結束

 誘拐というものを、されたことはあるだろうか。

 拐かし。

 キッドナッピングである。


 あるわけねぇだろ。

 

 流石にこれはない。

 ないよと言いたい。

 俺だってそう言いたいのは山々なのだけど。


 俺は、ある。

 というか今、されてる。


 眼を覚ました俺が真っ先に感じたのは、藺草の匂いだった。

 次いで、瞼の裏に暖かな光の感触。

 右の頬に微かな痛み。


 ゆっくりと眼を開けると、薄い黄色の明かりに照らし出された畳の目が現れた。

 視界がぼやけるのは、意識が朦朧としているせいか、それとも単に光量が乏しいせいか。

 ずっと畳の上に寝転がされていたのだろう、擦れたように痛む頬をさすろうとしたところで、両腕が動かせないことに気付いた。

 後ろに回された腕がスベスベとした感触の何かに縛られ、開くことができない。


 徐々に鮮明になっていく意識と共に、周囲の様子も目に入ってくる。

 和室。広い部屋だ。高い天井から下がる和紙作りの照明のうちの一つだけが、四方を襖に囲まれた暗い室内に、ぼんやりとした明かりを落としている。

 俺はどうやら、ほぼ部屋の真ん中で転がされていたらしい。


 こんな時普通なら、ここは何処だ、一体だれがこんなことを、とパニックになるものなのだろうけど、この場合はそのどちらにも俺は答えを持っていたせいか、不思議と混乱はなかった。

 なんなら、自分の部屋に男たちが押し込んできたときよりも落ち着いているくらいだ。

 

 飾り気のない部屋だった。

 ただ一つ目を引くのは、床の間に飾られた小さな掛け軸だけである。

 真白い円。その中に、蓮に乗った、漢字の『升』に似たマークが描かれている。

 これは何かと、以前に俺の問うた時、この部屋の主はこう答えた。


『ただの掛け軸さ。意味はもちろんあるが、僕や君にとってはないのと同じだよ』


 その意味を教えてくれよ、とさらに問いを重ねれば、アジカンだかバンプだか忘れたが、何やら唐突に小難しい話が始まったので、当時の俺は早々に理解を諦めたのだった。

 その奇妙な掛け軸を、もういちどしげしげと眺めていると、背後で襖の開く音が聞こえた。


「やあ、久しぶりだね、佳祐」


 それは、やはり一年半前の記憶と変わらぬ声で。

 振り返ることを躊躇った俺の様子を察してか、すたすたと俺の横を通り過ぎ、そのまま前へ来ると、優雅な所作で畳に直接胡坐をかいた。

 

 真白いシャツに、ダークグレーのスラックス。

 均整な体つき。

 微かにシプレーの香り。


「……お久しぶりです、時彦叔父さん」


 乾いた声が、俺の口から吐き出された。

 俺は畏れと戸惑いを持って、その男の顔を見上げる。

 今年で四十も半ばのはずなのに、まるで学生のような張りに満ちた顔。

 相対するだけで思わず委縮してしまいそうになる不可視の存在感パワー

 それは、幼い頃から幾度となく見た叔父の顔だ。それなのに、今日、その顔には、今までに見たこともない表情が浮かんでいた。


 いつもの、まるで興味のない対象を義務感や惰性で観察しているような、無機質で透明な視線とは違う、確かな温度を感じさせる眼。

 口元には春の陽射しを受けて咲いた花弁のようなあえかな微笑。

 それが、綻ぶように言葉を紡ぐ。


「すまないね、急に来てもらうことになってしまって」


 なんだ、この貌は?

 

 本当はもっと、疑問に思うことがあるはずなのだ。

 何故俺が叔父の家にいるのか。

 あの『虚ろな顔』たちはこの人の差し金だったのか。

 俺を気絶させた貞子との関係は?

 何故俺は拘束されている?


 けれど、そんな疑問がさも些末な問題であるかのように、俺の意識は目の前の叔父の顔に釘付けにされていた。


 奇妙な感覚だった。

 薄暗い照明一つだけの室内で、何故か叔父のいる空間だけが鮮明に網膜に映っている。

 まるで彼自身から光が発されていて、その光の中に自分の意識が吸い込まれていくような。

 引力。

 確かにそれを感じた。

 自分の意識だけに働きかける引力。重たい肉体の殻から、滲み出すように俺の意識が抽出されていく。


「佳祐」


 叔父のその声で、俺はほとんどトリップしていたような状態から帰ってきた。

 今、俺どうなってた?

 慌てて自分の体をまさぐろうとし、改めて両腕を拘束されていることを思い出す。


「気を付けなさい。そのまま転ぶと手を挫く」

「いや。じゃあこれ、解いてくれません?」

 そんな言葉が今更出てきたことに、自分でも呆れる。

 ていうか、これ、何で縛ってんだ? ロープとか手錠とかじゃない感じだけど……。


「ああ、勿論だ。用を済ませたらね」

 叔父は俺の言葉をさらりと流すと、やはりいつものそれとはまるで違う奇妙な微笑みを浮かべたまま、言葉を紡いだ。


「結束バンドというのは、スリープライスショップのメガネみたいなものでね」

「……はい?」

「誰だって鯖江のチタンフレームを使いたいが、当然予算が足りない。そういう人たちにとって手軽に買えて選択肢も少ないスリープライスはそれだけで魅力的だ。勿論耐久性や利便性は比べるべくもないが、値段なりだと思えば許容できる」

「いや、メガネのブランドとか知らないし……」

「鯖江は地名だよ」

「知らないですって……」


 ふむ、と一呼吸置いて叔父は再び口を開いた。

「要はそのものの価値を適切に把握する、ということさ。ロープは解けないように結ぶのには手順が複雑だし、手錠は鍵と対にならなければ使えない。その点、結束バンドは良くも悪くも手軽で使い勝手がいい。慣れてしまえば片手で扱えるし、逆に自分が拘束された際の脱出法も確立されてる。近年では、武装ゲリラや、彼らと敵対する民兵組織の間で流行していた時期もあったそうだ。……ああ、つまり何が言いたいかというと、君を拘束しているのは結束バンドだ」

「回りくどすぎる!!」


 俺の叫びが、だだっ広い和室の中に吸い込まれていった。

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