝉の抜け殻のように動きを止めた叔父の体の横で。

 髪を振り乱し、畳をばしばしと叩き、壊れた玩具のように暴れまわる。


「ねえ、貞子。ホントに私が貰っちゃってよかったの?」

「ええ、勿論。ていうか、あんだけ膨れ上がった力、素手じゃどうしようもないわよ。あんたのナイフが必要だったの」

「うぅ~。やったあ。こんだけあれば、今月どころか上期分のマイナスまで全部チャラよ! ありがとう、貞子。私、あんたのこと誤解してたみたい」

「いいのよ。こないだまで私がズルしてたようなもんだし」

「そうだ、お返ししなきゃね。何がいい? ラメ入りのメリケンサックとかでいい?」

「ううん。まずはその、まだ解けてない誤解を解くことから始めましょうか」


 完全に二人だけの世界ではしゃぎ倒す二人を呆然と眺めていた俺に、ようやく貞子が視線を寄越した。


「あ。ごめんごめん。ちょっと待ってて」

 そう言って、虚空に視線と指を彷徨わせた貞子は、やがて何かをひょいと掴み取ると、くるくると指先を回し始めた。

 そこに、薄紫の光が宿り始める。

「安心してね、佳祐くん。君の魂の力は、ちゃんと治せるようにしてあるから」


 くるくると、光が紡ぎ合わされていく。


 やがて、先程見た時と変わらぬバレーボール大のサイズになった光の塊を、貞子は少し照れくさそうにして、こちらに差し出してきた。

 それを、意地の悪そうな笑みを浮かべた不二子が横から覗き込む。

「はい。ちゃんと編めてると思うけど、何か違和感あったら言ってね?」

「ええ? ここんとこ変じゃない?」

「え? うそ。どこ?」

「ほら、ここ。もっとこう、一ひねり加えてさ。いっそのこと――」

「あんたの好みに合わせてどうすんのよ。真面目にやって!」


 ……俺の魂だよね?


「あああ。ごめんね。大丈夫よ。こう見えて私、手先は器用なんだから」


 そう言って、改めて差し出されたその薄紫の塊は、俺が何をするでもなく、自然に俺の顔へと吸い込まれていった。



 光が。


 満ちていく。


 暖かな。


 甘い匂い。


 柔らかい。


 記憶。


 声。


 風に揺れて――。



「佳祐くん?」

 貞子が、心配そうな目でこちらを覗き込んでいた。

 その美貌が、歪んで見えた。

 熱い。

 俺の眼から、涙が零れていた。


「ちょっと、佳祐、大丈夫?」

 その横に不二子が詰め寄る。

 その顔も、もう俺には見えない。


 けど、わかった。

 やっと。


「貞子……さん」

「うん?」

「あんた、母さんの友だちだったんだな」

「………………はへ?」

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