二人

 そこから先のことは、よく覚えていない。


 俺は四方八方から向けられる虚ろな視線と、大小様々に伸ばされる腕を振り切り、殆ど狂乱しながらひたすらにアスファルトを駆け続けた。

 そして気づいた時には、小学生の頃によく遊んでいた、校庭ほどの広さを持つ近所の公園へと逃げ込み、その外縁の茂みの中へと転がるように身を隠していた。

 一切の身動きを封じて息を潜めようとするが、街中を散々に走り回った体が酸素を欲し、徐々に意識に靄がかかってくる。それでいて己の心臓の鼓動がうるさいくらいに頭蓋に響き、この音が原因で見つかるのではないかという恐怖が吐き気と共に胃の腑から昇ってくる。


 一体どれ程の時間、茂みの中に身を伏せていただろうか。

 周りに人がいないことを念入りに確かめた後も、俺は膝を抱えて座り込んだまま、その場を動くことが出来なかった。

 

(これから、どうすればいい……?)


 深夜の街で、見ず知らずの人間がまるで幽鬼のような虚ろな表情のまま、自分一人を狙い襲い掛かってくる。

 意味が分からない。

 どう対処すればいい?

 そもそも、どうすれば対処したことになるのだ?


 どこかへ逃げる?

 今更自分の家には戻れない。第一、現状で安全な場所なんてあるのだろうか?

 逃げた先でまた、あの虚無色の顔を見るだけなんじゃないのか?

 なら、ここでこのまま朝まで耐えるか?

 いや。朝になればこの怪事が終わる保証などどこにもない。

 寧ろ今の俺にとっては、人の往来が増えることが怖ろしい。


 いつもの通学路。

 道行く全ての人々が、また一斉にあの虚ろな目で俺を見てきたら?

 

 その想像は、腹の底に溜まっていた吐き気を強く突き上げた。

「んぐっ……んん。ぐ……」

 口内に涌いた胃酸の味を無理やり飲み下す。

 喉が焼ける感覚。

 脂汗が滴り落ちた。


 更には、そんな俺に追い打ちをかけるように、後ろから声がかかる。


「あのぉ……さ。私、そろそろ帰ろうかなって、思うんだけど」

「…………はぃ?」


 後ろを振り返ると、フリルたっぷりのワンピースを膝ごと抱えたまま、不二子が慌てて俺から目を逸らした。

 ぎょろりとした黒目が泳ぐ泳ぐ。

 

「あのさ、え? 嘘だろ? なあ、この状況で?」

「いや、だって。私いたってしょうがなくない?」

「待って、ホント待って。お願いだから。え? ホントに心当たりないの? なあ。絶対何かあるって。お前の側の問題だって、これ」

「知らないってば! 初めて見たわよ、あんなの」


 噛みつきそうな顔でこちらを睨んで来る不二子は、とても嘘をついているようには見えない。

 俺はますます混乱した。

「でも、ほら。あの……幽霊! お前が退治した幽霊と似たような感じじゃん」

「だから何よ? あいつら生きてんじゃん。じゃあ幽霊じゃないじゃん。じゃあ私関係ないじゃん!」

「いや、だからぁ!」


 そうは言っても。

 だから、の後に続く言葉など、あるわけもないのだ。

 相手がたまたま自分の知らないことを知っていたからといって、他のことまでなんでも知ってるわけじゃない。

 不二子の口から『知らない』と言われてしまえば、俺からそれ以上言えることなどない。

 知らないことを『何で知らないんだよ』と言われたって、向こうにとっても理不尽だろう。


「…………悪かったよ」

「いや、まあ……いいけどさ」

 俺は立ち上がりかけた姿勢から、気の抜けた風船のように再び地べたへと腰を下ろし、深々と溜息をついた。

 

 真面目な話、一体俺の身に何が起こっているというのだろう。

 真夜中に死んだはずの男が幽霊となって現れ。

 それをナイフで刺し殺した女がそのまま部屋に居座り。

 同じアパートに住む隣人が訪ねてきたと思ったら、幽霊そっくりの表情でスタンガンを向けられ。

 逃げ出した先で町中を歩いていた見ず知らずの人間から追いかけ回される。


 ああ。

 そうだ。

 俺は確かに、一人の人間の死を願った。

 そいつは俺の望み通りに死に、蘇り、また死んだ。

 

 これが、その報いだというのか?

 これが俺の因果のはて


 人を殺すということについて、俺はこの一年半で散々に考えた。

 朝起きてから、夜寝るまで、寝ているときは夢にも見て、俺はずっと考えていた。


 何故人を殺してはいけないのか。

 悪人ならば死んでもいいのか。

 俺に人殺しの罪を背負う覚悟はあるのか。


 そんな問いに、答えが出ることはなかった。

 なので、いつしか別のことを考えるようになっていった。


 人が死ぬとはどういうことなのか。

 どうなれば死んだことになるのか。

 自分がその人間を殺したと実感できる瞬間とは?

 刺殺。撲殺。扼殺。斬殺。毒殺。絞殺。焼殺。轢殺。

 色とりどりの人の殺し方。


 そんなことばかりを、四六時中考えるようになっていた。

 俺はもうとっくに、人としては壊れてしまっていたのかもしれない。

 人ではないなら、人でなし。

 人でなしの最期というのは、こんな訳の分からないものなのだろうか。


 いや。


 それにしては、部分が多い。

 あの虚ろな顔の男たちは、俺の身柄を拘束することに目的を終始させているように思えた。

 最初に目にしたスタンガン。

 あの時は咄嗟のことでパニックを起こしてしまっていたが、何か違法な改造をしているのでないかぎり、あれは殺傷性のある兵器じゃないし、手に入れようと思えば通販でも売っている(この辺りは、殺人予習の際に仕入れた知識だ)。

 ならば、あの連中は俺をどうするつもりだったのだろう。

 ひょっとすると、この事態を解決……とまではいかなくとも、一体なにが起きているのかを知るための鍵は、その辺りにあるのではないだろうか。


 そんなことをつらつらと考えていた俺の視界の端に、こちらの様子を伺いながら、気まずそうに両手を揉んでいる不二子の姿が見えた。

 こいつ、帰るタイミングを計ってやがる……。

 さっきは夜明け前まで帰れないとか言ってたくせに。


 ここで彼女に立ち去られては、いよいよ俺は孤立してしまう。

 では彼女がいて何か実際的な助けになるかと言われれば微妙なところだが、それでもこの状況で話す相手が一人いるのといないのとでは雲泥の差だ。

 俺が何とか彼女を引き留める言葉を探していた、その時だった。



「みいっつけた」



 そんな声が。

 頭の後ろから聞こえた。

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