逃走

 暗く重たい夜空だった。

 薄く張った雲が住宅街の中からも辛うじて見えるはずの星影を隠し、病人のような青白い月明りをその輪郭ごとぼやけさせている。ブロック塀が、街灯が、アスファルトが、昼間の茹だるような熱気をいまだに宿し続けているように、街全体がじんわりとした重苦しい空気に満ちていた。


「いない」

「いない」

「次は」

「次へ」


 静まり返った夜の街に似つかわしくもない、どたばたと走る数人分の足音と、ぼそぼそと交わされる譫言のような言葉が、漣のように寄せ、引いていく。


 俺はそれを、公園の茂みに隠れてやり過ごしていた。

「行った、か……?」

 恐る恐る首だけを持ち上げて辺りを見渡すが、まばらに灯る街灯以外に光源もない夜闇の中では、確かなことは分からない。

 足音は絶えたようだが、後ろを振り向けばすぐそこにあの虚ろな顔が浮かび上がっているのではないかと、嫌な想像が脳裏をよぎる。

 首の付け根が粟立つような恐怖が、べったりと張り付いて離れなかった。


「うわっ。虫! 虫いる、虫!」


 まあ、実際に背後にいるのは、呪詛のように重たく垂れさがる黒髪を振り乱し、ばたばたと蛾を追い払うワンピース姿の女なのだが。


「頼むから。静かに。してくれ」

 俺が泣きそうな顔で不二子の肩を掴むと、その骨ばった腕がびくりと震え、同じく涙目の顔がこちらを睨みつけてきた。

「うるさいわね。何で私がこんなとこに隠れなきゃなんないのよ。今すぐ私をクーラーの効いた部屋に帰して。あとこの虫なんとかして!」

「ふざけんなよ。お前こそあの連中なんとかしろよ!」

「はあ!? 何で私がなんとかすんのよ。追いかけられてんのあんたでしょ!? 私を巻き込まないで! あとこの虫なんとかして!」

「あれがまともな人間のわけねえだろ! 絶対お前の側の何かだろ!」

「違うって言ってんでしょ。ご近所中に追いかけられるとか何やらかしたのよ、あんた!? 早く自首しなさい、自首! その前にこの虫なんとかして!」

「あああもう!」


 俺はしつこく不二子の髪の周りに纏わりつく蛾を両手で叩いて潰すと、短パンの端でごしごしと手を擦った。

 僅かな体液と大量の鱗粉が染みを作る。それを見た不二子が心底気持ち悪そうに身を引いた。

 お前がなんとかしろって言ったんだろ……。


「……で? これからどうすんのよ、あんた」

 俺からきっちり体二つ分の距離を開けたまま、不二子が問いかけた。

 フリルのたっぷりとあしらわれたワンピースの裾を巻き込んで膝を屈め、上目遣いに(呪殺されそうな視線だ……)こちらを見てくる。


「はあ。どうすっかな……」

 俺は尻が汚れるのも構わず、草むらに直接腰を下ろし、膝に顔を押し当てるようにして俯いた。

 抱えこんだ膝が熱い。

 顎を伝った汗の雫が二滴、三滴、草の上に垂れた。


 たった数分前のこと。

 俺の部屋に突如押し入った男たちから逃れるため、俺はベランダから外に飛び降りた。

 こんな言い方をするとまるで映画さながらの颯爽としたアクションシーンをこなしたかのようだけど、実際には今にも折れそうなアパートの雨樋にしがみつき、隣の一軒家の倉庫の屋根にへばりつき、最終的には足を踏み外して転げ落ちるという無様な姿で俺は地面に降り立った。

 ちなみに不二子は「無理無理無理。飛び降りるとか絶対無理」などと喚いていたところ、俺が「お前飛べるんじゃないのかよ!」と叫んだ途端に「あ、そうだった」と宣い、ティッシュペーパーのようにふわふわと俺の横へ着地していた。


 そして、縺れる足を懸命に動かし路地へと飛び出た俺の目の前に、先の男たちと全く同じ表情をした肥満体型の中年男が現れ、全く同じように俺に掴みかかってきたのだ。

 今度こそ、本当に知らない男だった。

 俺は悲鳴を上げて尻餅を付いた。

 そんな俺の醜態にも顔色一つ変えず、男はでっぷりと突き出た腹を揺らして倒れ込んだ俺に腕を伸ばしてきた。

 遮二無二それを振り払うと、俺は脱兎の如くに駆けだした。

 それに並走するように、長い髪をゆらゆらと揺らした不二子が宙を飛んでくる。


「なにあれ、きもっ」

 その呑気な声に反応する余裕も、その時の俺にはなかった。

 後ろから追い縋るどたどたという足音を背中に聞きながら、それを必死に引き剥がす。

 自分がどう手足を動かしているかも分からないまま、それでもほんの欠片ほどへばりついた理性の働きで、俺は少しでも大きな通りへと向かった。

 平時ならば近所の小学校の通学路にもなっているその通りは、街灯が規則正しく並び、いくらかの車通りもある道だ。

 俺が息も切れ切れに角を飛び出すと、目の前にが見えた。


 重苦しい真黒の夜天の下、ぼんやりと灯る薄黄色の明かりに照らされた、背広を着た男。つなぎの作業着の男。大学生風の男。ジャージ姿の金髪の女。などなど。

 これだけの人目があれば、流石にあの男たちも無茶な真似は出来ないだろう。

 誰でもいい。誰かに、助けを――。


(いや……おかしいだろ)


 一瞬安堵した俺の思考がすぐさま警鐘を鳴らす。

 今何時だ?

 どうしてこんな深夜にこれだけの人間が外を出歩いてる?


 そして。


 年齢も性別もばらばらの通行人たちが、一斉に俺に顔を向けた。

 

 ……その、一切の表情が失われた虚ろな顔を。

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