吐息

「あ。ああ~。なるほど、不二子にそんな感じのことを言われてたのね。ごめんごめん、まあ別に間違ってはいないわよ」

「……つまり正しくもないと」

「少なくとも私はそんな名乗りをしたことはないわ」


 苦笑する貞子の背に半分身を隠しながら頑なに視線を逸らし続ける不二子を、俺は半眼で睨みつけた。

「嘘じゃないし。ちゃんと『的な』ってつけたし」

「じゃあ、正式には何なんだよ、お前は」

「……」


 覗き込む俺の視線を、尚も不二子は躱し続ける。

 その触れただけで折れそうなか細い首筋の前で、貞子がひらひらと手を振った。

「こらこら。あんまり虐めちゃだめよ。どの道教えられないんだから」

「教えられない?」

「生きてる人間が知る必要のないこと、って意味よ。というより、こうして君と会話してること自体、ホントは禁止事項なんだから」

「え?」


 不二子がさらに首が捩じ切れそうなほど顔を逸らした。

 こいつ。俺の部屋であんだけぺちゃくちゃくっちゃべってたくせに……。


「死神的な、なんて名乗ったのも、不二子なりの譲歩なんでしょ。まあ、確かにカッコいいもんね、あの漫画」

「ああ、やっぱりそれは知ってるんだ」

「結構好きよ? ちなみに私は雨一派」

「はい?」


 その耳慣れない言葉に、ひょっとして俺の想像してるのと違う漫画なのかと訝しんだところ、彼女の後ろで不二子が盛大に嘲りの声を上げた。

「はっ。神聖な漫画を下らない妄想で穢さないでもらえる? 誰も求めてないのよ、そんなモンは」

 それを首だけで振り返ってみた貞子が、にんまりと口の端を吊り上げる。

「あらぁ? なにやら小鳥の囀りが聞こえるわねぇ。そういうあなたは何派なんだったかしら」

「決まってるでしょ、一茶よ!」

「ないわー! そのカプだけはないわー! ていうか見たことも聞いたこともないわー! 検索結果にも出てこないわー!」


 あ、これは俺が聞いちゃいけないやつだ。

 何となく謎のワードの中身を察した俺が静かに目を背けたのを他所に、ぎょろりとした目をさらに大きく見開いた不二子が貞子に食って掛かっていた。


「黙りなさい! あんたたちみたいに徒党組んで公害妄想垂れ流すメジャー共のせいで、私たちがどれだけ苦労してると――」

「あなたは多数派メジャー少数派マイナーっていうより、ただの単一ユニークだけどね」

「ちょっとカッコイイ言い方でディスるな!」


 仲良しなの?

 実に楽しそうにじゃれあう二人の女を前に、何故か若干の疎外感を感じた。

 なんだこれ。

 というかこの人、俺に聞きたいことがあるはずなんじゃ……。


 所在なく立ち尽くす俺の耳に、がさり、と草葉の擦れる音が聞こえた。

 冷や水を浴びせられたように、心臓が跳ねる。


 振り返った俺の目の前に、男が立っていた。



「ミツケタ」



 それは、汚らしい男だった。

 上をはだけた作業着姿で、汚れと染みの目立つ元は真白であったのであろうシャツは内側から張りつめる肉にぴっちりと伸ばされている。

 ぼさぼさの髪が目元までを隠し。

 その下に、見える顔は。

 のっぺりと弛緩した頬。

 半開きの唇。

 一切の表情を表さない、


 虚ろの顔だった。



「みつけた」


 

 一目見て分かるその異形の顔に、それまでのどこか弛緩した空気が一気に張りつめ、鼓動が早鐘を打つ。

 見つかった。

 今度こそ本当に。

 

(逃げる)

(何処へ)

(相手は一人)

(もう囲まれてるかも)

(立ち向かう)

(無理だ)

(逃げろ)

(直ぐに)

(何処へ)

(何処に!?)


 短絡的な思考が泡のように明滅し、ぐるぐると廻る。

 不二子の奴が騒ぐから……。

 さもしい思考が一瞬脳裏を過る。

 いや。どうなんだ?

 先ほど部屋に押し入っていた男たちも、最初不二子の姿は見えていなかった。

 こいつは?


 男の視線がどこを向いているのか、いまいち判然としない。

 それでも、その耳には、そのみすぼらしい全身の様相には似つかわしくもないワイヤレスホンが装着されている。

 まずい。仲間を呼ばれるのか?

 というか、そもそもこいつに不二子たちの姿が見えていようがいまいが、今は関係ないではないか。


 パニックを起こしかけた俺の眼前に、とろりとした金色の髪が躍った。


 …………え?

 

 軽やかな足取りで、ジャージ姿の美女が男に近づいていく。

 やがてそのみすぼらしいシャツの袖に手をかけ、逆の手を首筋に回す。

 まるで恋人に抱き着くかのようなその仕草に、男は何の反応も示さない。

 その姿が見えていないのだ(そして、やはり貞子も不二子と同じ、『人ではない何か』なのは確からしい)。


 やがて、その艶やかな唇が、男の耳元に運ばれ。

 触れるか触れないか、ぎりぎりの場所から。


 ふぅ。


 と、吐息が吹き込まれた。


 男の肩が揺れ、その虚ろな視線が、ぐるりと裏返る。

 白目を剥いた男は糸の切れた人形のように膝から崩れ、地面へと倒れ込んだ。

 

 それを見下ろした貞子は、少し厚めの唇をぺろりと舐め上げ、呆気にとられた俺に、妖艶な流し目をくれた。


「さて、それじゃ改めて、お話聞かせてもらおうかしら、佳祐くん?」


 俺は、自分の顔から血の気の引く音を聞いた気がした。


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