過日

 人を殺したいと、思ったことはあるだろうか。


 目の前の嫌なヤツを。教員を。クラスメイトを。親を。兄弟を。ただすれ違っただけの赤の他人を。


 殺してやる。

 死んでしまえ。


 そんなことを思ったことが、ないという人がいるだろうか。

 とてもありふれていて、いっそチープにさえ聞こえるそんな感情ことば。それでいて、実現されることのとても少ない感情おもい

 

 みなさん、人を殺したいと思ったこと、あります?


 俺はある。

 いや、



 俺は、両親とは死別している。

 母親とは幼い頃に。父親とは最近に。

 今の住まいであるこのボロアパートは、母方の叔父の名義で借りているのだ。


 母親のことは、正直覚えていない。

 遺影に映った写真を見ても、これがお前の母親だと父に言われたからそうと知っているだけで、具体的な思い出はほとんど残っていない。

 ただ、物心ついたばかりの俺の手を握り歩く彼女の、ふわふわと揺れる長いスカートの香りだけが、微かに記憶の片隅を占有して、こればかりはいつまでも忘れることができないのだった。


 母は専業主婦だった。

 ある平日の昼下がり、いつものように家事をこなしていた母親を、四人組の男たちが襲った。

 幼い俺は縛り上げられて転がされ、男たちは母に暴行を加えようとした。

 母は抵抗し、その時の弾みでテーブルの角に頭を打ち付け、意識を失った。

 その時たまたま隣家の住人が回覧を持ち寄ってインターホンを鳴らし、男たちはベランダから逃げ出した。

 母はすぐさま病院に運び込まれたが、結局意識を回復させることなく、そのまま帰らぬ人となった。


 男たちは捕まった。

 彼らは全員高校生で、違法薬物の常習者であり、母は4人目の犠牲者だった。

 強姦。傷害致死。

 それでも彼らは実名を公表されることもなく少年院に送られ、僅か数年で社会に解き放たれた。

 俺は事件当時のショックで記憶障害を起こし、母との思い出を殆ど失っていた。


 父はその後、一人で俺を育てた。

 父は無口で不愛想な人間だったが、俺のことを深く気遣い、常に護ってくれた。

 おかげで俺は反抗期を迎えることも出来ずに中学を卒業した。

 卒業祝いに連れて行ってくれた高級なレストランで、父は珍しく酒に酔い、母との思い出を俺に語ってくれた。

 あの時、父の細い目の端に浮いた涙の粒が、店内の慎ましやかな照明を写し取って光った瞬間を、俺はいまだに覚えている。

 

 その頃から、父の様子がおかしくなった。

 夜の帰りが遅くなり、休日に家を空けることが増え、何やらよく分からない連中と付き合い出し、思いつめたような表情で仏壇の前にじっと座り込んでいるようになった。


 俺が高校に入学してしばらく立った日の朝、テレビのニュース番組で、若い男が公園で刺殺されたことが報じられた。

 それは、父が会社の出張で一週間家を空けていた次の日のことで、そのニュースを見る父の顔は真っ白に凍り付き、かたかたと、その手に握った箸を震わせていた。


 父はますます無口になり、母の仏壇の前に座ることをやめた。

 その後も同じような事件の報道が数か月置きに二回なされ、その度に父の顔色は悪くなっていった。


 そして、俺が高校一年の終わりを迎えた日、父は通勤中の駅のホームで倒れて死んだ。

 急性心筋梗塞だった。


 葬儀やら何やら、法的なあれこれについては、母方の叔父が全て引き受けてくれた。

 俺は呆然としたまま途方に暮れ、それでも何かに惹かれるようにして、遺品を整理するために父の寝室を開いた。

 仕事人間だった父の、殺風景な私室の中にあった、一つの段ボール。

 その中の分厚いファイリングノートには、四人の男の写真が載っていた。

 そのうち三つには上から赤いインクでバツ印が重ねられている。


 それは、その一年の間に殺され、実名によって報道された若い男たちの写真であり、かつて俺の母親を襲い死に至らしめた高校生たちの、現在の姿であった。


 俺はそのファイルに載った男――バツ印のついていない最後の男の顔を、穴が開きそうなほどに凝視した。

 こけた頬。整髪料のつけすぎで針金のようになった薄い色の髪の毛。鋭利に剃り込まれた眉。

 俺の人生を狂わせた男の顔を。


 そしてファイルの中の、その男の現在の住所や、行動範囲、家族関係や交友関係などが事細かに記されたページを手繰り、その情報の全てを脳みそに染み込ませていった。

 俺は自らの胸の奥に、青白い炎が灯るのを意識した。

 ファイルを読めば読む程、まるで薪をくべるように、その炎はめらめらと燃え立ち、やがて、俺の体を操り動かし始めた。


 その後、一緒に暮らさないかという叔父の誘いを断って、俺は両親の建てた家を売り払い、このボロアパートの一室を借りた。


 高校生の身空で一人暮らしなどというと、何かと大変だろうとか、気楽で羨ましいとか色々と言われるものだけれど、俺にとっては必要があるからそうしているだけのこと。生活における不便も利便も、特に意識したことはなかった。


 そう。

 必要があるからそうしていた。


 互いに無関心なアパートの住人たちは俺の顔などろくに覚えてもいないだろう。

 俺が深夜に外出しようと気にするものは誰もいない。

 俺が部屋の中で何の準備をし、何の練習をしようと、見咎めるものもいない。

 父の遺した最後の仕事を、邪魔するものはいなかった。


 これは後から知ったことだが、父が亡くなる前に交流を持っていた謎の男たちは、あの高校生グループたちに強姦された被害者たちの家族だったそうだ。

 彼らは互いに連絡を取り合い、奴らに関する情報を共有していた。

 俺は彼らの集めた情報を横から掠め取り、ただ一人きりで、入念に準備を進めた。


 そして、昨日の晩。


『ふざけんなよ! 何年前の話してやがんだ! 大体レイプされたぐれぇでガタガタ言ってんじゃねえよ! そ、そもそも、あれは事故だ! 俺は、俺は悪くねえだろうが!』


 ……それが、あの男の最期の言葉だった。

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