いつかのあの日《三》
「なん…で……、すって……」
上界の南東に位置する
「皇様は、そのまま
あまりの
「なぜ、紫微宮に」
「血まみれだったのです。
離宮の窓から、
「あぁ……、御嬢様」
大事にしていた沙麼蘿は亡くなり、皇も紫微宮に連れて行かれたと言う。
今までは、鶯光帝の妹であり皇の母親である
「一体、どうすれば」
ままならぬ考えの中立ち尽くす花薔の耳に、中庭から二頭の
「
『あぁ…、悲しい……。なぜ奪う、私の大切な者達を。
誰かの泣き声と共に、ポタポタと目の前の桜から、赤い光り輝く粒のような物が落ちてくる。まるで、満開に咲き誇る桜の木から
「
それはまるで、桜の泪だった。美しい薄い桃色の花を咲かす桜の大木が、嘆きに震え、真っ赤な血の泪を流しているように花薔には見えた。
花薔は桜の木の下へ足を進め、根元に落ちていた赤い粒を手に取った。透明だが、真っ赤な血のような色で、だがキラキラと輝き、どれも皆桜の花弁の形をしていた。
「これで、皇様をお救いできます。感謝致します、天上の桜よ」
花薔は、落ちてくる真っ赤な泪の粒を拾い集めると、
「入れていただけますでしょうか。今、紫微宮は大変な騒ぎでございます」
幾多の兵が逝ったのだ、当然のことだろう。だが、なんとしても鶯光帝に会っていただかねば。花薔がそう決意した時、そろりと二頭の大神が彼女の両端にやってきた。
「一緒に、行ってくれるのですか」
大神達が頷く。この大神は、下界の狼とは訳が違う。仏界に住む神の使いであり、あの
「お願い致します」
一人と二頭は、急ぎ紫微宮へと向かった。
「何故
鶯光帝の声が、紫微宮に響きわたった。
「鶯光帝、花薔仙女が参りました」
扉の外で、
「今はそれどころではない。女仙の相手など、してはおられぬ」
“追い返せ”と言わんばかりの鶯光帝の言葉に、“ですが…”と戸惑いの色を見せた後
「大神を連れて参っております」
と、声が返ってきた。
「この、大事の時にか」
「花薔、なんとした」
玉座に座る鶯光帝の
「桜が……。蒼宮のあの桜が、泪を流したのでございます」
「なんだと!」
鶯光帝は
「こちらを」
花薔は、
「なんだこれは! これは泪などではない。血だ、あの
と、声を
「桜が、泣いていたのでございます。何故、愛しい子達を奪う……と」
“まさか”と、鶯光帝は平伏する花薔を見た。
「愛しい子……達、だど。それは……」
平伏したまま、顔を上げることもなく、花薔は答えた。
「沙麼蘿
一瞬押し黙った鶯光帝だが、静かに玉座に座ると
「皇を蒼宮に連れて帰れ。今、すぐにだ!」
と、言った。そこには“面倒ごとは御免だ”との意思が込められている。
「はい。確かに
花薔は深く頭を下げて、玉座の間を退出していった。
鶯光帝は玉座に身体をあずけると、静かに吐息をはく。蒼宮の桜を初めて見た時、あまりの異様な姿に、全身が
赤紅は
そして今日、また赤紅が舞った。兵達が流した赤紅、沙麼蘿が散らした赤紅、皇の赤紅に染まった
「鶯光帝、この桜の泪
近づいてきた側近に
「下界に下げ渡せ」
とだけ、鶯光帝は答えた。それは、この上界にあってはならぬ物。この世界を、混沌に導く物だ。
「よろしければ、一度こちらでお預かり致しましょう」
穏やかな笑みでそう声をかけてきたのは、
「よい、のか」
「事情はかの者より聞き及びました。一度仏界にて、浄化致しましょう」
側近から桜を受け取ると、観世音菩薩はそれを
「頼む」
誰もいない部屋に、鶯光帝の声だけが響いた。
********
ここからは、聞きなれない言葉の説明です。
女仙→女性の仙人
斑→違った色が所々にまじっていたり、色に濃淡があったりすること・ぶち。ここでは様々な種族の血が混ざりあうこと
大神→上界に住むオオカミ
横死→事故や殺人などの不慮の死
早世→若い時に死ぬこと
夭逝→年わかくして死ぬこと
踵→かかと
平伏→両手をつき頭が地面につくほどに下げて礼をすること・ひれふすこと
妖樹→人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす不思議な力を持つ非日常的、非科学的な樹木
粟立つ→恐怖や寒さなどのため毛穴が収縮して皮膚一面に粟粒ができたようになる・鳥肌が立つ
猩々緋色→緋(あけ)のなかでも特に強い黄みがかった朱色
序章は次回で終わりです。8日までには更新できるといいな。
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